2012年4月12日木曜日
民族の名称
《民族の名称》
「民族の名称」
民族の名称どんなふうにして名づけられたものか?。
文化人類学者の研究結果は、
その民族の人称代名詞の第一人称(私・僕など)を、
その民族の呼名にしたものが多い。
私たちの「ワタシ」を考えてみると、
沖縄方言では「シ」を「チ」と発音するから「ワタチ」。
これは上代に使われていた「我達」「吾達」の「ワ達」と同音で、
「ワ=第一人称」に「達=複数語尾」がついた
人称代名詞・第一人称・複数が、
現代では第一人称・単数に変化したものだと分る。
私たちは今も「ワ」という第一人称を使っているのである。
これで「倭」の字は「ワ」という
「私たち日本人の第一人称につけられた当て字」だったことが分った。
日本の方言で使われている別の第一人称の正体も次第に明らかになってくる。
670年に
「日本」と合併した「倭国」は大阪府の河内地方を中心にしていたが、
河内方言の第一人称は「ワイ」である。
これは「委」の字の中国南部の発音「ワイ」と一致する。
また3世紀に卑弥呼がいた「倭国」の首都は鹿児島県にあったが、
その地方にあったが、その地方の第一人称は「ゥオイ」である。
これは中国南部の、もう一つの方言音「ゥオイ」に一致する。
石川県小松などでは「ウワ」というが、
それから「ウラ」「オラ」「オレ」に至る転訛が跡ずけられる。
ここで面白い例を一つ挙げてみよう。
それは鹿児島県にある地名「上井」で同じ姓もある。
これは標準語で発音すると「ウエイ」で倭の北京音「ウェイ」と一致するが、
地元では「ウワイ」か「オワイ」と発音する。
この方は「委」の広東音に近い。
ところが戦前、鹿児島県北部方言では「上井殿」を「ワツドン」と発音する。
これは分析すると「ワ津殿」すなわち「ワの殿」で、
「ッ」は助詞であるから「上井」は「ワ」なのである。
「ワ」という第一人称につけられた当て字
「倭」がもっていた発音の変化が、
こうして上井という字に置き換えられながら、
なお古代の発音を失わすにいたのだ。
上井という地名が今も残る国分市は3世紀の卑弥呼の都の跡である。
そこに「ワ」の地名が残っていても不思議はないが、
「ワ=倭=ウェイ=上井」という当て字変化の謎は、
限られた地方のナマの方言を
自分の耳で聞くという幸運に恵まれて始めて解けたのだった。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・邪馬壹国大移動:28頁」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
『言語復原史学会:画像』
『My ブログ』
古代メソポタミア
歴史徒然
ウワイト(倭人):大学講義録
ウワイト(倭人)大学院講義録
オリエント歴史回廊(遷都)
古代史つれづれ
古代史の画像
ネット歴史塾
古代史ブログ講座
ネット歴史塾
ひねもす徒然なるままに
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
『検索』
GoogleWeb検索
Google画像検索
YahooWeb検索
Yahoo画像検索
翻訳と辞書
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状
2012年4月11日水曜日
河童
《河童》
「河童」
ウィキペディア百科事典によれば「河童(かっぱ)は、日本の伝説上の動物、またはUMA。両生類と推測される。河太郎ともいう。ほぼ日本全国で伝承され、その呼び名も、形状も各地方によって異なる。仲間は、せこなどがいる。」と書かれている。
※出典:Wikipedia:河童
アレッサンドロス帝国の中にあった「カッパドキア」と、
日本の「カッパ」という名もまた無関係だとはいいきれなくなる。
ローマ法王をマグナ・カッパと呼ぶが、その頭は本当に「河童」のように丸く剃る。
怪物としての河童は架空のもので、ここでは議論する対象ではないが、
カソリックの儀礼や3世紀の卑弥呼の儀礼や、
その起源である
シンドゥ教の最高神シバと、
キリスト教の最高神のエホバが
同じ神だということを考えれば、
これもまた学問上、無視することはできない。
すると見逃せない伝承が八代にある。
「河童上陸の地」という石碑が今も建つ遺跡が現存しているからである。
河童をわざわざカッパという特異な発音で読むのは、
カルデアの隣人カッパドキャ人が来たとまでは断定しなくても
その名が影響しているかどうかという研究課題であり、
高族の祖であるカリエン=カルデアン=カレン族の風俗「おカッパ頭=断髪」
(加治木義博著『日本人のルーツ』=保育社の『南島漂流記』
挿絵スケッチに見る沖縄のギリシャ型の髪型と服装と三叉矛)
との関係は、江戸時代まで残っていた沖縄風俗と、
現在のカレン人の風俗と古代ギリシャ風俗資料が大量に実在していて、
否定することは不可能である。
※出典:加治木義博「HIMIKO・KKロングセラーズ」
「言語復原史学会・大学院講義録10:6頁」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
『言語復原史学会:画像』
『My ブログ』
古代メソポタミア
歴史徒然
ウワイト(倭人):大学講義録
ウワイト(倭人)大学院講義録
オリエント歴史回廊(遷都)
古代史つれづれ
古代史の画像
ネット歴史塾
古代史ブログ講座
ネット歴史塾
ひねもす徒然なるままに
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
『検索』
GoogleWeb検索
Google画像検索
YahooWeb検索
Yahoo画像検索
翻訳と辞書
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状
2012年4月10日火曜日
神武天皇の日向は壱岐か
《神武天皇の日向は壱岐か》
「神武天皇の日向は壱岐か」
《神武天皇の日向は壱岐か
》
「神武天皇の日向は壱岐か
」
「神武東征」と『魏書倭人章』の記事と、
垂仁天皇の名乗りとを総合して重ね合わせてみよう。
神武は倭を攻撃して敗れる。
天皇は「日の神の子が日に向かって戦ったのが間違いだった」と
反省したと『記・紀』ともに書いている。
この戦いは従来、大阪と奈良の境にある生駒山で
「東に向かって戦った太陽がまぶしくて負けたのだ。」と考えられて来たが、
その想像は余りにも不合理である。
なぜなら弓戦は明るい昼間しか戦えない。
東に太陽があるのは朝だけで正午には東南に、そして頭上にくる。
今その古戦場とされて来た生駒の「クサカ」坂へ行ってみると
東に山があり樹木が繁っていて、
東に向いて日がまぶしいということは考えられない。
この「日に向つて」は方角をさしているのであって実際の先頭とは無関係である。
『記・紀』は、戦いに敗れた
神武が「今度は背に日を負って戦おう。」
と迂回して「南」の熊野に移ったと書いている。
この記事を見ても「背に日を負って」が南からの攻撃を意味し、
「日に向って」はその反対に北から攻めたのだということが直ぐ分る。
伊支馬は壱岐王という名乗りでもあった。
壱岐から九州本土はいうまでもなく南にある。
これが「日に向かって」であり、その日に向かった国すなわち壱岐が、
神武が遠征を開始した「日向」だとみると話がよく合う。
その日向が九州より北だとすると「イコマ」はどうなるか?。
<イコマ>と読める地名が今の生駒山だと思わせたのも無理はないが、
神武天皇の到着点が鹿児島県下であり、
伊支馬の名が壱岐を意味することを考えると、
その<イコマ>は「壱岐王=イキウー=伊久」を「イク」と読んで
「膽駒」と難しい字を当てたり、
また「イクパ=生葉=今の福岡県浮羽郡」を
「生馬」と書いたものであった可能性もあり、
付近には五馬山という地名もある。
九州北部でなかったとはいいきれない。
しかしそれでは迂回した南の「熊野」とはどこか?。
この方も一致する土地があるであろうか?。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・邪馬臺国の風雲:141頁」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
『言語復原史学会:画像』
『My ブログ』
古代メソポタミア
歴史徒然
ウワイト(倭人):大学講義録
ウワイト(倭人)大学院講義録
オリエント歴史回廊(遷都)
古代史つれづれ
古代史の画像
ネット歴史塾
古代史ブログ講座
ネット歴史塾
ひねもす徒然なるままに
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
『検索』
GoogleWeb検索
Google画像検索
YahooWeb検索
Yahoo画像検索
翻訳と辞書
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状
2012年4月8日日曜日
倭の五王は日向王朝
《倭の五王は日向王朝》
「倭の五王は日向王朝」
《倭の五王は日向王朝》
「倭の五王は日向王朝」
当時の日本の状態をさらに詳しく教えてくれる情報が『隋書』の中にある。
それには東西五月、南北三月は同じだが、どちらに行っても「海に至る」という。
九州の南北は約00km強であるから一月行は約100km。
これを物尺にして西端の佐世保あたりから計ると
関門海峡までが約150km、あと350kmの地点は姫路附近になる。
しかしこれでは「海に至る」という表現に合わない。
東端も海に至る場所という点からは、
姫路以東では伊勢湾しかないが、
それでは距離がくい違い過ぎる。
だが、これを四国のことだと考えると、
四国の東端ほピッタリ姫路の真南に来る。
距離も、海に至るも、完全に一致する。
そこで倭の武王の上表文が一と役買うことになる。
彼は『宋書』の中で次のように当時の状態を数字で書き表わしている。
「東は毛人の55国を征し、
西は衆夷の66国を服させ、
海を北に渡って95国を平定した」とある。
南が欠けているのは彼の視点と出身を物語っている。
彼のいる位置が南端であったとしたら、
こうした書き方しかできないし、
そうでなかったとしたら、南は敵であったことがない。
すなわち彼が南方出身であり、
南を征服しょうにもそこが本国であって
対象にならなかったことを証明していることになる。
西というのは明らかに九州をさしている。
中国を征服したという報告ではないのだから
日本のうちで九州より西は海しかないからである。
東は唐代でもまだ四国であった。
その四国全体に55国が分布していたとすると、
丁度今の主な自治体数と一致する。
ここでも東55国、東西五月行が完全に証明されるのである。
九州を西と表現し、四国を東と表現していることは、
彼が九州東部か、四国西部に都していたことを物語っている。
かりに彼が四国東端にいたとしたら、
すべては西と西北ということになるからである。
九州東部には一大古墳群地帯がある。
それが倭の五王たちを中心とするものであることは疑がう余地がない。
文章は短かく断片的であっても、その証言を総合しさえすれば、
それらは互いに支え合って、完全に近い答えを出してくれる。
これもまたその良い例なのである。
この武王の上表は478年のことであるから、
9世紀末にはかなり変っていたように想像されると思うが、
前記の通り、東西五月行は変化がない。
これは古い記録をまる写しにしたからだという考え方が、これまであったが、
それだと、他の新らしい記事や、度び重なる遣使の状態と合わない。
こうした国土の状態などは、常にたずね、記録する担当者がいて、
必らず記録する定めになっていたからである。
また、遣使だけが往来したわけではなく、
多くの僧や商人の渡航、さらには中間帯である朝鮮半島経由の交通は、
すでに倭人章でも見た通りで、記録の文字数が少いのを、
情報不足のせいだと想像しているような者には、歴史を語る資格がないのである。
そこに書かれたことは多少のズレや書き損ないはあっても、
国土の大きさを間違えるということなどあり得ない。
では全く変化がなかったかというと、そうでもない。
それは『隋書倭国章』に記録があるからである。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・邪馬臺国の言葉:65頁」
※出典:加治木義博「言語復原史学会・邪馬臺国の言葉:66頁」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
『言語復原史学会:画像』
『My ブログ』
古代メソポタミア
歴史徒然
ウワイト(倭人):大学講義録
ウワイト(倭人)大学院講義録
オリエント歴史回廊(遷都)
古代史つれづれ
古代史の画像
ネット歴史塾
古代史ブログ講座
ネット歴史塾
ひねもす徒然なるままに
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
『検索』
GoogleWeb検索
Google画像検索
YahooWeb検索
Yahoo画像検索
翻訳と辞書
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状
拡大発展した日向倭国の残した巨大仏教遺跡
《拡大発展した日向倭国の残した巨大仏教遺跡》
「拡大発展した日向倭国の残した巨大仏教遺跡」
《拡大発展した日向倭国の残した巨大仏教遺跡
》
「拡大発展した日向倭国の残した巨大仏教遺跡
」
これでやっと、その日向に、
西都(サイト)の原(パル)という
巨大古墳群地帯が残ることの理由が、
鮮明に理解できるようになった。
そこには邪馬壹国の肇国者・垂仁天皇が身をもって
体験した肉親相剋(そうこく)の大悲劇の、
位宮と戦って死んだ主人公たちを葬った
「男狭穂(おさほ)塚・女狭穂(めさほ)塚」まで、セットになって存在する。
「サイト」というのは、文字通りの「西の都」という意味だけでなく、
「済度する=救う・よい結末をつける・極楽へ送る」という意味の仏教用語てもある。
そこは間違いなく死者を極楽へ送る衆生済度(しゅじょうさいと)の場所で、
サイトという地名の本来の意味は、
こちらの仏教用語のほうだったことが、誰にでもわかると思う。
これまで誰も真相を知らなかった巨大な謎。
西都原古墳群は、旧卑弥呼政権のその後を見事に展示して、
倭国政権が生き残ったことと、さらなる発展と、東方へ拡大したこととを、
幾重にも記録して見せている、壮大な日本有数の国家的文化財だったのである。
卑弥呼の死後、
倭国は近畿地方などへ直行する「東征や東遷」なんかしていない?
それは確かに行なわれたが、
倭王・武がいう通り、鎧を脱ぐ暇もないほどの戦いに明け暮れながら、
少しずつ領土を拡大し続ける、
永い年月を必要とした。
南九州からいきなり奈良に遷都したというような空想は、
幼児的頭脳が描く子供騙しにすぎない.
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録17:17頁」のである。
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
『言語復原史学会:画像』
『My ブログ』
古代メソポタミア
歴史徒然
ウワイト(倭人):大学講義録
ウワイト(倭人)大学院講義録
オリエント歴史回廊(遷都)
古代史つれづれ
古代史の画像
ネット歴史塾
古代史ブログ講座
ネット歴史塾
ひねもす徒然なるままに
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
『検索』
GoogleWeb検索
Google画像検索
YahooWeb検索
Yahoo画像検索
翻訳と辞書
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状
2012年4月7日土曜日
「ヒガシ」の語源は「日向」
《「ヒガシ」の語源は「日向」》
「「ヒガシ」の語源は「日向」」
《「日向」以外にない「日高見」》
「「日向」以外にない「日高見」」
これで「倭」とは何だったか?という問題に、また一つの答が加わった。
それは「アヅマ」とも呼ばれていたのである。
その東の国へ初めて調査に行った人物として記録されているのが、
応神天皇を名替えに連れていった武内宿弥である。
『日本書紀』[景行天皇25年]の記事に、
宿弥を北陸と東方の諸国に派遣して地形と人々を視察させたとあり、
27年に東国から帰って
「東夷の中に日高見国がある。
その国民は男女ともチョンマゲに似た髪を結い、入れ墨し、勇敢である。
その名を蝦夷という。土地が肥えて広い。
改めて取りましょう」と報告している。
従来はこれは今の北陸・奥州の蝦夷=アイヌ人だとしてきたが、
アイヌ男性は髪の毛をオカッパにしていて絶対にチョンマゲなど結わない。
蝦夷は「カイ」であって「貝人=カリエン」のこと。
また北陸奥州では貝産業は成立しないから、
北陸とは北にある陸地、
東国とは倭国のことでなければならない。
沖縄から南九州にかけては日高姓の人が多い。
この日高を「ヒコウ」と読めば「日向」と同じ発音になる。
残る「見」は沖縄では「目」を「ミ」と発音するが、
他の地域の古語では「マ」で国を意味する当て字だから
これは「日向国」への当て字とするしかない。
宿祢は日向を視察して帰ったのである。
《「ヒガシ」の語源は「日向」》
「「ヒガシ」の語源は「日向」」
日向は今の宮崎だが、蝦夷が宮崎にいただろうか?…。
『旧唐書』の「日本」は
鹿児島県以外には当てはまらない特徴を多敷備えているが、
その東と北の境に大山があり、
その向うは「毛人」の国だと書いてある。
その大山は霧島山塊に当たるが、「キリシマ」とは「毛人之国」の一つの読み方である。
そして「毛人」と「蝦夷」は同じ人々を指す呼び名なのだ。
唐の時代になってもまだ、宮崎は「蝦夷の国」だったのである。
しかし古代日向は宮崎県だけではなかった。
鹿児島県も日向に入っている。
このことはヒムカシという言葉が生まれた時代が、
宮崎だけが日向になった後だという証明なのである。
武内宿祢はそこへ「西の国」から視察に行った。
宮崎の西には鹿児島県しかない。
「ヒガシ」というもう一つの発音である。
「日向」は「ヒュウガ」と発音しているが、
これはどこかの訛りの一つで、本来は「ヒムカ」だった。
これに「之国」をつけると、
「ヒムカ之国」で、これは「ヒムカシ国」と読める。
日本の古文や万葉集などの古語ではヒガシでなく
「ヒムカシ」と発音している。
それが次第に「ヒガシ」に訛ったのだから、
その語源は間違いなく「日向」だったのである。
しかし古代日向は宮崎県だけではなかった。
鹿児島県も日向に入っている。
このことはヒムカシという言葉が生まれた時代が、
宮崎だけが日向になった後だという証明なのである。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録6:6~7頁」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
『言語復原史学会:画像』
『My ブログ』
古代メソポタミア
歴史徒然
ウワイト(倭人):大学講義録
ウワイト(倭人)大学院講義録
オリエント歴史回廊(遷都)
古代史つれづれ
古代史の画像
ネット歴史塾
古代史ブログ講座
ネット歴史塾
ひねもす徒然なるままに
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
『検索』
GoogleWeb検索
Google画像検索
YahooWeb検索
Yahoo画像検索
翻訳と辞書
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状
2012年4月6日金曜日
魚と同じ名の姓
《魚と同じ名の姓》
「魚と同じ名の姓」
アサリ=浅利・麻里・浅井。
アジ=庵治・安司・阿遅。味~。
アメノウオ=天の魚(琵琶湖だけにいる)
アラ=荒。
アンコウ=安康天皇
イカ=伊賀・伊香。
イサザ=五十狭
イシモチ=石持・石毛智。
イナダ=稲田。
イルカ=入川・入鹿。
イワシ=岩下・鰯田・岩師・井橋。
チュウパ(イワシ)=中馬。
コパ(イワシ)=木場・木庭・木葉。
オオバ(イワシ)=大場・大庭。
イワナ=岩名・岩国。
ウグイ=大食→タジー→田尻。
ウナギ=海の貴・棟木・大凧
ウニ=宇根(沖縄発音ウニ)。
エイ=頴娃・永。
エソ=蝦夷。
エビ=恵美・蝦夷。
オイカワ=及川・老川。
オコゼ=大小瀬。
カイ=甲斐。
カジキ=梶木・加治木。
カツオ=加治木の魚→カチッオ→勝魚
カニ=可児。
カレイ=嘉例川。
ギギ=魏・ゲギュウ(外宮)
キス=岐須・仇首・木津
キハダ=木皮。
クジラ=百済。
クラゲ=倉下。
コイ=許斐・己斐・古井。
コノシロ=古野・河野
コチ=高知・徴叱許智。
ゴマメ=高麗女。
サバ=佐波・早波。
サメ=蚊島・醒井・鮫間。
サヨリ=佐用理=佐依=小夜=玉依姫に対するサヨ
サワラ=砂原・佐原・早良・草羅。
サンゴ=三吾・珊瑚。
シーラ=椎良・白・斯羅・新羅・志毘羅。
シジミ=志治味・洒水。
シビ=志斐連・阿部と中臣にある
シャチ=幸
スガイ=菅井・須貝。
スズキ=鈴木・寿鈴木。
スバシリ=砂走
スルメ=水流女
タイ=田井。
タコ=田子・多胡。
タナゴ=棚川・多奈川
タニシ=谷下・谷重
タラ=太良・太良・田羅・多羅。
トビウオ=鳥見・富尾。
ドジョウ=土酋
トミヨ=富尾・富代・十三代。
ナマズ=生津・鯰田
ニシン=西野
ニナ=蜷川。
ニベ=仁部
ハエ(ハヤ)=芳養・速・隼
ハゼ=枦・羽瀬・土師・長谷・泊瀬。
ハタ=波田・波多・羽田・秦・畑。
ハタハタ=秦
ハマチ=濱地、羽町。
ハモ=韓(ハン)
ヒガイ=比嘉
ヒラメ=比良女・新羅女
フカ=深尾・深田・深日。
フク=福
フナ=二名・鮒・船井・舟木・船田・船の史。
ブリ=武利・武衛・風流・佐分利。
ボラ=坊・洞
マス=増田・升・桝川・舛添・益城。
マベ=間部
マルタ=丸田・円田。
ムツ=陸奥・武津。
ヤマベ=山辺・山戸・屋麻戸。
ワカマツ=若松・新松。
ワニ(鮫)=和邇・王仁・和二・羽仁。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録9:3頁」他
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
『My ブログ』
古代メソポタミア
歴史徒然
ウワイト(倭人):大学講義録
ウワイト(倭人)大学院講義録
オリエント歴史回廊(遷都)
古代史つれづれ
古代史の画像
ネット歴史塾
古代史ブログ講座
ネット歴史塾
ひねもす徒然なるままに
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
『言語復原史学会:画像』
『検索』
GoogleWeb検索
Google画像検索
YahooWeb検索
Yahoo画像検索
翻訳と辞書
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状
登録:
投稿 (Atom)