2012年4月1日日曜日

ヤオ・揺人



 《ヤオ・揺人
 「ヤオ・揺人

 ヤオ人が古代近畿圏にいたことは、

 大阪府の生駒山の西麓に八尾(やお)市という大きな地域があることや

 ヤオ姓の存在で理解できる。

 また弥生時代の弥生も、

 土器の出土地名から[弥生はヤオ]への当て字であった。
 
 今、中国とその周辺のヤオ人は山地民だから、

 古代八尾人は生駒山から東の山地・奈良に住んだ集団本体の一部で、

 漁業と野菜供給を分担した部族「ヤオヤ=八百屋」だったはずである。

 現代でも市域を形成するほどの地名を残したのは、

 彼らの勢力が強かったことを示している。

 銅鐸をもった弥生人が住んでいたから、

 近畿圏に今、八尾市という都市が現存しているのである。

 銅鐸人とはどんな人々だったのか?…。

 大坂府の東端にある「八尾市」の地名が証明する「ヤオ人」である。

 今、中国から東南アジアに分布する彼等は、銅鼓を儀式に使う人たちであり、

 八尾は打楽器の伴奏で賑かに祭りを歌い上げる「河内音頭」の発祥の地である。

 銅鼓と銅鐸は同じ時代の製銅と銅器製作技術の産物で、

 その形態は周の時代に始まった礼楽用楽器「扁鐘」の発展したものである。

 技術が集団の秘伝文明だった当時の時代を考えると、

 中国のヤオ人と八尾人とは同じ文化集団だつた。

 銅鐸をもった八尾人は[道教徒]のヤオ人である。

 銅鐸を代表的文化遺産として残したのは

 中国からの移住者・銅鐸と河内音頭を残した

 歌のうまい人々ヤオ(謡・揺=八尾)人である。

 [銅鐸人]の弥生人は、

 紀元前のベトナム・ドンソン遺跡から立派な銅鼓が出ているので、

 そのあたりからの移住者だった。

 中国には今も銅鼓を太鼓のように使っている

 ヤオ(揺)人と呼ばれる少数住民がいますが、

 日本でも銅鐸の出土する地域には

 八尾、八百井、矢追、八百板などという地名や姓が残っています。

 これから考えると弥生時代の名の起こりになった

 東京都の「弥生」町の名も、

 古代にはヤオ人が住む「弥=ヤ・生=オ」と呼ばれた土地だったものが、

 時が経つにつれて文字のせいでヤオイと読まれ、ヤヨイと訛ったものだ。

 ※出典:加治木義博「JINMU・KKロングセラーズ:45頁」
          「言語復原史学会・大学講義録6:24頁」
          「日本国誕生の秘密・徳間書店:54頁」


 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 

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 《参考》
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