2012年4月8日日曜日

倭の五王は日向王朝



 《倭の五王は日向王朝
 「倭の五王は日向王朝

 《倭の五王は日向王朝
 「倭の五王は日向王朝

 当時の日本の状態をさらに詳しく教えてくれる情報が『隋書』の中にある。

 それには東西五月、南北三月は同じだが、どちらに行っても「海に至る」という。

 九州の南北は約00km強であるから一月行は約100km。

 これを物尺にして西端の佐世保あたりから計ると

 関門海峡までが約150km、あと350kmの地点は姫路附近になる。

 しかしこれでは「海に至る」という表現に合わない。

 東端も海に至る場所という点からは、

 姫路以東では伊勢湾しかないが、

 それでは距離がくい違い過ぎる。

 だが、これを四国のことだと考えると、

 四国の東端ほピッタリ姫路の真南に来る。
 
 距離も、海に至るも、完全に一致する。

 そこで倭の武王の上表文が一と役買うことになる。

 彼は『宋書』の中で次のように当時の状態を数字で書き表わしている。

 「東は毛人の55国を征し、

  西は衆夷の66国を服させ、

  海を北に渡って95国を平定した」とある。

 南が欠けているのは彼の視点と出身を物語っている。

 彼のいる位置が南端であったとしたら、

 こうした書き方しかできないし、

 そうでなかったとしたら、南は敵であったことがない。

 すなわち彼が南方出身であり、

 南を征服しょうにもそこが本国であって

 対象にならなかったことを証明していることになる。

 西というのは明らかに九州をさしている。

 中国を征服したという報告ではないのだから

 日本のうちで九州より西は海しかないからである。 

 東は唐代でもまだ四国であった。 

 その四国全体に55国が分布していたとすると、

 丁度今の主な自治体数と一致する。

 ここでも東55国、東西五月行が完全に証明されるのである。

 九州を西と表現し、四国を東と表現していることは、

 彼が九州東部か、四国西部に都していたことを物語っている。

 かりに彼が四国東端にいたとしたら、

 すべては西と西北ということになるからである。

 九州東部には一大古墳群地帯がある。

 それが倭の五王たちを中心とするものであることは疑がう余地がない。

 文章は短かく断片的であっても、その証言を総合しさえすれば、

 それらは互いに支え合って、完全に近い答えを出してくれる。

 これもまたその良い例なのである。

 この武王の上表は478年のことであるから、

 9世紀末にはかなり変っていたように想像されると思うが、

 前記の通り、東西五月行は変化がない。

 これは古い記録をまる写しにしたからだという考え方が、これまであったが、

 それだと、他の新らしい記事や、度び重なる遣使の状態と合わない。

 こうした国土の状態などは、常にたずね、記録する担当者がいて、

 必らず記録する定めになっていたからである。

 また、遣使だけが往来したわけではなく、

 多くの僧や商人の渡航、さらには中間帯である朝鮮半島経由の交通は、

 すでに倭人章でも見た通りで、記録の文字数が少いのを、

 情報不足のせいだと想像しているような者には、歴史を語る資格がないのである。

 そこに書かれたことは多少のズレや書き損ないはあっても、

 国土の大きさを間違えるということなどあり得ない。

 では全く変化がなかったかというと、そうでもない。

 それは『隋書倭国章』に記録があるからである。

 ※出典:加治木義博「言語復原史学会・邪馬臺国の言葉:65頁」
 ※出典:加治木義博「言語復原史学会・邪馬臺国の言葉:66頁」

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
 『言語復原史学会:画像』

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 《参考》
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