2012年3月30日金曜日
仲哀天皇の行動範囲
《仲哀天皇の行動範囲》
「仲哀天皇の行動範囲」
その父・但馬太耳(タジ)と、
孝霊天皇の「太瓊(タニ)」が同じものであることも
「二・児」の発音に<ジ>とがあることを知っていれば簡単に理解できる。
それは<種子島>を<タジガシマ>と読む人と、
沖縄発音で「タニガジマ」と呼んだ人の差である。
天皇の名乗りの最後は都の地名であることは倭の五王の名乗りで
讃は讃岐、
珍は<チヌ>=淡路島の津名、
興は河内、
武は高市と揃っていて明らかだから、
これで孝霊天皇は種子島に都していたのだと、確認できたのである。
後に天武天皇が種子島人を特別待遇し、
世人も
「橘(種子国人(タチバナ))は、己(おの)が枝々実(な)れれども、
(自分の利益を追及して、どんなにひどく闘争していても、
最後には結局)一つ緒に貫(ぬ)く。
(種子島人だけで固める)」
という戯(ざ)れ歌
(批判歌謡=河内音頭のような、当時の流行歌)が流行ったと
『日本書紀』が書くほどに、
大和政権の中枢は種子島出身者が独占していた。
それは
この孝霊天皇→卑弥呼以後も、
垂仁天皇=卑弥呼の弟・稚武彦、壹與(赫夜姫・神功皇后2)、
応神天皇→仁徳(讃)系天皇たち、
継体天皇(応神天皇5世孫)から斉明天皇までの倭国天皇が、
紆余曲折はあるが、
<種子島系の豊玉姫の子孫>であることは、
世人が明瞭に認めていた事実だとわかる。
そして天智天皇も天武天皇もまた、
その資格には欠けていなかったことが確認できる。
天皇家が種子島出身であることは動かない事実なのである。
太耳・太瓊が同じ地名で、種子島。
播磨は卑弥呼以後に生まれた国だから巴利国のことだと決まると、
若狭も福井県ではありえない。
神功皇后2=壹與が戦った相手、
卑弥呼政権の籠坂王は鹿児島=薩摩王で、
忍熊王は大之隈(オシクマ)王=大隅王だったのだから、
若は稚(わか)で稚(チ)ヌ国=天国=ウチナ=沖縄、<狭>は<タンネ>で種子島、
この間(かん)の領地を意味する。
但馬も後世に種子島人が移住したあと生まれた地名だから、
日槍が行った但馬は種子島(タジマ)以外ではありえない。
天の<日槍>の<ヒホコ>は、火火子と書けるから、
神武天皇=垂仁天皇の彦火火出見尊の火火で、
<彦>・<火子>は日向(ヒコ)、
出見(イヅミ)は出水、
または<ヒ>は<日向>、
<ホ>は百済(ホセイ)の首=<ホ>で、
豊玉(ホツマ)の豊。
大分が豊の国になる前だから、
いずれにしても南九州以外ではありえない。
仲哀天皇・天の日槍・天の稚彦・都怒我阿羅斯等・蘇那易叱智の行動範囲は、
沖縄から九州までに厳しく限定されている。
これらを本州の地名だと錯覚した解説は、全て役には立たない。
すると角鹿(チヌカ)も大隅発音、福井県の敦賀(つるが)ではなくなる。
若狭や敦賀は近畿に倭国が進出した後、新たに生まれた地名であって、
とても卑弥呼以前には存在しえない地名だからである。
石器や土器の製作年代が考古学説の生命を左右するのと同じで、
史学も地名や国名の年代が重大な意味をもっている。
在来のような粗雑な考えでは、
正確な史実は絶対に掴めない。
では角鹿はどこが正しいのであろう?。
<角>・<ツノ>は沖縄発音<チヌ>。
若が稚(チ)で稚(チ)ヌ=天(チヌ)=ウチナ=沖縄の古名だったのと同じこと。
鹿(カ)は鹿屋(かのや)が鹿国(カのヤ)である。
「沖縄に属していた鹿国」という意味とみると、
都怒我阿羅斯等は沖縄・鹿屋の現人神=天皇という意味になるから、
この<ツルカールニン>を「ツヌカ、アルヒト」と読んだ読み損ないが、
「<アルヒト>とは現人(アラヒト)のことで<現人神>のこと、
これは<アラヒトガミ>と読むのが正しい」という解釈者がいて、
「ー(ア)ルニン」が「アラヒト→阿羅斯等」という表記まで
変化してしまったことも判る。
その犯人は、<ヒト>を<シト>と発音しているから、
大隅人だったことも動かない。
これで仲哀天皇は本州へ行っていないことが明確になったが、
その名乗りには問題がある。
『古事記』は帯中日子天皇と書くが、
これは神功皇后の息長帯姫の「帯」が、
当時の<韓国>を指す「帯方」だからである。
これは『日本書紀』が足仲彦天皇と書き、
『日本書紀』が皇后を気長足姫と書く
「足」を同じ発音の「帯」に変えただけに見えるが、
天皇のほうの<足仲>は明らかに<ソナカ>への当て字で、
<タラシ>と読むものではない。
皇后の<息長>も明瞭に<ソナカ>への当て字で帯姫の帯は余分なのである。
すると蘇那曷叱智は任那、
都怒我阿羅斯等は意富加羅(おほから)、
天日槍は新羅と、皆、朝鮮半島出身になっていることを、
無視するわけにはいかない。
それは不思議でも何でもない。
朝鮮半島は、故に宝貝貨幣を供給した時代から、
沖縄から九州を経て高句麗まで、
1国と言っていい状態にあった。
最小限に限定しても高句麗は間違いなく<コウリー>(宝貝)の国で、
漕ぐ人(コグリョ)の国。
シュメルから来たたカリエン=カルデアンの国で、
<スメラギ>を首長と仰ぐ人たちの国の1部だったのである。
その高句麗が前漢の侵略を受けて漢の4郡にされ、
漢が衰えた後漢末に公孫康が今の黄海道と京畿道とを帯方郡にして
<京城>(ソウル)に役所を置いて支配した。
しかしそれ以外の各道は依然として倭国政権の支配下にあったことは変わらない。
それを倭人たちは全て<帯方>と呼んでいたから、
神功皇后も「帯」を加えて息長帯姫と名乗ったのである。
ところが夫の仲哀天皇の足仲彦(ソナカ)(紀)は<ソナカ>皇子ということで、
帯中日子(記)は書紀の当て字を<足>から<帯>に変えただけのもの、
ソナカ皇子と読むことさえ知らない。書紀を真似たくないと、
ただ闇雲(やみくも)に文字を変えただけだし、
その変え方も、足仲彦を<タラシナカツヒコ>と読んで、
正しい名すら知らなかったことを暴露している。
我が国の古代史上、
最も重要な人物の天照大神で
卑弥呼で神功皇后だった女性の夫の名さえ知らない
そんな『古事記』を、
「絶対だ。本当の正史だ。神典だ」
と主張した連中の、無知さ加減がよく判ると思う。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学院講義録29:14~17頁」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
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《参考》
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