2012年3月5日月曜日

中国仏教史(後漢時代)



 《中国仏教史(後漢時代)
 「中国仏教史(後漢時代)

 陳寿の『魏書』より古い

 魚豢(ギョカン)の『魏略(『三国志』斐松之「注」)』の逸文には

 「臨児国(正義作 臨毘国) 浮屠経(ふときょう) 云
 
  其 国王 生 浮屠 浮屠太子 也 父 曰 屑頭邪 母 曰 莫邪」=

 「ルンビニ国。浮屠経いわく。

  その国王に仏様が生まれた。仏陀太子だ。父の名をクシャトリヤ、母をマヤという」と書き出して、

  マヤ夫人が白象の夢を見て妊娠したこと、太子は生まれるとすぐ7歩いたといったことや、

 「天竺 有 神人 曰 沙律=イシドには神に仕えるシャリと呼ばれる人がいる」などとも書く。

  これは「仏(ぶっ)シャリ=釈迦の歯」のことではなく、

 阿闍梨(アヂャリ)という僧の代名詞である。

  (このをフトケイと読んだものが、南九州でホトケともいう発音に固定して、仏(ほとけ)

  という和名が生まれたのである)。

 これに続けて「昔 漢 哀帝 元寿元年 博士弟子 景盧 大月氏王使 伊存 口授 浮屠経」=

 「昔、漢の哀帝の元寿元年(B.C.E.2年) に、博士弟子(博士僕射(ボクシャ)が正しい。魚豢の間違い)

  の景盧が、大月氏(バクトリア国。アレクサンドロスの東征で、ギリシャの1州になり、

 2世紀のカニシカ王の時代には今のパキスタン北西部のペシャワールに都しで繁栄を極めた仏教国)

 の王の使者・伊存(イヤーソン)から仏経の口授を受けた」と記録している。

 これについて湯錫予(トウシャクヨ)著の『漢魏両晋南北朝仏教史』は、次のように説明している。

 「伊存 授教之後 六十六年(永平八年、A.C.65年)東漢 明帝 詔 楚王 英 言及 仏徒 按 

  光武 諸子類 好 鬼神 方術 済帝王 康 在国 不循法 交通 賓客」=

 「イヤーソンが景盧に仏教を授けてから66年後、後漢の孝明帝が楚王の英に与えた詔書中で、

  先帝・光武帝の息子たちは皆、鬼神や方術に凝って、済南王の康などは国にいても宗教上の客を

  招き招かれて、国法など有って無いようなものだったが、それと同じだ」

 と書いているが、

 『後漢書』の「楚王英伝」には、英は「建武十五年(39年)楚王に任命され、

 同二十八年、楚に行く。

 ~浮屠(仏教徒)になり斎戒祭祀し。

 永平八年~王と国相がやりとりした言葉の中には歓喜天恩とか浮屠仁祠の文字が見られる

 などと記録している。

 孝明帝は、インドに使者を派遣して仏教の経典を手に入れ、僧二人を連れ帰らせて、

 前記の異母兄・英とともに大いに信仰を深め、

 A.C.68年に中国最初の寺・白馬寺を建立した。

 A.C.27年生まれの『論衡』の著者・王充が、

 その中の「論死篇」

 「世 信 祭祀 以為 祭祀者 必有 福 不祭祀者 必有 禍=

 世人は祭祀の御利益を信じていて、祭れば必ず福があるが祭らないと禍いに襲われると信じている」

 と書いているのを引いて、

 「漢代にも中国には仏教が存在していたが、それは祭祀の一種とされていて、

  釋迦の哲学である経典も鬼神による応報を恐れて唱える単なるマジナイでしかなかった。

  王充のいう世間にはびこる「淫祀(いんし)(インド教)や「非鬼之祭」の中には、

  仏教も入っていると考えていい」と、

 白馬寺建立当時の仏教信仰が、

 どの程度のものだったかを指摘している。

 だがここで重要なのは漢代にも

 中国には「淫祀(いんし)」や、「非鬼之祭」といった

 分類常識があった事実である。

 「鬼=死者」を祭る祭祀法として、迷信仏教がはびこり、

 その害を指摘する「論死篇」が読まれていたのだから、

 帯方郡使はそれを前提に、卑弥呼の宗教は中国のそれらとは異なるが、

 やはり人を惑わす低級な仏教の一種とみて、

 『鬼道』と命名したとみる必要がある。

 なぜ私(加治木義博)がこうして『魏略』の記事を強く重視するのかというと、

 中国でも卑弥呼当時には、

 仏教についてすでにかなり知られていたという事実を前提にしないと、

 帯方郡使が卑弥呼の宗教を仏教と書かずに『鬼道』と書いたことへの考察が甘く、

 片手落ちになるからである。

 『鬼道』と書いた郡使には、当時中国で知られていた彼の知る仏教と、

 卑弥呼の仏教とは同じでなく別物のように見えたので、

 仏教とは書けなかったという点が重要なのである。

 当時中国へ伝わった仏教の伝播経路は西域からの陸路で、

 その元はマガダ国から北進してガンダーラやカシミールを教化し、

 さらにカラコルム山脈を越えてタクラマカンの大砂漠に入った

 「Majjhantika マッジャンチカ」布教団である。

 東進してきたソナカ布教団の我が国までのコースに比べると距離は短いが、

 その難路は屈強な男性僧でも大変なものだった。

 ※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録20:17~20頁」

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
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 《参考》
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