2012年4月15日日曜日
千木のルーツ
《千木のルーツ》
「千木のルーツ」
ウィキペディア百科事典によれば
「千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)は、
今日では神社建築にのみ見られる、
建造物の屋根に設けられた部材である。」
と書かれている。
※出典:Wikipedia:千木・鰹木
伊勢神宮の建築様式のうちで特に印象的なのは
左右に長く突出した切妻屋根と、
それを支えるために屋外に独立して立てられた
「棟持柱(むねもちばしら)」であるが、
全く同じ構造の棟持柱をもった建築様式がインドネシア各地に見られる。
何故棟持柱が必要なのかがよく理解できる。
その屋根の張り出しは伊勢のそれよりも、
はるかに大きく日蔭を作っているからである。
また、その神殿には牛の頭の彫刻がつけられている。
これは他の様式の神社では棟の両端にあって、
丁度日本の千木にあたるものが、
牛の角を表現している。
これと全く同じものが、
家屋文鏡の中にもはっきりと写しとられている。
こうしたことは、古代の家屋文鏡の製作者と、
今セレべス島などに住んでいる人々との間に、
はっきりとつながりのあることを示している。
このことは名詞の面からも明らかになる。
私たちがこれまで<千木>を<チギ>とよんできたのは、
正しくは「チヌギ」(千之木)と助詞の「ヌ」を入れて、
読まねはならなかったのだ。
ということである。
なぜなら、
<チヌギ>とは沖縄弁で、ツ(チ)ノ(ヌ)ギ(角木)のことであり、
その原型たる<角木>はインドネシアに厳としで実在しており、
家屋文鏡もまた、古型が現在の千木よりも、
現在のインドネシアの<角型>に近かったことを証明しているからである。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・邪馬臺国の言葉:128頁」
わが国では仏教渡来以前の民族宗教は、
天神地祇を祭ることであった。
その祭り方にはいろいろな約束ごとがあり、
今なお伝統を承けついでいるが、
神社建築で目立つ特徴は棟先につけられた千木(ちぎ)である。
それは古く家屋文鏡の絵にも描かれているが、
実は千木はわが国の専売ではなく、
東南アジア各地に広く見られる、聖なるシンボルなのである。
それはインドネシアで牛頭をそのまま取りつけている。
本来、牛の頭を象ったものであるが、
日本の千木に最も近いものは、
タイ国山地民族グエバ・アカ族の酋長の家のもので、
天地神明造と同じく外(そと)削りになっている。
家屋の話しで忘れることのできないのは千木である。
日本人は永い間、千木は日本独特のものだと信じてきた。
しかし、東南アジアには広く千木が分布していたのである。
それらをすべて調べてみると、
最も原始的なものはインドネシアのもので、
牛の頭をそのまま棟の両端にとりつけている。
またスラウエシのラムパ村のものは、
コブ牛の長い角そっくりに削ったものを取りつけている。
そして同じスラウエシのトラジャ族のものは、
水牛の頭や角を、棟ではなく、軒下の柱に数多く取りつけている。
こうした事実から出る結論は、
日本の千木もまた、牛頭を象徴したものだということである。
その観点からみると全国の神社の千木のうち、
伊勢神宮の天地神明造りのものが、最もよく牛顔を写している。
●牛頭をかたどった千木:
角(千木・風穴)
上顎(障泥板)
鼻面(甍覆)
耳(鰹木・樋貫)
下顎(棟持柱)
歯(鞭懸)(破風板)
その外観が日本の千木に一番近いのは、
グエバ・アカ族の酋長宅のものであった。
もっともそれは角にあたる部分だけのもので、
日本の農村の小社に見られるようなものである。
このアカ族は同時に鳥居の一種とコケシに近い男女木偶を祭っている。
こうしたコケシ型の神像はインドシナ半島の各地で広く祭られていて、
日本のコケシが本来、何であったかを物語っている。
カンボジアではこの神像をドンターと呼ぶ。
新年の祭りはドンターの祭りで、
日本の御幣とよく似た形に切った紙を祭壇にぶらさげる。
福岡市の博多ドンタクは語源不明の祭りであったが、
それが本来、新年の祭りであったことと考え合わせると、
このドンターが語源として一番近い。
なお御幣形の切紙は東南アジア一帯に、
様々な形式で広く広がった信仰表現である。
有名な家屋文鏡(4世紀頃)に見る弥生期前後の建築物には
4つの建築図が見られるが、その4つとも棟端に千木をもっている。
またその建築様式が後述のものと多くの共通点をもっているのである。
これでわかるのは、
言語と文明だけがセットになってはいって来るという事実と、
人間自身が言語と文明を携えてやってくることがある、
という事実の、
二通りがあるということである。
その差は何であろうか。
それは、文明を伝達する手段としての言語を、
人間自身が運ぶ必要があった時代と、
文字や電波または録音や映画という媒体のある時代との相違だ、
ということである。
インドネシアのスラウェシ中央部ワッタウ近郊のラムパ村の神殿である。
千木の位置に見事に作られた木彫りの角が取りつけられている。
同様のものはスラウェシ各地で見られるが、様式は多様化分化している。
また、この屋根の形は
大和の高塀造りや
飛騨の合掌造りなどに多くの共通点をもっている。
伊勢の神宮建築をさらに深く観察してみると、
<千木>が<角>を意味することが、
誤りでないことを証明するものが幾らでも見つかる。
それは<牛の頭部>を表現する数々の努力の跡を止どめているのである。
まさか<神宮>と<牛の頭>とお思いになる方も多いと思うが、
天照大神の弟であるスサノオの命は間違いなく「牛頭天王」とされているし、
邪馬臺国の官名にもそれが見られる。
その証拠に<『記・紀』の世界>と<倭人章世界>を結ぷ重要なシムボルが、
<牛>であるという事実を、これから御覧に入れることにしょう。
漢字音が時代によって大きく変化したことはもうすでにお話ししたが、
カールグレン氏によってそれが
<上古音>、<中古音>、<近世音>に三大別された。
邪馬臺国四つの官名のうち<奴佳鞮>は、この研究結果に従がうと、
中古音で「ヌォガィディェイ」と発音せねばならぬことになるが、
これはどうみても日本語や朝鮮語ではない。
どこの言葉に一番似ているかというとマレー語なのである。
例をあげると、マレーの<州>は<ヌグリ>とよばれる。
また少し発音が変わるが<N>が語頭に来る
<Nガ>(<ン>と<ガ>を別々に発音してはいけない。
一種の鼻音で、
しいていえば<ヌァ>に近い音にきこえる)云々という語が、かなりある。
<ンガリル>は「流れる」という意味をもっているから
<ヌガリル>の方が<ナガレル>に
近いことはすぐおわかりになると思う。
<ンギアウ>は<ネコの啼き声>だから、
<ニヤウ>であって<ン何々>でないこともおわかりと思う。
では<ヌォガィディェイ>に一番近い言葉は何かというと、
<ヌガンディ>という名詞である。
またインドでは<牛>が神聖視されている。
これは牡牛が<シバ>神の顕現であると信じられてきたためで、
牛や角が聖なるものの象徴とされるのである。
このことが理解できないとインドからマレー語圏、
さらに我が津々浦々に祭られる神社から
伊勢神宮に至るまでの「千木」の神聖さが
不明になるのである。
その<ヌガンディ>の名をもつ<牛の像>は
実は我が国にも古くから祭られていた。
それは現在でもなお各地で見られる。
ほかでもない<天神様の牛>である。
世俗には菅原道実が太宰府へ流された際、
彼を運んだ牛車の牛であるとされている。
しかしこれは余りにも不合理な説明である。
供をしたのは牛だけではないし、
流人が船でなく牛車に乗って福岡まで行ったというのもおかしい。
よく考えてみると、
天神様の牛には全く必然性が無いことがわかるのである。
これは理由ははっきりしている。
天神様というのは菅公よりはるかに前から祭られていた神で、
当時すでに祭神の不明になっていた社に、
道実を合祀しただけのことなのである。
もうおわかりのように
天(チヌ)神とは角(ツノ)神であり、<牛>が本体あったのである。
そして同じ京都の大氏神(うじがみ)は
葵(アオイ)祭で名高い賀茂社であるが、
その祭神中の氏の祖は、<加茂建角身命>であり、
その孫神は<賀茂別雷命>である。
<角>と<雷>がセットになっていて、
天神様の先祖を証明しているのである。
※出典:加治木義博「日本人のルーツ・保育社・カラーブックス:23・108頁」
「言語復原史学会・邪馬臺国の言葉:50~53頁」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
『言語復原史学会:画像』
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《参考》
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