古代史つれづれ
2012年4月26日木曜日
陸奥・道後
《陸奥・道後》
「陸奥・道後」
ウィキペディア百科事典によれば
「陸奥国(むつのくに)は、明治以前の日本の地方区分である国の一つである。
範囲は本州の北東端にあたる
今日の福島県、宮城県、岩手県、青森県と、秋田県北東の鹿角市と小坂町にあたるが、
明治時代初期に行われた分割によって青森県と岩手県二戸郡にかけての地域に縮小された。
奥州(おうしゅう)とも呼ばれた。延喜式での格は大国、遠国。」
と書かれている。
※出典:Wikipedia:陸奥国
「陸奥」は
「むつ」「みちのく」「みちのしり」と読むことは知られているが、
どれもがその漢字とは馴染まない読み方である。
だからこれもヤマト政権がむりやり変えた発音である。
なぜ、変える必要があったのか?
この謎を追ってみよう。
奥州というのがその略称だが、これは「オウシユウ」と読む。
だから陸奥は「リクオウ」である。
この「リク」は鹿児島語なら「琉球」のことだから「琉球王」になる。
また沖縄語なら「オウ」は「ウ」だから「リクウ=琉球」なのだ。
こう説明すると「コジつけだ」と思うかたもありそうだが、
この「リク」という発音が正しいという証拠が残っている。
それは陸奥を、文字とは無関係に「ムツ」と発音していることである。
<ムツ>とは一体なんのことか。
それは数字の「六」のことである。
その六の古代発音は<ロク>ではなくて「リク」だった。
だが<リク>では琉球だとすぐわかるから「ムツ」と読ませるように強制したのである。
また<リクアウ>と書けば「六合」とも一致する。
では「ミチノシリ」のほうはどうなるか。
これは漢字を当て字すると「道後」になる。
愛媛県松山市にある温泉で有名な町の名と同じになる。
そこは倭国が長く栄えた倭国の中心部だった。
琉球から出た倭国だから、そこに当然、
「リク=琉球」という地名の町があったことは容易に推察がつく。
ヤマト政権が、
四国にそんなものを残しておきたくないのは、
東北のはずれの段ではない。
だからリクをムツと変えたぐらいでは気がすまない。
そこで陸奥を、
さらに読み変えた道後(みちのしり)と当て字して、
琉球の片鱗も残らないようにしてしまったのである。
※出典:加治木義博「YAMATO・KKロングセラーズ:166~167頁」
『参考』
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2012年4月25日水曜日
六合「くに」
《六合「くに」》
「六合「くに」」
天照大神の誕生の記事によれば、
卑弥呼は沖縄の伊是名(いぜな)島で生まれましたが、
彼女は
「光華(こうか)明彩で六合の内に照り徹(とお)っていた」
と書いてあります。
そのため両親である
伊是名王(イザナキ)、
伊是名女(イザナミ)の神が、
こういったと書いてあります。
「わが子はたくさんいるが、
こんなに霊異な児ははじめてだ!……ここに永く置いてはいけない。
早く天に送って天上の仕事をさせよう!……」
これが「大日霎貴(オオヒルメノムチ)」で、
一書には「天照大神」と書いてある、
という書き加えもありますから、
のちに天照大神になった卑弥呼に一致するのです。
この[六合(りくごう)]とは
中国では本来、四方、八方といった方角を示す言葉なのですが、
日本では『記・紀』以後[国・天下]の意味で使われているとみると理解できます。
[神武紀]にも「六合の中心か」という言葉が、
やはり[国]の意味で出てきますし、
太安万侶(おおのやすまろ)が書いた
『古事記』[序文]にも、
「乾符(けんぷと)を握(と)って六合を總(す)べ」という文章がありますが、
これも日本の国のことです。
古代日本人は国のことを[六合]と呼ぶ習慣をもち、
それを不思議とも思わずに、
ふつうの言葉として常用していた。
一体なぜ[六合]を「くに」の意味に使ったのでしょう?。
卑弥呼当時の呉には[六合県]という県がありました。
それは沖縄から東シナ海を隔(へだ)てた「向い側」です。
日本語の[コチラ]は[高津国]を沖縄から大隅の訛(なま)りで
「コチラ」と読んだものに一致することがわかっています。
この[コチラ]と相対的な言葉[ムコウ]も、
同じ沖縄で生まれているはずですから、
そこから海をへだてた向い側に=六合県]があるとしたら、
[六=ム][合=コウ]で、ぴったり[向こう]と同じ発音になります。
そして事実、
その六合県は沖縄からみて完全に「向こう」といえる位置にあるのです。
この二つの日本語は、
間違いなく沖縄生まれであり、
その人々は[六合県]の存在をよく知っていたということになります。
そしてそれは単に知っていたというだけではなく、
もっと強く親しみのある知り方です。
日本語で[クニ]といえば、
「クニのおっ母(か)さん]
[クニヘ帰る]の
クニは[故郷=出身地]のことです。
[六合]は[国家]の意味ではなく、
[故郷]のことで、
その言葉を使った人々は[六合県出身者]だったということがわかります。
※出典:加治木義博「日本国誕生の秘密・徳間書店:163・164頁」
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麒麟
《麒麟》
「麒麟」
ウィキペディア百科事典によれば
「麒麟(きりん)とは中国の伝説上の動物。
鳥類の長である鳳凰と並んで、獣類の長とされる。」と書かれている。
※出典:Wikipedia:麒麟
麒麟は牡が麒で、
牝が麟だとされているが、
黄と麒はどちらも「キ」という発音をもっている。
ただし黄を<キ>と発音するのは日本語だけ、
これも、
この五彩圏鏡は我が国の『五彩圏』文化が中国に入った後の作品だという証拠で、
隋唐はギリシャ系大隅人が支配した国だったという強力な証(あか)しなのである。
麒麟は腹が黄色、
それが背の方へ次第に光沢を増して玉鱗になるとしている。
その姿は、
ビールの商標になっているお陰で、
我が国では誰でもよく知っているが、
その足は鹿や馬と同じ偶蹄(ぐうてい)類のもので首が長い。
そこで始めてアフリカ産の獣・ジラフを見た日本人が、
それにキリンという和名をつけた。
ところが今それをみると、
ジラフは黄土色、
すなわち黄色の毛をもった唯一の偶蹄類なのである。
この命名は偶然とは思えないほどで再考の余地がある。
もっとも我が国の動物園で普通に見られるのはアミメキリンで、
褐色の四角い斑点が大きくて、
肝心の地色の黄は細い網状になり、
褐色の方が地色のように見えるが、
ケニアにいるマサイキリンは斑紋が不規則で網目になっていないから、
肌色は黄色だとよくわかる。
麒麟は、
あくまで中心がギリシャであることを表現するための、
ギリシャ系大隅人たちの着想だった。
では、それにアフリカのジラフは、関係しているのだろうか?。
もちろん日本列島の原日本人も、
古代中国人もアフリカ産のそんな獣は知らない。
中国製の麒麟像がジラフと懸(か)け離れているのは当然だともいえる。
しかしエジプトの首都をアレクサンドリヤにもつギリシャ人は、
ジラフについても幾らか聞いていて、
黄色くて首の長い偶蹄類だという程度の知識はもっていたから、
それに想像を交えて異様な麒麟に仕立てることもできる。
異様ではあるものの多くの点でジラフとの共通点が多い麒麟像は、
ギリシャ人の発想で完成したと見るしかない。
そうすると日本を起源とする
『四神』と『五彩圏』が、
後世の隋代に造られた銅鏡に明瞭に存在する理由が、より明確に納得できる。
またそれが架空のものでも、知識があったことは間違いない。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学院講義録19:20~22頁」
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2012年4月23日月曜日
日光二荒山神社
《日光二荒山神社》
「日光二荒山神社」
ウィキペディア百科事典によれば
「日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)は栃木県日光市にある神社。
正式名称は二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)であるが、
宇都宮市の二荒山神社との区別のために鎮座地を冠して日光二荒山神社と呼ばれる。」
と書かれている。
※出典:Wikipedia:日光二荒山神社
「百済津(フダラッ)カ山」はどこにあったか?。
倭迹迹日百襲姫の朝廷記録「崇神天皇紀」をみると、
3年 磯城(シキ)の瑞籬(ミズカキ)の宮に遷都する。
敷根(鹿児島県姶良郡国分市の南部、港と川がある)
5年 民の死亡が国民の半ばを過ぎようとする。(『魂書倭人章』大乱起こる)
6年 国民流離、背叛。天照大神の怒りが強く、
困った崇神天皇が倭の笠縫邑(カサヌヒムラ)に移す。
(『魂書倭人章』男王立つも国中不服、更に相誅殺、当時、数千余人を殺す)
この笠縫は首都の敷根付近のはずだ。
大隅にはこれに一致する地名がある。
鹿屋(かのや)市の笠野原と肝属郡の高山(コウヤマ)町である。
香山(カサン)→香山(コウヤマ)→コウヤマ→高山と変化した地名だ。
笠縫 笠野原 重日 (これは女帝、皇極・斉明天皇の名乗り)
(カサヌヒ) (カサンハイ) (カサヌヒ)
香山 百済ッ香山 =普陀落迦山
(カサン) (クダラ)(カサン) (フダラクカサン)
高山 (肝属郡 高山(コウヤマ)町)
(コウヤマ)
この香山はカグヤマとも読まれるから、奈良の香具山・香久山は、その子孫である。
この高山町には富山(トミヤマ)という地名もあるから、これが鳥見山に、
また官名の弥弥那利から耳成山・耳梨山が生まれたことも想像に難くないが、
畝傍(うねび)山は采女(うねべ)制度ができた後世の名でしかない。
ところが神武天皇は「畝傍橿原宮」で即位し皇居にした。
後世の人とするほかない。
フダラッカ山の子孫が、「フタラ」の名を残しているというのは、
日光の二荒山(フタラサン)である。
このフタラが百済の語源だということを知る人はまだ少ない。
だから日光に「ニコウ=二荒」を当て字したものだと
正反対に思い込んでいる人がいる。
しかし、もう説明の必要はないと思うが、
それは7世紀の大化大戦による敗戦で東国へ大移動した
百済倭国(フジワラ)勢力の遺跡であり、
百済=フタラ=二荒=ニコウ=日光と変化したのであって、
その名は富士山=百済山や、甲斐=蝦夷などの地名と同系のものである。
日光は大化改新によって倭国が東遷した後の、
観音の聖地=普陀落迦山=フタラ カ 山 だったのである。
そこには輪王寺があるが、
その正しい発音は「インノウジ」であって、
韓国で李を「イイ」と発音するように、
「リをイ」と発音する大隅語~韓国語系の発音をとどめている。
そして徳川家譜代の大名である井伊家のイイも、
同じく倭国東遷の貴重な文化財なのである。
卑弥呼当時は鹿児島の百済津香山。
次いで中国淅江省の普陀落伽山。
1次東遷後の奈良の百済香山。
2次東遷で二荒ケ山と変遷が読み取れ、発音の風化が時代経過を記録している。
仮にどれかのフダラッカ山が偶然だとしても、
これだけのフダラッカ山が実在する。
どれをとっても古い日本列島に、
観音の故郷ボダラッカ山の子孫が実在したことは間違いない。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録30・31頁」
『参考』
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2012年4月22日日曜日
倭の語源=稲と米の歴史
《倭の語源=稲と米の歴史》
「倭の語源=稲と米の歴史」
ウィキペディア百科事典によれば
「日本列島に住む人々が倭・倭人と呼称されるに至った由来にはいくつかの説がある。
倭は遙か遠いところを表すとする説、倭は柔順な性格という語義もあり、
当時の倭人が中国人から見て柔順に見えたのだとする説、
小柄な人びと(矮人)だから倭となったとする説、
中国に到着した倭人が自分を指して「わ」(われ=自分のこと)と称したことから
倭となったとする説、倭は『わ(やまと)』の音訳とする説などがある。
また、中国の古書である『詩経』、『小雅』、『四牡』などの書物における
「倭」の用字から見て、
「倭」は必ずしも侮蔑の意味を含んではいないとする解釈もある。」
と書かれている。
※出典:Wikipedia:倭
発音が教えてくれる。
特産物や代表的製品を、その供給者の名、
またはその所属する国名や部族名で呼ぶ古代人の原則を考えると、
『禾』の「カ」という発音は「カ人の植物」という意味をもっている。
すると殷人が当時「カ人」と呼んだのは、
それ以前にあった最古の王朝「夏」以外にはなく、
『禾』を「カ」と発音するのは、
その夏という国が穀物栽培を国の基本にしていた農業国だったから、
穀物植物を意味する象形文字の『禾』を、
「夏のカ」という発音で呼んだという以外に、
まぎらわしくて不便な同音の名を、
わざわざつけた理由は考えられない。
同じように『稲』も、日本で「イネ」と発音するのは
「イン=殷の産物」を意味している。
稲は雑多な禾本科植物の中から、
殷商時代に主要作物として選ばれ作出されたその国を象徴する品物という意味である。
しかし殷の稲は発掘資料によれば「陸稲」ばかりで水稲はない。
水稲は日本では「コメ」。
その移動経路を考えると初期の発音は沖縄語の「クミ」で、
これは久米島の「クメ」と同じだから、
沖縄語がマレー語と大きな共通点をもっていることから類推すると、
『米=コメ=クメ=クメール』からきた作物と言うことになる。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録7:17頁」
『参考』
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2012年4月21日土曜日
『倭』の漢字は何を意味するか
《『倭』の漢字は何を意味するか》
「『倭』の漢字は何を意味するか」
ウィキペディア百科事典によれば「倭(わ、やまと)は、紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称である。倭の住人を倭人と呼ぶこともあった。紀元前後頃から7世紀末頃にかけて、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国と自称した。」と書かれている。
※出典:Wikipedia:倭
『倭』の字は本来は人種名ではない。
中国周代の詩を集めた『詩経』に
「周道倭遅=周の道は、まわりくどくて、遅れ過ぎる」と書いてあるから、
倭は「迂遠な」という意味に今も使われる。
また辞書の『字彙』には「慎み深い・素直な」という意味だと書いてある。
文字の構造は、殷代に始まった象形文字で、
『委』の字の上部の『禾』は禾本科植物=稲など穀物のこと。
下に『女』がついているから「農業をする女性」。
この「農業を女性にまかせる」という行為から、
この字を「まかせる=委任する」という意味に使うようになった。
「まかせる」という日本語もこれとは無関係ではなくて、
種を自分で蒔かずに他の者に「蒔かせる」という言葉から、
発音が転用されたものなのである。
「農業をする女性」に「イ=にんべん」をつけた『倭』を、
「女性に農業をまかせる人種」の意味だとすると、鹿児島県から南の人たちは、
まさにその通りの習俗を今に伝えてきている。
「まわりくどくて遅い」という意味も、
非力な女性農業が非能率的だったことからきている。
では当時の男は何をしていたか…。
農業と対象的な仕事は狩猟・畜産・漁業で、これらは全て動物を殺す仕事だ。
だからこのことから紀元前後には、
『倭』とは「殺生をしない菜食の女性=女性仏教徒」を指す
「ウワイ」という発音で読まれることになった。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録7:16頁」
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2012年4月20日金曜日
稲作文化:日本語の「ホトケ」
《日本語の「ホトケ」》
「日本語の「ホトケ」」
『魏書倭人章』を読めば対馬・一大の人々は南北へ
「市糴(してき)=米を買いに」行くとはっきり書いてある。
国境などなく、
稲作に必要な石器などもどんどん物々交換されていた時代なのである。
それは便利に使えさえすればいいのであって、
幾らでも誰の手にもはいる。
そんな大陸系石器をもっているから持ち主は中国人だと決めつける、
時代遅れの発掘考音学者が、
真実を求める日本国民と世界の史学の敵であり、
日本人の恥であることはいうまでもない。
熱帯ヤボニカ水稲が、絶対に北から南に入ることがないのは、
稲の品種改良が進んだ現代でもなお北鮮が、
慢性的な飢饉に悩み続けている事実で、簡単に理解できることである。
弥生稲が中国から来たか、その逆かには動かぬ証拠がある。
古代稲作遺跡のない中国南部でただ一か所、
広東にある遺跡の「仏山」がそれで、その名が仏教遺跡だと裏書している。
南中国は水稲の適地だから、もっと多くの遺跡があるはずなのにそれがない。
しかも古代稲作遺跡が大量にある中部から、
はるかに飛んで南海に面しているので、
対岸の沖縄から海を越えてやって来た仏教徒が作った遺跡だとすぐわかる。
時代は弥生後期、
ちょうど卑弥呼の観音信仰が中国南岸に普陀落迦山(フダラッカサン)を作って
観世音(カシイ)の名を伝えたころである。
中国で仏を指す「浮屠(フォト)・沸(フォツ)」は
パーリ語の Buddba(ブッダ) ではなく、
日本語の「ホトケ」への当で字だったのだ。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録21:32頁」
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