2012年4月8日日曜日
拡大発展した日向倭国の残した巨大仏教遺跡
《拡大発展した日向倭国の残した巨大仏教遺跡》
「拡大発展した日向倭国の残した巨大仏教遺跡」
《拡大発展した日向倭国の残した巨大仏教遺跡
》
「拡大発展した日向倭国の残した巨大仏教遺跡
」
これでやっと、その日向に、
西都(サイト)の原(パル)という
巨大古墳群地帯が残ることの理由が、
鮮明に理解できるようになった。
そこには邪馬壹国の肇国者・垂仁天皇が身をもって
体験した肉親相剋(そうこく)の大悲劇の、
位宮と戦って死んだ主人公たちを葬った
「男狭穂(おさほ)塚・女狭穂(めさほ)塚」まで、セットになって存在する。
「サイト」というのは、文字通りの「西の都」という意味だけでなく、
「済度する=救う・よい結末をつける・極楽へ送る」という意味の仏教用語てもある。
そこは間違いなく死者を極楽へ送る衆生済度(しゅじょうさいと)の場所で、
サイトという地名の本来の意味は、
こちらの仏教用語のほうだったことが、誰にでもわかると思う。
これまで誰も真相を知らなかった巨大な謎。
西都原古墳群は、旧卑弥呼政権のその後を見事に展示して、
倭国政権が生き残ったことと、さらなる発展と、東方へ拡大したこととを、
幾重にも記録して見せている、壮大な日本有数の国家的文化財だったのである。
卑弥呼の死後、
倭国は近畿地方などへ直行する「東征や東遷」なんかしていない?
それは確かに行なわれたが、
倭王・武がいう通り、鎧を脱ぐ暇もないほどの戦いに明け暮れながら、
少しずつ領土を拡大し続ける、
永い年月を必要とした。
南九州からいきなり奈良に遷都したというような空想は、
幼児的頭脳が描く子供騙しにすぎない.
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録17:17頁」のである。
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