2012年3月26日月曜日
4人の卑弥呼
《4人の卑弥呼》
「4人の卑弥呼」
ウィキペディア百科事典によれば「卑弥呼(ひみこ、生年不詳 - 248年頃)は、日本の弥生時代後期における倭国の女王(倭王)。邪馬台国を治めた。封号は親魏倭王。後継には親族の台与が女王に即位したとされる。」と書かれている。
※出典:Wikipedia:卑弥呼
実在した「卑弥呼」は4人いた。
①それは伊是名で生まれた初代・卑弥呼=オオヒルメ貴(ノムチ)。
②孝霊天皇の娘で崇神天皇の伯母だった倭迹迹日百襲姫(ウワイトトホホソヒメ)。
③崇神天皇の皇后・御間城(ミマジョウ)姫=弥馬升。
④もう一人の弥馬升=垂仁天皇の皇后・日葉酢(ビバス)姫=壹與。
との4人が確実にいた。
このことはまた、
同じ「弥馬升」を「ミマジョウ」(大隈語)と「ビバス」(沖縄語)と読んで、
言葉の違いを浮き彫りにしている。
卑弥呼政権と邪馬壹国政権とでは、
言葉でもこんなに異なる人々の交替があったことが、
よく理解できたと思います。
このうち、卑称弓呼素と争って死んだのは、
前後の関係からみて倭迹迹日百襲姫だったとわかりますが、
彼女の弟「彦五十狭芹彦=彦イサキン彦」という名乗りは
「軍君=イッサキン」という現役司令官名への当て字ですし、
彼の本名は「吉備津彦」ですが、
これは伊都国の副官・泄謀觚柄渠觚(シモクァピンチュウクァ)を
「下吉備津彦=シモキビツヒコ」への当て字と為ると、
すべてがよく合いますから、
この現役軍人の姉・倭迹迹日百襲姫も
そんなに高齢ではなかったことが推測できます。
この弟が、梯儁が伊都国で卑弥呼と会ったとき
「男弟あり、政治を補佐す」と記録した男弟であることも、
これだけ証拠がそろえば全く疑いの余地がありません。
卑弥呼といっても『魏書倭人章』が書いている記事には、
このように複数の卑弥呼が実在したのです。
その中でいちばん重点が置かれているのが倭迹迹日百襲姫で、
彼女はその血も容姿も職務も信仰も神託の方法まで、
すべてギリシャの地中海文明を受け継いでいました。
またこれで卑弥呼とは個人名ではなく、
「地位」にともなう「称号」だったことも確認できた。
※出典:加治木義博「日本国誕生の秘密・徳間書店:175~178頁」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
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ウワイト(倭人):大学講義録
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