2012年3月7日水曜日

観世音菩薩



 《観世音菩薩
 「観世音菩薩

 フダラッカ山の子孫が、「フタラ」の名を残しているというのは、

 日光の二荒山(フタラサン)である。

 このフタラが百済の語源だということを知る人はまだ少ない。

 だから日光に「ニコウ=二荒」を当て字したものだと正反対に思い込んでいる人がいる。

 しかし、もう説明の必要はないと思うが、

 それは7世紀の大化大戦(乙巳の変)による敗戦で東国へ大移動した

 百済倭国(フジワラ)勢力の遺跡であり、

 百済=フタラ=二荒=ニコウ=日光と変化したのであって、

 その名は富士山=百済山や、甲斐=蝦夷などの地名と同系のものである。

 だから日光は大化改新(乙巳の変)によって倭国が東遷した後の、

 観音の聖地=普陀落迦山=フタラ カ 山 だったのである。

 そこには輪王寺があるが、その正しい発音は「インノウジ」であって、

 韓国で李を「イイ」と発音するように、

 「リをイ」と発音する大隅語~韓国語系の発音をとどめている。

 そして徳川家譜代の大名である井伊家のイイも、

 同じく倭国東遷の貴重な文化財なのである。

 卑弥呼当時は鹿児島の百済津香山。

 次いで中国淅江省の普陀落伽山。

 1次東遷後の奈良の百済香山。

 2次東遷で二荒ケ山と

 変遷が読み取れ、発音の風化が時代経過を記録している。

 仮にどれかのフダラッカ山が偶然だとしても、

 これだけのフダラッカ山が実在する。

 どれをとっても古い日本列島に、

 観音の故郷ボダラッカ山の子孫が実在したことは間違いない。

 ところが、

 そのインド・マドゥラ海岸にあるボダラッカ山の仏「観世音」菩薩は。

 本当は「観世音菩薩」ではない。

 なぜか?。

 その仏は「 Avalokitesvara アヴァロキテスヴァラ」という菩薩だが、

 この名はどんなに無理をしてみても、

 「観世音」という名にはならない。

 日本ではこれを「観自在=自由自在に観る」または

 「世間の衆生の音声を観じて解脱させる」

 という意味の名だと教えてきたが、

 そんな固有名詞はパーリ聖典にもない。

 この名はパーリ語で綴った短文なのである。

 「アヴァ ava 」は「卑しい・下級の」という意味で、

 「ロキ loki」は「世間・社会」。

 「テス tes」は「それ・彼」。

 「vara ヴァラ」は「願望・恵みを与える・最高・優れた・高貴」

 という意味だから、インドの人々がこの言葉を聞いて受ける感じは、

 「卑しい身分の世間の大衆にも、その願望する恵みを与えて、最高に優れた高貴な人々にする」

 という意味になる。

 どこにも「観=見る」や「自在=自由自在」という意味はない。

 それよりは「世音=世間の人の音声(願望)」というほうが、はるかにマシだが、

 こちらも「それを観じて=見て」「解脱させる=逃がす」だけでは

 「その願望する恵みを与えて最高に優れた高貴なな人々にする」

 という能力および御利益(ごりやく)が消えてしまって、

 原文の意味に比べると余りにもお粗末な訳でしかない。

 やはり駄目である。

 インド名の訳ではないとすれば、では誰が?、いっ?、

 原文にありもしない「観」の字を使って、

 「観世音」などという意味不明の名をつけたのだろう?。

 観世音を何か意味のある当て字と考えて、

 『日本書紀』に使われている漢字発音を使って頭音使用の万葉読みにすると

 「観=カ、世=シ、音=イ」という読み方ができる。

 なぜそう読むかといえば、

 「カシイ」は卑弥呼と切っても切れない言葉だからである。

 卑弥呼という名の語源がパーリ語の「pemaka 愛・慈悲」であることは、

 倭人の墓であることが確認できている古墳に、

 可愛山陵とかアイノ陵(藍野陵=大阪府茨木市)といった名がついており、

 pemaka を沖縄発音に直すと、「卑=pieg,弥=miar,呼=ka」にピッタリ合っていて、

 彼女の祭政一致の理念が「愛・慈悲」で表現される不殺生・不戦でなければ、

 好戦的ナショナリズムの女王・壹與=日本のジャンヌ・ダルクとしての

 神功皇后に敗死することもなかったことなど、

 動かぬ証拠群が立体的な構造になって存在している。

 その「愛・慈悲」のマレー語が「kasih カシイ・カシヒ」なのである。

 このカシイには、もう一つ動かない証拠が今も厳然として残っている。

 それは卑弥呼の夫・ソナカ=仲哀天皇の「廟」であった福岡市香推(かしい)にある

 元官幣大社の「香椎宮」である。

 卑弥呼が少女時代に結婚した

 ソナカ=足仲(ソナカ)彦・仲哀天皇は熊襲や三韓を征服しようとして北九州死んだ。

 これは「天の稚(わか)彦物語」にもなっている。

 皇后の卑弥呼はそこに「廟」を建てて天皇を葬ったのち、

 女王に共立されて九州連邦に君臨した。

 その後 723年、元正女帝が僧満誓に福岡の観世音寺を改築させ、

 同時に仲哀天皇廟の側に仲哀天皇皇后の神功皇后を祀る社殿を建てさせて、

 それだけを「香椎宮」と呼ばせ、区別するために仲哀天皇廟は「古宮」と呼ばせることにした。

 「香椎宮」が官幣大社になったのは明治18年で、仲哀天皇を香椎宮に遷座、

 合祀したのは、大正4年になってからである。

 これで卑弥呼と壹與が『日本書紀』の神功皇后混同のせいで、大混乱しているが、

 香推とは卑弥呼だけの名で、

 単なる地名ではなかったことが、はっきりおわかり戴けたと思う。

 香椎は 「愛・慈悲」という意味の、マレー語「kasih カシイ」への当て字だった。

 卑弥呼は「愛・慈悲」という意味の、パーリ語「pemaka ペマカ」への当て字だった。

 だから卑弥呼をマレー語系の人々は「カシイ・カシヒ」と呼び、

 「生き菩薩」として崇敬していた。

 とすると「観世音菩薩」というのは、

 マレー語による「カシイ菩薩」への当て字のひとつで、

 それはパーリ語の「pemaka ペマカ=卑弥呼」菩薩と全く同じものだったのである。

 ※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録20:31~34頁」

 『参考』
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 《参考》
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