2012年3月25日日曜日

聖徳太子



 《聖徳太子
 「聖徳太子

 ニギ速日の『天孫降臨』は、

 普通にいえば逃亡、よくいえば「奈良への遷都」の記録だった。

 こう断定するのには、ほかにもっと強力な根拠があるからである。

 『日本書紀』が、

 その「斑鳩(いかるが)」に倭国政権があったことを、

 別の部分に明記しているからだ。

 『日本書紀』の記事が、

 時代が混乱して、様々なものが混じりあっていることは、

 すでによくご存じのことだから、

 次の話にも驚かれることはないと思うが、

 その斑鳩の宮に遷都したのは、ほかでもない聖徳太子だと書いてある。

 『日本書紀』[推古天皇九年]の部分に

 「春二月、皇太子、初めて宮室(みや)を斑鳩に輿こす」と記録してある。

 いうまでもなく推古天皇の皇太子は聖徳太子である。

 この「初めて宮室を…輿こす」という言葉の意味は、

 「史上初めて斑鳩(奈良県)に都を置いた」ということで、

 その次にある同年五月の記事には、

 推古天皇が「耳梨(みみなし)の行宮(かりみや)(仮の宮)」にいると書いてある。

 なぜ、天皇たちは、そんな不便な暮しをしていたのか……。

 それは前の年の八年の記事を読むとわかる。

 「八年春二月、新羅と任那とが、互いに攻め始めた。

  天皇は任那を助けたいと思い、

  大将軍を任命して新羅を攻めて5つの城を落したので、

  新羅王は白旗をかかげて降参した。

  そして新羅、任那両国が、

  平和と、毎年貢(みつ)ぎものを持ってくることとを誓ったので、

  将軍を帰還させたところが、新羅は誓いにそむいてまた任那を攻めた」

 と書いてある。

 それが新羅王・金春秋(はるあき)=天智天皇の大阪大戦だったのである。

 それは白肩の津の戦いとして[神武天皇紀]に入れられているが、

 その時の太子が「ウマシマジ=馬子・馬子=ウマコ=厩戸=聖徳太子」で、

 その母が「三炊屋姫=豊御食炊屋姫=推古天皇」だったことは

 すでにご存じの通りである。

 この[推古紀]の記事が、

 三炊屋姫の夫・ニギ速日の大阪大戦の敗戦時のものだということは、

 どの視点からみてもよく理解できる。

 これで聖徳太子といわれてきた人物が、

 倭国敗戦当時の実在者であったことが、

 より鮮明に確認できた。

 彼はその「ウマコ」という名乗りの示す通り、

 蘇我の馬子でもあり、

 時期的にみて有間の皇子でもあった。

 後世の太子信仰によって飾られた、

 栄光に満ちた従来の想像とは違って、

 その実像は、

 亡国の悲哀をなめながら死んだ悲劇の人だったのである。

 さらにこのことによって、

 歴史の専門家でも考古学者でもない哲学者の

 梅原猛・元京都市立芸術大学学長が、

 その著『隠された十字架』薪潮社・1972年刊)で、

 法隆寺の門の構造から

 「太子は悲劇の人であったのではないか」と指摘されたことは、
 
 非常に鋭い観察力に基づく、

 実に優れた洞察であったことを、

 改めて強く感銘させられると思う。

 しかしなぜ、ニギ速日でなく、太子が移ったのだろう?

 太子が主人公であるのをみると

 「すでにニギ速日は死んだ」と書いてある

 『先代旧事本紀』が、『日本書紀』より正しいことになるが、

 真相は他へ逃亡したということもありうる。

 どちらにしても奈良へ逃げこんだのは、妻子らだけだったのだ。

 またこれによって、
 
 推古と皇極=斉明天皇が、一人の同じ人物だったということを、

 さらに確実な事実として証拠に加えることができる。

 ※出典:加治木義博「YAMATO・KKロングセラーズ:80~81・85頁」

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
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 《参考》
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