2012年4月20日金曜日
稲作文化:日本語の「ホトケ」
《日本語の「ホトケ」》
「日本語の「ホトケ」」
『魏書倭人章』を読めば対馬・一大の人々は南北へ
「市糴(してき)=米を買いに」行くとはっきり書いてある。
国境などなく、
稲作に必要な石器などもどんどん物々交換されていた時代なのである。
それは便利に使えさえすればいいのであって、
幾らでも誰の手にもはいる。
そんな大陸系石器をもっているから持ち主は中国人だと決めつける、
時代遅れの発掘考音学者が、
真実を求める日本国民と世界の史学の敵であり、
日本人の恥であることはいうまでもない。
熱帯ヤボニカ水稲が、絶対に北から南に入ることがないのは、
稲の品種改良が進んだ現代でもなお北鮮が、
慢性的な飢饉に悩み続けている事実で、簡単に理解できることである。
弥生稲が中国から来たか、その逆かには動かぬ証拠がある。
古代稲作遺跡のない中国南部でただ一か所、
広東にある遺跡の「仏山」がそれで、その名が仏教遺跡だと裏書している。
南中国は水稲の適地だから、もっと多くの遺跡があるはずなのにそれがない。
しかも古代稲作遺跡が大量にある中部から、
はるかに飛んで南海に面しているので、
対岸の沖縄から海を越えてやって来た仏教徒が作った遺跡だとすぐわかる。
時代は弥生後期、
ちょうど卑弥呼の観音信仰が中国南岸に普陀落迦山(フダラッカサン)を作って
観世音(カシイ)の名を伝えたころである。
中国で仏を指す「浮屠(フォト)・沸(フォツ)」は
パーリ語の Buddba(ブッダ) ではなく、
日本語の「ホトケ」への当で字だったのだ。
※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録21:32頁」
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