2012年3月31日土曜日
大国主系譜=孝霊天皇系譜
《大国主系譜=孝霊天皇系譜》
「大国主系譜=孝霊天皇系譜」
大国主系譜イコール孝霊天皇系譜「古事記」
<大国主系譜>
多紀理毘売命 阿遅鉏高日子根
大国主 下照比売命
天の若日子
事代主
神屋楯比売命
<孝霊天皇系譜>
細比売命 大倭根子日子国玖琉=孝元天皇
孝霊天皇 夜麻登登母母曽毘売=卑弥呼
若日子建吉備津日子
蠅伊呂杼 仲哀天皇
大国主系譜 孝霊天皇系譜 大国主系譜 孝霊天皇系譜
多紀理毘売命=細比売命 阿遅鉏高日子根 =大倭根子日子国玖琉=孝元天皇
大国主 =孝霊天皇 下照比売命 =夜麻登登母母曽毘売=卑弥呼
天の若日子 仲哀天皇
神屋楯比売命=蠅伊呂杼 事代主 =若日子建吉備津日子
孝霊天皇系譜『日本書紀』 イサナキ スサノオ 大国主 事代主
大 日本 根子 彦 太瓊 天皇
(倭) (日本) (高句麗) (日向) (種子島) (孝霊)
磯 城 県主 大 目 細 媛
(大 国 主) (百襲<ホソ>姫)
(磯 城 津彦) タ マ デミ(出見・出水・出雲)=(安寧天皇)
(イサナキ) (オオクニヌシ)
大日本根子彦 国牽天皇(孝元天皇)
ソナカ = 仲哀天皇
倭迹迹日百襲姫(卑弥呼=天照大神=大穴持=息 長帯姫・神功皇后)
彦彦五十狭芹彦(伊声耆) イサナキ またの名 吉備津彦(泄謀觚柄渠觚)
(戦さの君) (戦さの王) (エビス) シモキビヒコ
倭迹迹稚屋姫 (蝦 夷=事代主)
稚 武彦 垂仁天皇
ワ タケ
(倭カ建命=イケンメ=イキの目=イチマ=伊支馬=活目(イチマ)=垂仁天皇=スサノオ)
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学院講義録29:27~28頁」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
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2012年3月30日金曜日
仲哀天皇の行動範囲
《仲哀天皇の行動範囲》
「仲哀天皇の行動範囲」
その父・但馬太耳(タジ)と、
孝霊天皇の「太瓊(タニ)」が同じものであることも
「二・児」の発音に<ジ>とがあることを知っていれば簡単に理解できる。
それは<種子島>を<タジガシマ>と読む人と、
沖縄発音で「タニガジマ」と呼んだ人の差である。
天皇の名乗りの最後は都の地名であることは倭の五王の名乗りで
讃は讃岐、
珍は<チヌ>=淡路島の津名、
興は河内、
武は高市と揃っていて明らかだから、
これで孝霊天皇は種子島に都していたのだと、確認できたのである。
後に天武天皇が種子島人を特別待遇し、
世人も
「橘(種子国人(タチバナ))は、己(おの)が枝々実(な)れれども、
(自分の利益を追及して、どんなにひどく闘争していても、
最後には結局)一つ緒に貫(ぬ)く。
(種子島人だけで固める)」
という戯(ざ)れ歌
(批判歌謡=河内音頭のような、当時の流行歌)が流行ったと
『日本書紀』が書くほどに、
大和政権の中枢は種子島出身者が独占していた。
それは
この孝霊天皇→卑弥呼以後も、
垂仁天皇=卑弥呼の弟・稚武彦、壹與(赫夜姫・神功皇后2)、
応神天皇→仁徳(讃)系天皇たち、
継体天皇(応神天皇5世孫)から斉明天皇までの倭国天皇が、
紆余曲折はあるが、
<種子島系の豊玉姫の子孫>であることは、
世人が明瞭に認めていた事実だとわかる。
そして天智天皇も天武天皇もまた、
その資格には欠けていなかったことが確認できる。
天皇家が種子島出身であることは動かない事実なのである。
太耳・太瓊が同じ地名で、種子島。
播磨は卑弥呼以後に生まれた国だから巴利国のことだと決まると、
若狭も福井県ではありえない。
神功皇后2=壹與が戦った相手、
卑弥呼政権の籠坂王は鹿児島=薩摩王で、
忍熊王は大之隈(オシクマ)王=大隅王だったのだから、
若は稚(わか)で稚(チ)ヌ国=天国=ウチナ=沖縄、<狭>は<タンネ>で種子島、
この間(かん)の領地を意味する。
但馬も後世に種子島人が移住したあと生まれた地名だから、
日槍が行った但馬は種子島(タジマ)以外ではありえない。
天の<日槍>の<ヒホコ>は、火火子と書けるから、
神武天皇=垂仁天皇の彦火火出見尊の火火で、
<彦>・<火子>は日向(ヒコ)、
出見(イヅミ)は出水、
または<ヒ>は<日向>、
<ホ>は百済(ホセイ)の首=<ホ>で、
豊玉(ホツマ)の豊。
大分が豊の国になる前だから、
いずれにしても南九州以外ではありえない。
仲哀天皇・天の日槍・天の稚彦・都怒我阿羅斯等・蘇那易叱智の行動範囲は、
沖縄から九州までに厳しく限定されている。
これらを本州の地名だと錯覚した解説は、全て役には立たない。
すると角鹿(チヌカ)も大隅発音、福井県の敦賀(つるが)ではなくなる。
若狭や敦賀は近畿に倭国が進出した後、新たに生まれた地名であって、
とても卑弥呼以前には存在しえない地名だからである。
石器や土器の製作年代が考古学説の生命を左右するのと同じで、
史学も地名や国名の年代が重大な意味をもっている。
在来のような粗雑な考えでは、
正確な史実は絶対に掴めない。
では角鹿はどこが正しいのであろう?。
<角>・<ツノ>は沖縄発音<チヌ>。
若が稚(チ)で稚(チ)ヌ=天(チヌ)=ウチナ=沖縄の古名だったのと同じこと。
鹿(カ)は鹿屋(かのや)が鹿国(カのヤ)である。
「沖縄に属していた鹿国」という意味とみると、
都怒我阿羅斯等は沖縄・鹿屋の現人神=天皇という意味になるから、
この<ツルカールニン>を「ツヌカ、アルヒト」と読んだ読み損ないが、
「<アルヒト>とは現人(アラヒト)のことで<現人神>のこと、
これは<アラヒトガミ>と読むのが正しい」という解釈者がいて、
「ー(ア)ルニン」が「アラヒト→阿羅斯等」という表記まで
変化してしまったことも判る。
その犯人は、<ヒト>を<シト>と発音しているから、
大隅人だったことも動かない。
これで仲哀天皇は本州へ行っていないことが明確になったが、
その名乗りには問題がある。
『古事記』は帯中日子天皇と書くが、
これは神功皇后の息長帯姫の「帯」が、
当時の<韓国>を指す「帯方」だからである。
これは『日本書紀』が足仲彦天皇と書き、
『日本書紀』が皇后を気長足姫と書く
「足」を同じ発音の「帯」に変えただけに見えるが、
天皇のほうの<足仲>は明らかに<ソナカ>への当て字で、
<タラシ>と読むものではない。
皇后の<息長>も明瞭に<ソナカ>への当て字で帯姫の帯は余分なのである。
すると蘇那曷叱智は任那、
都怒我阿羅斯等は意富加羅(おほから)、
天日槍は新羅と、皆、朝鮮半島出身になっていることを、
無視するわけにはいかない。
それは不思議でも何でもない。
朝鮮半島は、故に宝貝貨幣を供給した時代から、
沖縄から九州を経て高句麗まで、
1国と言っていい状態にあった。
最小限に限定しても高句麗は間違いなく<コウリー>(宝貝)の国で、
漕ぐ人(コグリョ)の国。
シュメルから来たたカリエン=カルデアンの国で、
<スメラギ>を首長と仰ぐ人たちの国の1部だったのである。
その高句麗が前漢の侵略を受けて漢の4郡にされ、
漢が衰えた後漢末に公孫康が今の黄海道と京畿道とを帯方郡にして
<京城>(ソウル)に役所を置いて支配した。
しかしそれ以外の各道は依然として倭国政権の支配下にあったことは変わらない。
それを倭人たちは全て<帯方>と呼んでいたから、
神功皇后も「帯」を加えて息長帯姫と名乗ったのである。
ところが夫の仲哀天皇の足仲彦(ソナカ)(紀)は<ソナカ>皇子ということで、
帯中日子(記)は書紀の当て字を<足>から<帯>に変えただけのもの、
ソナカ皇子と読むことさえ知らない。書紀を真似たくないと、
ただ闇雲(やみくも)に文字を変えただけだし、
その変え方も、足仲彦を<タラシナカツヒコ>と読んで、
正しい名すら知らなかったことを暴露している。
我が国の古代史上、
最も重要な人物の天照大神で
卑弥呼で神功皇后だった女性の夫の名さえ知らない
そんな『古事記』を、
「絶対だ。本当の正史だ。神典だ」
と主張した連中の、無知さ加減がよく判ると思う。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学院講義録29:14~17頁」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
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2012年3月29日木曜日
スサノオ=荒む王=都怒我阿羅斯等
《スサノオ=荒む王=都怒我阿羅斯等》
「スサノオ=荒む王=都怒我阿羅斯等」
『記・紀』の崇神・垂仁、両天皇の部分に
都怒我阿羅斯等・ツノガアラシト=角がある人=ツルカルニン。
蘇那曷叱智・ソナカシチ=牛の頭(ソノカシタ)=牛頭天王=ソナカ天皇=足仲彦(ソナカヒコ)天皇=仲哀天皇。
天の日矛(ヒホコ)(日槍)=ヒホコ→シホコ→チヒコ=天の稚彦が、
海外からやってきたという話が編集されている。
在来はこれらは別人扱いされてきたが、
すべて同一人の名乗りであることは、
すでにこの講座でよく御存知である。
この<ソナカ>は<息長>、<足仲>と当て字されて、
それに帯姫を加えたものは<神功皇后>の名乗りになっている。
<姫>は漢音「キ」で沖縄大隅発音では「チ」だから
息長之(シ)姫(キ)はソナカシチと読めるし、
<彦>も<日木>と書くと<ヒキ>→<シチ>と読める。
天の稚彦が
これらの別名の持ち主=仲哀天皇で若い卑弥呼の夫だったことは動かない。
このうちの<ツルカルニン>は間違いなくアレクサンドロス大王の称号の一つとして、
世界に知られた名乗りである。
都怒我阿羅斯等はそれをツヌガアル人と誤読した当て字である。
だとすると稚彦の死後、
弔問に現われた阿遅鉏高日子根=阿爾鉏高日子根(アレクサンドロス)の事件は、
この大王の名乗りの後継者が2人いて、まぎらわしかったというのが、
史実としての真相だとわかる。
『記・紀』には欠けているが、
その荒々しい王が「荒む王(スサノオ)」の一人であり、
それがスサという地名から、
「荒(すさ)む」という日本語の形容詞が生まれた可能性も示唆している。
これらの名乗りが全て仲哀天皇のものだと判ると、
卑弥呼の夫として、非常に貴重な発見になる。
その系譜や事跡が合うか?相互関係を確かめてみなければならない。
簡単に要点を挙げて比較してみよう。
仲哀天皇 天日槍 卑弥呼 神宮皇后
1 日本武尊の第2子 新羅王子
2 妻 気長足姫 但馬太耳の娘・麻多烏(マタオ) 孝霊・太瓊天皇の娘 息長宿祢の娘
3 若狭の角鹿に行事 播磨・淡路・若狭に行く 巴利国が女王国首都 三韓へも行く
4 若狭から九州に移る 若狭から但馬に移る (播磨は後世の巴利国人の移動先)
(若は稚(チ)ヌ国=沖縄、狭(タンネ)・但馬(種子国(タジマ))・太瓊(タニ)は、みな種子島)
ここで一番重要なのは、但馬太耳の娘・麻多烏である。
卑弥呼は天照大神として宇治山田に祭られ、
その遺跡は内山田の地名を残している。
<麻多>は<アサダ>ではなく<ヤ>が欠けているのだから、
<ヤ>麻多=山田。八麻多=八俣。
残る<烏>=<オ>は、<オロチ>=大蛇の<オ>だったのである。
八俣大蛇とは、単なる比喩ではなく、
この名から生まれた合理的な名詞だったことがこれでわかり、
それを討った<スサノオ>が邪馬壹国天皇・垂仁だったことも動かなくなる。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学院講義録29:12~13頁」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
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2012年3月28日水曜日
猿田毘古=大人弥五郎=屋久王=スサノオ
《猿田毘古=大人弥五郎=屋久王=スサノオ》
「猿田毘古=大人弥五郎=屋久王=スサノオ」
兜布とは何なんだろう?と辞書を引くと、
「修験者のかぶる小さい頭巾。山中遍歴の際、瘴気に触れるのを防ぐ為に被るという。
法身不変を表示する黒白の布で造り、十二因縁に象って十二の襞(ひだ)を設け、
紐で顎に結びとめる」と書いてある。
だが、それは頭巾にしては余りに小さく、またなぜ?
頭を覆わずに額に着けるのか?という肝心の理由が書いてない。
ところが、私たちは、それは海人たちのものだと知っから、
この疑問にも正しく答えることができる。
沖縄の語源・ウチナーは大天で天竺、すなわちインドから来ているが、
そのインドの海に注目すると、海の聖獣はマカーラである。
これは神々の王・ビシュヌーの化身の一つだが、
その特徴は額にある一本角である。
中国ではその一本角が死者を護る象徴とされ。
人面や獣の頭につけられた副葬品が多数出土している。
その一本角は小さく、まさに兜布を頂く位置に生えている。
ことに鹿児島県大隅町の、大人弥五郎どん祭りの、
この面のものは、まさに兜布そっくりである。
これで大人弥五郎は、間違いなく猿田彦だとわかる。
しかし何故?名が違うのだろう?。
大隅語の発音は「ヤクルドン」である。
私にはそれは屋久郎ドンと聞こえる。
こんな顔をした屋久島王といえば、
そこに杉を植えたスサノオもそれに該当する。
大隅では弥五郎は武内宿祢だともいう。
宿弥は高族=カリエンで、宝貝を貨幣として中国に売って、
その富で商帝国=殷を樹立した一族の、長の名乗りである。
これでフェニキヤ人が屋久島へ来た時期も判った。
それは縄文杉の年輪と共に貝貨幣と殷の発掘物とそこに書かれた文献史料という、
莫大な物証をもっていたからである。
屋久郎ドンは海人の王だから、
船の王であり、海原を支配した神・マカーラでもある。
その容貌は、まさしく中近東の人である。
とすれば、兜布はフェニキヤ人の船乗りのもので冠の一種だったのである。
それが冠だった証拠もまた大量にある。
それは江戸時代まで実用品だった武士の礼装用の冠で、
浅野内匠守が刃傷の場で額につけているあれである。
これは新羅の王も全く同じものを着けていたことが、
出土品の陪葬騎士像ではっきり判る。
それは兜布とは形が違い、はるかに複雑な形になっているが、
額の前方の同じ位置に着け、紐を顎で結んで止める。
兜布を基に考案、心理的効果を狙って改良進化したことが判る。
このことで、
もう一つ国史の中で大きな位置を占めている「宿祢」とは、
どんな意味をもっ名詞かという謎が解けた。
武内宿弥はスサノオで、
屋久島に初めて杉を植えた人物だ王であったことは間違いないから、
古代皇族の名乗りにたくさん見られる
「足」や「根」の称号で呼ばれても不思議ではない。
「祢」は、その「根」とみて間違いない。
では「宿」は何のことか?。
鹿児島語では杉は「スッ」である。
そして宿もまた「スッ」である。
指宿は「イブスッ」と聞こえる。
「宿祢」も、「杉根」も、どちらも「スッネ」である。
ただ杉根は、「杉の木の根っこ」ではなくて、
「杉の王」を意味していたのである。
こう解ってみると
スサノオ=猿田彦=大人弥五郎=武内宿祢の関係は、
同一とみて微動だもしない。
それはもちろん名乗りの上だけのことで、
屋久島にレバノン杉を植えたスサノオと、
壹與=神功皇后を助けた武内宿弥は時代が千年も違い、
別人であることはいうまでもない。
宿祢と同じものに「足尼」がある。
こちらはソクニだから大隅人だとソクはスッになる。
ニもネの大隅語。
これはスッネという発音を聞いて、
大隅人が当て字をつけたものという ことになる。
さらに南九州では
スッネは「少ない」でもあるから少名彦名の命でもある。
こうして名乗りや称号を分析してみると、
それらがどの地域で使われ、記録されたかが
よくわかるものが多い。
このことも言語復原史学の機能の一つである。
この地域の差は、形の上でも現われる。
たとえば兜布のもとになった一本角は、
夥しい変異を生み出しているから、
それを入念に観察すると、
それがどこからどこへ伝播したかという伝播ルートが分かる。
一本角はバビロンの神・マルドゥクの神竜像や、
そのイシュタル門のレリーフにも明瞭にみられるから、
インドのマカーラが先ではない。
在来の古代交通観とは違って、
交通・通商は質も量も速度も大きかった。
だから文化の伝播は決して一方通行ではない。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学院講義録36:19~23頁」
『参考』
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2012年3月27日火曜日
天智天皇は何者か?
《天智天皇は何者か?》
「天智天皇は何者か?」
ウィキペディア百科事典によれば「天智天皇(てんちてんのう/てんじてんのう。男性。推古34年(626年)- 天智天皇10年12月3日(672年1月10日))は、第38代に数えられる天皇。国風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと/あまつみことさきわけのみこと)。青年期の名を中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/なかのおおえのみこ)、幼名を葛城皇子という。」と書かれている。
出典:Wikipedia:天智天皇
蘇我氏を倒した主人公「天智天皇」とは、どういう人物であったか、
その名の分析から始めてみよう。
この天皇は、大化改新当時は、「中つ大兄の皇子」として登場する。
この「中」は、これまで考えられていたような「上・中・下」という、
兄弟の順序を表わす名ではない。
「上つ大兄」も「下つ大兄」もいないからである。
ではこの「ナカ」は何を意味しているのであろう?。
「ナカ」という名で思い当るのは、の皇子が一番大切にし、
助けあった人物も「中臣の鎌子(ナカトミのカマコ)」という
「ナカ」の名乗りをもっていることである。
これは天皇の場合と同じく、その所属国の名乗りととみると、
皇子は「ナカ」の国の皇子で、
鎌子は「ナカ」の国の臣だという名乗りになる。
中つ大兄時代以前には「ナカ」の名乗りに合う都市は
「長柄と中津」以外には近畿にはない。
だが九州にはピッタリの国がある。
中つ大兄の皇子が皇太子として重要な働きをした、
と記録に残る
斉明天皇紀の七年三月
『天皇は「娜の大津」へ着き、磐瀬の行宮に滞在して、
そこを「長津」と改名した。』という
現在の福岡市、
今、那珂川という川の名に名残りを残している「那珂の国」である。
大分県の中津市は諸条件が合わない。
斉明天皇は間なく朝倉の宮(福岡県朝倉郡)で死に、
「中つ大兄の皇子」は皇太子として「長津の宮」で6年間を過ごす。
その名乗りが「那珂津大兄」であったのは当然である。
その名は支配者を意味する福岡地方の領主「那珂の王」である。
もちろん福岡は北に新羅、西北に百済のある「日本」の一部であって、
絶対に「倭国」ではない。
となると彼が「倭国」の
舒明、斉明両天皇の子であるというのは、ウソなのであろうか?。
舒明天皇の和風諡号は「息長足日広額」である。
息長は「ソナカ」。
足日は「ソカ」。
蘇我の一族であることは一目瞭然である。
その父は「押坂彦人」=「オーサカ彦人」で、
これも倭国の大領地「大坂」の王という名乗りをもつ。
その子が敵国だった日本国の「那珂の王」だったとはとても考えられない。
では一体、中つ大兄の皇子=天智天皇とは何者なのか?。
『日本書紀』の答は何と以外にも「韓人」なのである。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・邪馬壹国大移動:32頁」
『参考』
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2012年3月26日月曜日
4人の卑弥呼
《4人の卑弥呼》
「4人の卑弥呼」
ウィキペディア百科事典によれば「卑弥呼(ひみこ、生年不詳 - 248年頃)は、日本の弥生時代後期における倭国の女王(倭王)。邪馬台国を治めた。封号は親魏倭王。後継には親族の台与が女王に即位したとされる。」と書かれている。
※出典:Wikipedia:卑弥呼
実在した「卑弥呼」は4人いた。
①それは伊是名で生まれた初代・卑弥呼=オオヒルメ貴(ノムチ)。
②孝霊天皇の娘で崇神天皇の伯母だった倭迹迹日百襲姫(ウワイトトホホソヒメ)。
③崇神天皇の皇后・御間城(ミマジョウ)姫=弥馬升。
④もう一人の弥馬升=垂仁天皇の皇后・日葉酢(ビバス)姫=壹與。
との4人が確実にいた。
このことはまた、
同じ「弥馬升」を「ミマジョウ」(大隈語)と「ビバス」(沖縄語)と読んで、
言葉の違いを浮き彫りにしている。
卑弥呼政権と邪馬壹国政権とでは、
言葉でもこんなに異なる人々の交替があったことが、
よく理解できたと思います。
このうち、卑称弓呼素と争って死んだのは、
前後の関係からみて倭迹迹日百襲姫だったとわかりますが、
彼女の弟「彦五十狭芹彦=彦イサキン彦」という名乗りは
「軍君=イッサキン」という現役司令官名への当て字ですし、
彼の本名は「吉備津彦」ですが、
これは伊都国の副官・泄謀觚柄渠觚(シモクァピンチュウクァ)を
「下吉備津彦=シモキビツヒコ」への当て字と為ると、
すべてがよく合いますから、
この現役軍人の姉・倭迹迹日百襲姫も
そんなに高齢ではなかったことが推測できます。
この弟が、梯儁が伊都国で卑弥呼と会ったとき
「男弟あり、政治を補佐す」と記録した男弟であることも、
これだけ証拠がそろえば全く疑いの余地がありません。
卑弥呼といっても『魏書倭人章』が書いている記事には、
このように複数の卑弥呼が実在したのです。
その中でいちばん重点が置かれているのが倭迹迹日百襲姫で、
彼女はその血も容姿も職務も信仰も神託の方法まで、
すべてギリシャの地中海文明を受け継いでいました。
またこれで卑弥呼とは個人名ではなく、
「地位」にともなう「称号」だったことも確認できた。
※出典:加治木義博「日本国誕生の秘密・徳間書店:175~178頁」
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2012年3月25日日曜日
聖徳太子
《聖徳太子》
「聖徳太子」
ニギ速日の『天孫降臨』は、
普通にいえば逃亡、よくいえば「奈良への遷都」の記録だった。
こう断定するのには、ほかにもっと強力な根拠があるからである。
『日本書紀』が、
その「斑鳩(いかるが)」に倭国政権があったことを、
別の部分に明記しているからだ。
『日本書紀』の記事が、
時代が混乱して、様々なものが混じりあっていることは、
すでによくご存じのことだから、
次の話にも驚かれることはないと思うが、
その斑鳩の宮に遷都したのは、ほかでもない聖徳太子だと書いてある。
『日本書紀』[推古天皇九年]の部分に
「春二月、皇太子、初めて宮室(みや)を斑鳩に輿こす」と記録してある。
いうまでもなく推古天皇の皇太子は聖徳太子である。
この「初めて宮室を…輿こす」という言葉の意味は、
「史上初めて斑鳩(奈良県)に都を置いた」ということで、
その次にある同年五月の記事には、
推古天皇が「耳梨(みみなし)の行宮(かりみや)(仮の宮)」にいると書いてある。
なぜ、天皇たちは、そんな不便な暮しをしていたのか……。
それは前の年の八年の記事を読むとわかる。
「八年春二月、新羅と任那とが、互いに攻め始めた。
天皇は任那を助けたいと思い、
大将軍を任命して新羅を攻めて5つの城を落したので、
新羅王は白旗をかかげて降参した。
そして新羅、任那両国が、
平和と、毎年貢(みつ)ぎものを持ってくることとを誓ったので、
将軍を帰還させたところが、新羅は誓いにそむいてまた任那を攻めた」
と書いてある。
それが新羅王・金春秋(はるあき)=天智天皇の大阪大戦だったのである。
それは白肩の津の戦いとして[神武天皇紀]に入れられているが、
その時の太子が「ウマシマジ=馬子・馬子=ウマコ=厩戸=聖徳太子」で、
その母が「三炊屋姫=豊御食炊屋姫=推古天皇」だったことは
すでにご存じの通りである。
この[推古紀]の記事が、
三炊屋姫の夫・ニギ速日の大阪大戦の敗戦時のものだということは、
どの視点からみてもよく理解できる。
これで聖徳太子といわれてきた人物が、
倭国敗戦当時の実在者であったことが、
より鮮明に確認できた。
彼はその「ウマコ」という名乗りの示す通り、
蘇我の馬子でもあり、
時期的にみて有間の皇子でもあった。
後世の太子信仰によって飾られた、
栄光に満ちた従来の想像とは違って、
その実像は、
亡国の悲哀をなめながら死んだ悲劇の人だったのである。
さらにこのことによって、
歴史の専門家でも考古学者でもない哲学者の
梅原猛・元京都市立芸術大学学長が、
その著『隠された十字架』薪潮社・1972年刊)で、
法隆寺の門の構造から
「太子は悲劇の人であったのではないか」と指摘されたことは、
非常に鋭い観察力に基づく、
実に優れた洞察であったことを、
改めて強く感銘させられると思う。
しかしなぜ、ニギ速日でなく、太子が移ったのだろう?
太子が主人公であるのをみると
「すでにニギ速日は死んだ」と書いてある
『先代旧事本紀』が、『日本書紀』より正しいことになるが、
真相は他へ逃亡したということもありうる。
どちらにしても奈良へ逃げこんだのは、妻子らだけだったのだ。
またこれによって、
推古と皇極=斉明天皇が、一人の同じ人物だったということを、
さらに確実な事実として証拠に加えることができる。
※出典:加治木義博「YAMATO・KKロングセラーズ:80~81・85頁」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
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2012年3月24日土曜日
鬯艸(チョウソウ)・霊芝
《鬯艸・霊芝》
「鬯艸・霊芝」
ウィキペディア百科事典によれば
「霊芝(レイシ)は、マンネンタケ科のキノコであり、
漢方成分として高血圧症や高脂血症等に用いられる。
別名マンネンタケ。
近年サプリメントとして販売される事例もあり、
手軽に入る反面、副作用も報告されている。
これ以外に、ただ霊妙な働きを行うキノコの事を指して言う場合もある。」と書かれている。
出典:Wikipedia:霊芝
『論衡(ろんこう)』に、
周の皇帝に倭人(ウワイト)が
「鬯艸(チョウソウ)というものを貢(みつ)いだ」
という記事がある。
当時「鬱鬯酒(ウッチョウシユ)」という酒を特に神を祭るために造ったが、
その主材料は黒黍(くろきび)で、
もちろん雑菌製だからどす黒く苦い原酒しかできない。
とてもそのままでは飲めないから蒸溜して焼酒をとる。
しかし、それでも臭気は抜けないし、まだ汚い色がついている。
この臭気をごまかし、色をきれいに見せるために、
必要だったのが鬯草(ちょうそう)と鬱金(うこん)という
2種類の薬草だったわけである。
殷末の酒池肉林もこの鬱鬯(ウッチョウ)が主役だったとみていい。
この鬯草がどんなものだったかを調べてみると、
茸の一種の霊芝(れいし)(マネンタケ)だったという結論になる。
霊芝は最近、
薬効があるというので薬局の店頭でも多く見かけるようになった。
※出典:加治木義博「保育社(カラーブックス)・焼酎入門:98頁」
『山海経』には「周時代に越裳が雉を献上し、
倭人が鬯艸(チョウソウ=茸の一種の霊芝=レイシ)を貢いだ」と書いてあるが、
霊芝は日本列島ではほとんど採れない希な植物なのに対し、
越(ベトナム)や裳(シャン=ミャンマー・タイ)の一帯には多産する。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録7:15頁」
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2012年3月23日金曜日
カボチャ
《カボチャ》
「カボチャ」
ウィキペディア百科事典によれば
「カボチャ(南瓜、英名:Pumpkin、Squash)は、
ウリ科カボチャ属 Cucurbita に属する植物のうち食用とされるものの総称。
原産は南北アメリカ大陸。 果実を食用とする。
「カボチャ」という語はポルトガル語の Cambodia abóbora (カンボジャ・アボボラ、
「カンボジアのウリ」の意)の後半が略されたもの。
逆に前半を略してボーフラあるいはボボラと呼ぶ地方もある。
また、「南瓜」は「南京瓜」の略であるという。
「唐茄子(とうなす)」
「南京(なんきん)」という呼び名も使用されることがある。
なお、北米では英語でパンプキンと呼ばれるものは
果皮がオレンジ色の種類に限られ、
その他のカボチャは全てスクァッシュと総称されるため
日本のカボチャは「カボチャ・スクァッシュ」と呼ばれるが、
オーストラリアなど他の英語圏ではこの限りではない。」と書かれている。
※出典:Wikipedia:カボチャ
中国では、野菜のカボチャを「倭瓜(wo kua)」と呼ぶ。
その変わった瓜は日本産で、
日本から輸入したものだと思われているのである。
だが注意がいるのは、
それが近世に日本から中国にはいったものなら、
それは「日本瓜」と呼ばれ、
中世以前にはいったものなら「大和瓜」か「夜麻土瓜」と
呼ばれたはずなのに、
なぜ『倭瓜』と呼ばれているのか…という点である。
日本ではそれはカボチャと呼ばれている。
面白いのはそれが関西で「ナンキン」と呼ばれていることである。
ナンキンとは「南京」のことだから、
こちらでは中国から来たとしている。
まるで正反対なのが面白いのである。
だが『魏書東夷傳倭人章』にはカボチャの記載がなく、
倭国時代にも日本では栽培していない。
カボチャとはカンボジャのことだというのは常識だ。
ウパイが東南アジアでウバイになり、
それも中国に入って優婆夷と当て字されているので、
当時の相互交通がわかる。
それがさらにウワイになり、ゥォになった。
倭瓜の発音が「ゥオクワ」なのは、
倭が日本で「ゥオ」と呼ばれるようになった後、
その発音が中国南部に定着した時代に
倭人が提供したカボチャが中国で
「倭瓜:ゥオクワ」という名で定着した。
それは『魏書東夷傳倭人章』時代以後で、
当時寒冷だった関西には温暖化が進んだ後世になって
南京経由で逆輸入されたとわかるのである。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録7:15頁」
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2012年3月22日木曜日
稲作文化:4種類の稲
《4種類の稲》
「4種類の稲」
これで日本列島には
「3000年以上昔に、中国の殷帝国のものと共通の、イネと呼ぶ陸稲があった。
縄文遺跡から出る超古代米はこれである」ことがわかった。
次いで時期は不明だが
「クメール人移住者が小粒の米の取れる水稲をもって来て、
久米島を本拠にして定住し、その後、コメが沖縄から本土まで広まった」。
「縄文晩期にはソナカとウッタラが率いる仏教宣布団が渡来、
ソナカは南九州から熱帯ヤポニカ栽培を広め、
ウッタラは本州を東進して寒さに強い水稲を弥生前期に弘前まで広めた」こともわかった。
それはざっと大別しても4種類の稲が、
約1000年の間に日本列島に運ばれて来て、
いずれも立派に栽培にされたことが明瞭にわかる。
①その種類も殷~稲敷の米は寒地型陸稲。
②久米島の米は小粒の、
③南九州の米は大粒の、いずれも熱帯ヤポニカ水稲で、
④弘前の弥生前期水田のものは、
マガダ以北産の寒さに強い温帯ヤポニカ水稲だったとわかる。
「縄文晩期の北部九州の稲作遺跡は日本で最初の稲作文化だ」
という在来の説は、
実に恥ずかしく情けない虚説を発表したものである。
我が国の「稲作文化」は、
3000年以上昔の殷代以前から立派にあったのであり、
北部九州のそれは、はるか後世に南九州に渡来した稲の、
そのまた移動後のものの一部に過ぎず、中国から朝鮮経由で来たのでもない。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録21:31頁」
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2012年3月21日水曜日
稲作文化:仏足石(ぶっそくせき)
《仏足石(ぶっそくせき)》
「仏足石(ぶっそくせき)」
これでもまだ「大太良法師」が仏教と無関係だと思う人は、
彼の話のヤマが「巨人の足跡」だという事実。
古代人は裸足で歩くのは当然で、足跡になんか関心を持つはずがない。
それなのに特別に足跡の話をあちらこちらに残したのは、
それまで考えもしなかった足跡というものが、
突然、彼等の話題になるような事態を体験したからである。
それは稲を植えるためには、過去には避けて通った泥濘(ぬかるみ)に、
足を入れるという不快な行為が強制される。
そのときイヤでも順に足跡がつき、その足で歩いた道にも足型がつく。
もう一つは仏足石(ぶっそくせき)」が当時は釋迦の象徴だったことである。
中期の仏教は繹迦像を作ることを避けて、
仏の足型と称するものを聖体として礼拝させていた。
水稲稲作という不慣れな農業で足型に関心をもった人々に、
その仏足の話は効果的に「巨人・釈尊」の偉大さを、
印象づけるはずだったが、
残念ながら当時の弥生人は、
インド人ほどの教養環境で育ってはいなかった。
彼等の印象に残ったのは巨大な肉体をもった怪人が実在するという
「新知識」だけだったから、
やがてまだ見ぬ最高指導者の「大太良法師」と混線して、
ダイタラボッチという怪物の話が出来上がってしまったのである。
こうした民話は従来は漠然と、
愚かな古代人の想像した無駄話ぐらいにしか扱われなかったが、
そうした伝承学はもう古過ぎる。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録21:29頁」
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2012年3月20日火曜日
稲作文化:アソカ仏教宣布団
《アソカ仏教宣布団》
「アソカ仏教宣布団」
1985年に青森県弘前市の砂沢遺跡で、
弥生前期の水田跡が発掘された。
弥生水稲が南九州に移植されてから、
1~2世紀の間に本州北端まで広がったのである。
これらは弥生中期に卑弥呼と結婚したソナカたち一行の遺物ではない。
それより5世紀も前の移住跡なのである。
それは前記の通り、
水稲栽培開拓にまつわる難問題を克服できるだけの、
かなりの人数の人々の大移住があった証拠だが、
交通至便な現代でも余程のことがなければ移住などしたくはない。
ましてや歩くか船に乗る以外に乗り物のなかった時代に、
本州の北の果てまで移住したのは、
余程の理由があったことになる。
一体だれがそこまで行ったのか?。
しかし当時、水稲の原産地帯にも、
中国にも、九州にも大量移住が必要な大動乱や大災害などはどこにもなかった。
そんな地域まで、これほどの長距離大移動を敢行したのは、
世にも希な目的意識のある人々がいたためとするほかないから、
それはやはり弥生直前に敢行された
アソカ仏教宣布団の大移動以外にはありえない。
マレー語源からフィリピンまで、ソナカと犬と支配者の称号を残した、
あの卑弥呼の夫の祖先のソナカが、
南九州から次第に東北地方まで、
仏教圏を拡大して行ったのであろうか?。
またそんな寒地にまで熱帯ヤポニカ種が適応しただろうか?。
それとも寒地向きの稲も準備していたのであろうか?。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録21:27頁」
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2012年3月19日月曜日
稲作文化:棚田(たなだ)&高橋貝塚
《棚田(たなだ)&高橋貝塚》
「棚田(たなだ)&高橋貝塚」
さらに見落としてならないのは、
水稲栽培技術の究極は「棚田(たなだ)」を実現したことであるが、
その最古の遺跡が鹿児島県の天孫降臨の伝承地・
笠沙の一部にあるという事実である。
この棚田は後世の長野県などのものに比べると、
はるかに小規模ではあるが、技法はすでに確立されており、
鉄器の不自由だった弥生初期に、
水稲稲作の先進国だけがもつ英知、
進んだ技術がそのまま南九州に入ったことを立証していた。
これは『紀・紀』の天孫降臨の伝承をもつこの地域が、
その伝承のまま、北部九州よりも水稲稲作先進地だった証拠である。
発掘考古学者が無視したこうした遺物もまた、
軽率な中国→朝鮮→北部九州説を完全に消去する力をもっている。
この笠沙と一体になった南九州西岸、
吹上砂丘の東部、海岸から約2.5kmの地点に、高橋貝塚がある。
ここは縄文晩期から弥生前期にかけての遺跡で、
出土品の甑(こしき)=(穀物を蒸す土器)に、
土器を作る際に付着した熱帯ヤポニカ稲の籾(もみ)の跡が、
幾つも付いているのが発見された。
また同時に発見された石器には稲作関係の器具が完備して稲作文化の実在を証明し、
鏃(やじり)の残骸らしい鉄器片まで出土しているのに、
土器は高橋Ⅰ式とⅡ式という、
北部九州の板付式土器と共通点の多い土器だけが出土して、
大陸系のものは一つもない。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録21:26頁」
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2012年3月18日日曜日
稲作文化:穂利(フウリ-)
《穂利(フウリ-)》
「穂利(フウリ-)」
稲に関連したマレー語の名詞には、
まだ日本語と共通のものがある。
穂をブリルというのは稲穂をイナボという「ボ・ホ」の沖縄発音「プ」に合い、
船の早漕ぎ競争の名を「穂利(フウリ-)」と書くのは、
稲の渡来時の苦労と感謝を忘れないための「ブリル」に語源があり、
その行事を伝えた南中国でも古来「巴竜船」と呼ぶのは、
沖縄人と共通の歴史をもつ証拠である。
また東北地方の古語では古墳を「ホーリョー」と呼ぶが、
これも稲をもたらした倭人が、
「穂利・巴竜」と呼ばれた名残りとみれば、謎はとける。
マレー語では米はプラスである。
これと関連があるのは「部落」で、
これは「米作り」を指すプラスへの当て字とみて間違いない。
これがさらに清音化すると「プラ=ムラ」になる。
ではソナカらはマレー語圏からすぐ我が国へ来たのか?。
フィリピンのタガログ語を調べてみると犬は aso アソである。
ここではソナカよりもアソカのほうが強く印象に残ったのだが、
ソナカが来なければ「犬」にこの名がつくことはない。
アソは我が国でも阿蘇・阿曽・麻生などとして残っている。
タガログ語では米は「 inapui イナプイ」である。
いうまでもなく「イナ・イネ・イン」の仲間で、
これも「稲生・稲武」という地名や姓がある。
過去の発掘調査で充分だとは誰も考えないが、
ソナカ宣布団のコースはこれで、ほぼ固まった。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録21:25頁」
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