2012年3月6日火曜日
観音信仰の発生から伝播
《観音信仰の発生から伝播》
「観音信仰の発生から伝播」
『魏書倭人章』は、我が国建国史上最古の、
隣国による客観的記録という私たちにとって掛け替えのない宝物だが、
その『魏書倭人章』中でも当時の精神文化の高さを立証する唯一のものが、
卑弥呼の指導原理『鬼道』であって、
それが政権の分裂、彼女の死と内乱に次ぐ国土の喪失、
政権の亡命という国家的大悲劇を生み出した直接の心因でもあった。
祭政一致の当時、その教義が施政方針を固定していたため、
倭人連邦を取り巻く国際情勢が魏の優勢。
対中国バリアーとしての宗主国・公孫氏の滅亡。
倭人圏である朝鮮半島の一角・高句麗の敗戦といった激動に襲われた時、
愛と不殺生を至高のモラルとしてきた卑弥呼の威信は崩れて、
国家の防衛を至上命令とするナショナリズムが、
彼女を圧倒したのは当然の宿命であった。
しかしいまだに『鬼道』問題の重大さを意識する教養に欠け、
観音信仰は中国から入った信仰だと信じている人々のために、
これまでは「倭国史」側からその卑弥呼の仏教が初期の観音信仰だったことが、
今なお南九州の優婆夷(ウワイ)たちが観音講を「ヒメコ様」と呼んでいることなど、
遺物を数多く残していることで充分立証されている事実を、
関連事項を検討する都度お話ししてきたが、
今度は「宗教史」の視点から、
観音信仰の発生から伝播までの経緯を、
できるだけ手短かに頭に入れておくことにしよう。
中国で最も古い観音信仰の記録は、
卑弥呼の死後約10年後の魏の甘露3年(258年)に、
帛延(ハクエン)が翻訳した『平等覚経』の中で、
「光世観」という訳名で記載されているのが、
私たちのいう観世音菩薩のことで、中国にはこれより古いものはない。
次は中国の記録にはないが、
昭和初期の我が国観音研究の先覚・加納元氏がその著書で、
西晋武帝の時(265年~289年。卑弥呼死後約20~40年後)、
我が国の神功皇后の御時に、
ヤシャグッタとジャナグッタという二人の僧が長安の四天王寺へ行き、
『十一面観世音神呪経』という初めて仏名を
「観世音」と呼ぶ経典を中国語に翻訳したのだと発表した。
これによると卑弥呼当時はまだ中国には観世音菩薩という菩薩号はなかったことになるし、
その命名者もヤシャとジャナの二人のグッタだということになる。
しかし前記の中国の湯錫予撰『漢魏両晋南北朝仏教史』や、
馮(ヒョウ)承鈞の『歴代求法翻経録』などの研究書にはこの記録が見当たらない。
ただ『歴代求法翻経録』中の「西晋録」の最後に『若羅厳』という名前がある。
これは「若=ジャ、羅=ラ→ナ、厳=グッタ」への当て字の可能性が高いから、
これが本当に西晋時代に中国へ行ったジャナグッタの記録かどうか、
この人物はどこから中国へ行ったのか?、
そして何をしたのか?、検討してみょう。
「西晋録」のその最後の解説は、
「若羅厳 拠 諸経目録 外国人 也 三一六年前後在 洛陽 訳経 此人名 似 為
Janayna 之封音 此言 智乗 非印度人 即 西域受 印度文化之人=
若羅巌は『諸経目録』によると外国人である。
316年前後に洛陽にいて経を訳した。
この人の名はジャナヤナに似ている。
これは『智乗』という意味だ。
インド人ではない。
西域でインドの文化を身につけた人ではなかろうか?」と書いている。
このジャナと、先のヤシャの名のあとについている「グッタ」は、
パーリ語の「 gutta 守護されている」という仏のご利益(りやく)を肩書きにしたもので、
三蔵というようなものである。
しかし中国の学者は知らないが、
私たちはこの「ジャナ 謝名」は今でも沖縄に実在する地名や姓であることを、
すでによく知っている。
ジャナグッタは沖縄の人で卑弥呼を知る人物だったから、
観世音という名を中国へ教えることができたのだ、ということになる。
それでなければあとで詳しくご説明するように、
慈悲のマレー語であるカシーに合う発音を感じで
「香椎(かしい)」や「観世音(かしい)」と当て字できたのは当時の倭人だけで、
日本語やマレー語を全く知らなかった当時のインドや西域の人が、
こんな当て字をすることは絶対にありえない。
それが偶然だとすれば、それは奇跡以上で、決してありえないことだからである。
戦後、多くの仏教論文と著書を世に問うた佐和経賢氏の『密教美術論』には、
「十一面観音の経典が最初に漢訳されたのは、
西紀五七〇年頃、耶舎崛多(ヤジャグッタ)によってである。
その経名は『仏説十一面観音神呪(しんじゅう)経』一巻だ」とある。
耶舎崛多は明らかにヤジャグッダであり、経名もほぼ同じであるから、
加納氏が紹介したものと同じであることは疑いない、
とすれば佐和氏の説では300年も後に中国に入ったことになる。
それにジャナグッタについては全く触れられていない。
これは一体?
どう考えればいいのか?。
その結論はあとにして、まずヤジャグッタを検討してみよう。
この名の「耶舎」はターラナータ Taranatha の『インド仏教史』によると、
アソカ王が、前非を悔いて仏教に帰依(きえ)したのは
「 Yaja arhant 耶舎阿羅漢(アラカン)」の弟子が見せた不思議な現象によるのだとある。
卑弥呼の重臣・掖邪狗も、この「耶舎」公に対する当て字の可能性が強い。
掖邪狗は壹與時代になったあとも、張政を送る使者の長官に任命され、
率善中郎将として魏都洛陽まで行っている。
ヤジャグッタと記録された人物は彼の後身であるとすると、
彼なら観世音という仏名をつけたとしても何の不思義もないし、
我が国各地の最古の仏教遺物が、
すべて十一面観音であることもまた、
何の不思議もないことになる。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録20:23~26頁」
掖邪狗は張政を帯方郡まで送った後、
洛陽の魏政府に生口30人を贈っているが、
生口は捕虜ばかりとは限らない。
知識人や僧侶もいていい。
中国政権が西晋に変わったとき、彼が当然また親善使節として謝名崛多を伴って行き、
観世音菩薩について教え、謝名を残して掖邪狗だけ帰国したとすれば、
日本の記録は二人の業績とし、
中国では謝名崛多=若羅厳一人の業績として
彼の名だけしか記録に残さなかったとしても不思義はない。
また掖邪狗が教えた業績は観音だけだが、
謝名崛多はそれ以後に幅広く経典を訳した可能性があるから、
それに埋没して細部の記録は残らなかったとしても、
これまた不思義ではない。
では佐和氏のいう、
西紀五七○年頃の、
耶舎崛多(ヤジャクッタ)による十一面観音経翻訳はどういうことなのか?。
これにも納得のいく答えが見つかった。
馮承(ヒョウ)承鈞の『歴代求法翻経録』をさらに見ていくと、
「元魏北齋北周録」に、麻伽陀 Magadha 国の禅師「闍那耶舎 Jnanayasas 」が、
弟子の「闍那崛多 Jnanagutta 」らと共に561年から578年の間に長安で
『定意天子経六巻』を訳したあと実歴( Turkut は北京付近)で死んだ」という記事がある。
この闍那邪舎はジナナヤサスへの当て字だが、闍那耶舎という漢字だけを見ると、
「ジャナ・ヤジャ」と読んでしまう。
おまけに弟子まで「ジャナグッタ」と読めるので、これと混同したのである。
この結論が正しいことは、次の有名な記録が明確に立証してくれる。
それは西晋が倒れて東晋になった後の、
安帝、隆安3年(399年)にインドへ取経に行った
中国の法顕(ホッケン)三蔵が、
その旅行記『仏国記』中に「インドでは観音信仰が非常に盛んだった。
その本山はマラヤ国(今の南インド、マドゥラ一帯)の海岸にある
ボダラッカ山だと詳しく書いている。
この名はパーリ語で Bodharakkha ( Bodha 菩提)( rakkha 守護)で
当て字の普陀落迦山であり、死者の菩提を守るという意味が、
卑弥呼の宗教を「鬼道」と呼ばせたことに一致する。
この法顕の記事から、中国の観音信仰について、実に多くのことがわかる。
それを順番にお話ししてみよう。
① 中国の観音信仰は佐和氏のいう570年頃でなく、
もっと早くから中国でも知られていたこと。
② しかしインドのようには盛んではなかったこと。
③ また、中国の観音信仰の大本山である
南中国・淅江省定海県の東にある落伽山に伝わる
「観音大士がこの落伽山に化現したので、この聖地を『南海』という略称で呼ぶのだ」
という伝承では、先に『落伽山』という山があって、
そこへ観音が出現したことになっているが、
④ この山の名は間違いなくインドのボダラッカ山を写したもので、
⑤ そんな山名は法顕がインドから帰った
5世紀初めまでは中国にはなかった名であること、
などが明確に理解できる。
これまで詳しく検討してきた通り、飛鳥、春日、大和など旧地名の当て字を
そのまま使って発音だけ変えるという、
我が国古代独特の手法の早期の先例が
「百済」のポセイドン→フダラ→クダラ→モズミ(百舌鳥耳)→フジ→ホズミ(穂積)→
モモダリ(桃太郎)→モモダイ(桃谷)などで、
卑弥呼の名乗り百襲姫の「百」も、唯一この百済しかない。
これは4世紀より以前はまだクダラとは読まれず、
ギリシャ語時代のポセイドンへの当て字音「百=ポ」で、
「済」だけを「ダラ」と読み替え始めている。
その理由はソナカ仏教宣布団がマガダを出発して南進し、
前記のマドゥラなど南インドで教化に努め、
スリランカ= Tambapannidipa へ入った Mahinda らと分かれて
ボダラッカ山を聖地としたグループの一部が東へ船出し、
東南アジアを布教しながら南九州までやってきた。
そしてそこに観音信仰の本山を置いてボダラッカ山と名づけた。
その地域の主力が沖縄語人だったので、
母音「O(オー)」のない沖縄発音で「百」の発音が「フ」に変わり、
さらに「済」も「ダラ」と読まれることになり、
不足する「カ山」を新たに補って「フダラッカ山」、
すなわち後の「普陀落迦山」と同じ発音の当て字として使った。
この推理は、その子孫がいまもその古い型の「フタラ」の名を残していて、
この結論の確かさを強く保証している。
「百済津(フダラッ)カ山」はどこにあったか?。
倭迹迹日百襲姫の朝廷記録「崇神天皇紀」をみると、
3年 磯城(シキ)の瑞籬(ミズカキ)の宮に遷都する。
敷根(鹿児島県姶良郡国分市の南部、港と川がある)
5年 民の死亡が国民の半ばを過ぎようとする。(『魂書倭人章』大乱起こる)
6年 国民流離、背叛。天照大神の怒りが強く、困った崇神天皇が
倭の笠縫邑(カサヌヒムラ)に移す。
(『魂書倭人章』男王立つも国中不服、更に相誅殺、当時、数千余人を殺す)
この笠縫は首都の敷根付近のはずだ。
大隅にはこれに一致する地名がある。
鹿屋(かのや)市の笠野原と肝属郡の高山(コウヤマ)町である。
香山(カサン)→香山(コウヤマ)→コウヤマ→高山と変化した地名だ。
笠縫 笠野原 重日 (これは女帝、皇極・斉明天皇の名乗り)
(カサヌヒ) (カサンハイ) (カサヌヒ)
香山 百済ッ香山 =普陀落迦山
(カサン) (クダラ)(カサン) (フダラクカサン)
高山 (肝属郡 高山(コウヤマ)町)
(コウヤマ)
この香山はカグヤマとも読まれるから、
奈良の香具山・香久山は、その子孫である。
この高山町には富山(トミヤマ)という地名もあるから、これが鳥見山に、
また官名の弥弥那利から耳成山・耳梨山が生まれたことも想像に難くないが、
畝傍(うねび)山は采女(うねべ)制度ができた後世の名でしかない。
ところが神武天皇は「畝傍橿原宮」で即位し皇居にした。
後世の人とするほかない。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録20:27~30頁」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
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