2012年4月10日火曜日
神武天皇の日向は壱岐か
《神武天皇の日向は壱岐か》
「神武天皇の日向は壱岐か」
《神武天皇の日向は壱岐か
》
「神武天皇の日向は壱岐か
」
「神武東征」と『魏書倭人章』の記事と、
垂仁天皇の名乗りとを総合して重ね合わせてみよう。
神武は倭を攻撃して敗れる。
天皇は「日の神の子が日に向かって戦ったのが間違いだった」と
反省したと『記・紀』ともに書いている。
この戦いは従来、大阪と奈良の境にある生駒山で
「東に向かって戦った太陽がまぶしくて負けたのだ。」と考えられて来たが、
その想像は余りにも不合理である。
なぜなら弓戦は明るい昼間しか戦えない。
東に太陽があるのは朝だけで正午には東南に、そして頭上にくる。
今その古戦場とされて来た生駒の「クサカ」坂へ行ってみると
東に山があり樹木が繁っていて、
東に向いて日がまぶしいということは考えられない。
この「日に向つて」は方角をさしているのであって実際の先頭とは無関係である。
『記・紀』は、戦いに敗れた
神武が「今度は背に日を負って戦おう。」
と迂回して「南」の熊野に移ったと書いている。
この記事を見ても「背に日を負って」が南からの攻撃を意味し、
「日に向って」はその反対に北から攻めたのだということが直ぐ分る。
伊支馬は壱岐王という名乗りでもあった。
壱岐から九州本土はいうまでもなく南にある。
これが「日に向かって」であり、その日に向かった国すなわち壱岐が、
神武が遠征を開始した「日向」だとみると話がよく合う。
その日向が九州より北だとすると「イコマ」はどうなるか?。
<イコマ>と読める地名が今の生駒山だと思わせたのも無理はないが、
神武天皇の到着点が鹿児島県下であり、
伊支馬の名が壱岐を意味することを考えると、
その<イコマ>は「壱岐王=イキウー=伊久」を「イク」と読んで
「膽駒」と難しい字を当てたり、
また「イクパ=生葉=今の福岡県浮羽郡」を
「生馬」と書いたものであった可能性もあり、
付近には五馬山という地名もある。
九州北部でなかったとはいいきれない。
しかしそれでは迂回した南の「熊野」とはどこか?。
この方も一致する土地があるであろうか?。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・邪馬臺国の風雲:141頁」
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