2012年4月26日木曜日

陸奥・道後



 《陸奥・道後
 「陸奥・道後

 ウィキペディア百科事典によれば

 「陸奥国(むつのくに)は、明治以前の日本の地方区分である国の一つである。

  範囲は本州の北東端にあたる

  今日の福島県、宮城県、岩手県、青森県と、秋田県北東の鹿角市と小坂町にあたるが、

  明治時代初期に行われた分割によって青森県と岩手県二戸郡にかけての地域に縮小された。

  奥州(おうしゅう)とも呼ばれた。延喜式での格は大国、遠国。」

 と書かれている。

 ※出典:Wikipedia:陸奥国
     
 「陸奥」

 「むつ」「みちのく」「みちのしり」と読むことは知られているが、

 どれもがその漢字とは馴染まない読み方である。

 だからこれもヤマト政権がむりやり変えた発音である。

 なぜ、変える必要があったのか?

 この謎を追ってみよう。

 奥州というのがその略称だが、これは「オウシユウ」と読む。

 だから陸奥は「リクオウ」である。

 この「リク」は鹿児島語なら「琉球」のことだから「琉球王」になる。

 また沖縄語なら「オウ」は「ウ」だから「リクウ=琉球」なのだ。

 こう説明すると「コジつけだ」と思うかたもありそうだが、

 この「リク」という発音が正しいという証拠が残っている。

 それは陸奥を、文字とは無関係に「ムツ」と発音していることである。

 <ムツ>とは一体なんのことか。

 それは数字の「六」のことである。

 その六の古代発音は<ロク>ではなくて「リク」だった。

 だが<リク>では琉球だとすぐわかるから「ムツ」と読ませるように強制したのである。

 また<リクアウ>と書けば「六合」とも一致する。

 では「ミチノシリ」のほうはどうなるか。

 これは漢字を当て字すると「道後」になる。

 愛媛県松山市にある温泉で有名な町の名と同じになる。

 そこは倭国が長く栄えた倭国の中心部だった。

 琉球から出た倭国だから、そこに当然、

 「リク=琉球」という地名の町があったことは容易に推察がつく。

 ヤマト政権が、

 四国にそんなものを残しておきたくないのは、

 東北のはずれの段ではない。

 だからリクをムツと変えたぐらいでは気がすまない。

 そこで陸奥を、

 さらに読み変えた道後(みちのしり)と当て字して、

 琉球の片鱗も残らないようにしてしまったのである。

 ※出典:加治木義博「YAMATO・KKロングセラーズ:166~167頁」

 『参考』
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2012年4月25日水曜日

六合「くに」



 《六合「くに」
 「六合「くに」

 天照大神の誕生の記事によれば、

 卑弥呼は沖縄の伊是名(いぜな)島で生まれましたが、

 彼女は

 「光華(こうか)明彩で六合の内に照り徹(とお)っていた」

 と書いてあります。

 そのため両親である

 伊是名王(イザナキ)、

 伊是名女(イザナミ)の神が、

 こういったと書いてあります。

 「わが子はたくさんいるが、

  こんなに霊異な児ははじめてだ!……ここに永く置いてはいけない。

  早く天に送って天上の仕事をさせよう!……」

 これが「大日霎貴(オオヒルメノムチ)」で、

 一書には「天照大神」と書いてある、

 という書き加えもありますから、

 のちに天照大神になった卑弥呼に一致するのです。

 この[六合(りくごう)]とは

 中国では本来、四方、八方といった方角を示す言葉なのですが、

 日本では『記・紀』以後[国・天下]の意味で使われているとみると理解できます。

 [神武紀]にも「六合の中心か」という言葉が、

 やはり[国]の意味で出てきますし、

 太安万侶(おおのやすまろ)が書いた

 『古事記』[序文]にも、

 「乾符(けんぷと)を握(と)って六合を總(す)べ」という文章がありますが、

 これも日本の国のことです。

 古代日本人は国のことを[六合]と呼ぶ習慣をもち、

 それを不思議とも思わずに、

 ふつうの言葉として常用していた。

 一体なぜ[六合]を「くに」の意味に使ったのでしょう?。

 卑弥呼当時の呉には[六合県]という県がありました。

 それは沖縄から東シナ海を隔(へだ)てた「向い側」です。

 日本語の[コチラ]は[高津国]を沖縄から大隅の訛(なま)りで

 「コチラ」と読んだものに一致することがわかっています。

 この[コチラ]と相対的な言葉[ムコウ]も、

 同じ沖縄で生まれているはずですから、

 そこから海をへだてた向い側に=六合県]があるとしたら、

 [六=ム][合=コウ]で、ぴったり[向こう]と同じ発音になります。

 そして事実、

 その六合県は沖縄からみて完全に「向こう」といえる位置にあるのです。

 この二つの日本語は、

 間違いなく沖縄生まれであり、

 その人々は[六合県]の存在をよく知っていたということになります。

 そしてそれは単に知っていたというだけではなく、

 もっと強く親しみのある知り方です。
 
 日本語で[クニ]といえば、

 「クニのおっ母(か)さん]

 [クニヘ帰る]の

 クニは[故郷=出身地]のことです。

 [六合]は[国家]の意味ではなく、

 [故郷]のことで、

 その言葉を使った人々は[六合県出身者]だったということがわかります。

 ※出典:加治木義博「日本国誕生の秘密徳間書店:163・164頁」

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麒麟



 《麒麟
 「麒麟

 ウィキペディア百科事典によれば

 「麒麟(きりん)とは中国の伝説上の動物。

  鳥類の長である鳳凰と並んで、獣類の長とされる。」と書かれている。

 ※出典:Wikipedia:麒麟
     
 麒麟は牡が麒で、

 牝が麟だとされているが、

 黄と麒はどちらも「キ」という発音をもっている。

 ただし黄を<キ>と発音するのは日本語だけ、

 これも、

 この五彩圏鏡は我が国の『五彩圏』文化が中国に入った後の作品だという証拠で、

 隋唐はギリシャ系大隅人が支配した国だったという強力な証(あか)しなのである。

 麒麟は腹が黄色、

 それが背の方へ次第に光沢を増して玉鱗になるとしている。

 その姿は、

 ビールの商標になっているお陰で、

 我が国では誰でもよく知っているが、

 その足は鹿や馬と同じ偶蹄(ぐうてい)類のもので首が長い。

 そこで始めてアフリカ産の獣・ジラフを見た日本人が、

 それにキリンという和名をつけた。

 ところが今それをみると、

 ジラフは黄土色、

 すなわち黄色の毛をもった唯一の偶蹄類なのである。

 この命名は偶然とは思えないほどで再考の余地がある。

 もっとも我が国の動物園で普通に見られるのはアミメキリンで、

 褐色の四角い斑点が大きくて、

 肝心の地色の黄は細い網状になり、

 褐色の方が地色のように見えるが、

 ケニアにいるマサイキリンは斑紋が不規則で網目になっていないから、

 肌色は黄色だとよくわかる。
 
 麒麟は、

 あくまで中心がギリシャであることを表現するための、

 ギリシャ系大隅人たちの着想だった。

 では、それにアフリカのジラフは、関係しているのだろうか?。

 もちろん日本列島の原日本人も、

 古代中国人もアフリカ産のそんな獣は知らない。

 中国製の麒麟像がジラフと懸(か)け離れているのは当然だともいえる。

 しかしエジプトの首都をアレクサンドリヤにもつギリシャ人は、

 ジラフについても幾らか聞いていて、

 黄色くて首の長い偶蹄類だという程度の知識はもっていたから、

 それに想像を交えて異様な麒麟に仕立てることもできる。

 異様ではあるものの多くの点でジラフとの共通点が多い麒麟像は、

 ギリシャ人の発想で完成したと見るしかない。

 そうすると日本を起源とする

 『四神』と『五彩圏』が、

 後世の隋代に造られた銅鏡に明瞭に存在する理由が、より明確に納得できる。

 またそれが架空のものでも、知識があったことは間違いない。

 ※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学院講義録19:20~22頁」


 『参考』
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2012年4月23日月曜日

日光二荒山神社



 《日光二荒山神社
 「日光二荒山神社

 ウィキペディア百科事典によれば

 「日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)は栃木県日光市にある神社。

  正式名称は二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)であるが、

  宇都宮市の二荒山神社との区別のために鎮座地を冠して日光二荒山神社と呼ばれる。」

 と書かれている。

 ※出典:Wikipedia:日光二荒山神社

 「百済津(フダラッ)カ山」はどこにあったか?。

  倭迹迹日百襲姫の朝廷記録「崇神天皇紀」をみると、

 3年 磯城(シキ)の瑞籬(ミズカキ)の宮に遷都する。

    敷根(鹿児島県姶良郡国分市の南部、港と川がある)

 5年 民の死亡が国民の半ばを過ぎようとする。(『魂書倭人章』大乱起こる)

 6年 国民流離、背叛。天照大神の怒りが強く、

    困った崇神天皇が倭の笠縫邑(カサヌヒムラ)に移す。

    (『魂書倭人章』男王立つも国中不服、更に相誅殺、当時、数千余人を殺す)

    この笠縫は首都の敷根付近のはずだ。

    大隅にはこれに一致する地名がある。

     鹿屋(かのや)市の笠野原と肝属郡の高山(コウヤマ)町である。 

     香山(カサン)→香山(コウヤマ)→コウヤマ→高山と変化した地名だ。

  笠縫 笠野原 重日 (これは女帝、皇極・斉明天皇の名乗り)

 (カサヌヒ) (カサンハイ) (カサヌヒ)

       香山  百済ッ香山 =普陀落迦山

  (カサン) (クダラ)(カサン) (フダラクカサン)

       高山     (肝属郡 高山(コウヤマ)町)

  (コウヤマ)

 この香山はカグヤマとも読まれるから、奈良の香具山・香久山は、その子孫である。

 この高山町には富山(トミヤマ)という地名もあるから、これが鳥見山に、

 また官名の弥弥那利から耳成山・耳梨山が生まれたことも想像に難くないが、

 畝傍(うねび)山は采女(うねべ)制度ができた後世の名でしかない。

 ところが神武天皇は「畝傍橿原宮」で即位し皇居にした。

 後世の人とするほかない。

 フダラッカ山の子孫が、「フタラ」の名を残しているというのは、

 日光の二荒山(フタラサン)である。

 このフタラが百済の語源だということを知る人はまだ少ない。

 だから日光に「ニコウ=二荒」を当て字したものだと

 正反対に思い込んでいる人がいる。

 しかし、もう説明の必要はないと思うが、

 それは7世紀の大化大戦による敗戦で東国へ大移動した

 百済倭国(フジワラ)勢力の遺跡であり、

 百済=フタラ=二荒=ニコウ=日光と変化したのであって、

 その名は富士山=百済山や、甲斐=蝦夷などの地名と同系のものである。

 日光は大化改新によって倭国が東遷した後の、
 
 観音の聖地=普陀落迦山=フタラ カ 山 だったのである。
 
 そこには輪王寺があるが、

 その正しい発音は「インノウジ」であって、

 韓国で李を「イイ」と発音するように、

 「リをイ」と発音する大隅語~韓国語系の発音をとどめている。

 そして徳川家譜代の大名である井伊家のイイも、

 同じく倭国東遷の貴重な文化財なのである。

 卑弥呼当時は鹿児島の百済津香山。

 次いで中国淅江省の普陀落伽山。

 1次東遷後の奈良の百済香山。

 2次東遷で二荒ケ山と変遷が読み取れ、発音の風化が時代経過を記録している。

 仮にどれかのフダラッカ山が偶然だとしても、

 これだけのフダラッカ山が実在する。

 どれをとっても古い日本列島に、
 
 観音の故郷ボダラッカ山の子孫が実在したことは間違いない。

 ※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録30・31頁」

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2012年4月22日日曜日

倭の語源=稲と米の歴史



 《倭の語源=稲と米の歴史
 「倭の語源=稲と米の歴史

 ウィキペディア百科事典によれば

 「日本列島に住む人々が倭・倭人と呼称されるに至った由来にはいくつかの説がある。

  倭は遙か遠いところを表すとする説、倭は柔順な性格という語義もあり、

  当時の倭人が中国人から見て柔順に見えたのだとする説、

  小柄な人びと(矮人)だから倭となったとする説、

  中国に到着した倭人が自分を指して「わ」(われ=自分のこと)と称したことから

  倭となったとする説、倭は『わ(やまと)』の音訳とする説などがある。

  また、中国の古書である『詩経』、『小雅』、『四牡』などの書物における

 「倭」の用字から見て、

 「倭」は必ずしも侮蔑の意味を含んではいないとする解釈もある。」

 と書かれている。

 ※出典:Wikipedia:
     

 発音が教えてくれる。

 特産物や代表的製品を、その供給者の名、

 またはその所属する国名や部族名で呼ぶ古代人の原則を考えると、

 『禾』の「カ」という発音は「カ人の植物」という意味をもっている。

 すると殷人が当時「カ人」と呼んだのは、

 それ以前にあった最古の王朝「夏」以外にはなく、

 『禾』を「カ」と発音するのは、

 その夏という国が穀物栽培を国の基本にしていた農業国だったから、

 穀物植物を意味する象形文字の『禾』を、

 「夏のカ」という発音で呼んだという以外に、

 まぎらわしくて不便な同音の名を、

 わざわざつけた理由は考えられない。

 同じように『稲』も、日本で「イネ」と発音するのは

 「イン=殷の産物」を意味している。

 稲は雑多な禾本科植物の中から、

 殷商時代に主要作物として選ばれ作出されたその国を象徴する品物という意味である。

 しかし殷の稲は発掘資料によれば「陸稲」ばかりで水稲はない。

 水稲は日本では「コメ」。

 その移動経路を考えると初期の発音は沖縄語の「クミ」で、 

 これは久米島の「クメ」と同じだから、

 沖縄語がマレー語と大きな共通点をもっていることから類推すると、

 『米=コメ=クメ=クメール』からきた作物と言うことになる。

 ※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録7:17頁」

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2012年4月21日土曜日

『倭』の漢字は何を意味するか



 《『倭』の漢字は何を意味するか
 「『倭』の漢字は何を意味するか

ウィキペディア百科事典によれば「倭(わ、やまと)は、紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称である。倭の住人を倭人と呼ぶこともあった。紀元前後頃から7世紀末頃にかけて、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国と自称した。」と書かれている。

 ※出典:Wikipedia:
     
 『倭』の字は本来は人種名ではない。

 中国周代の詩を集めた『詩経』に

 「周道倭遅=周の道は、まわりくどくて、遅れ過ぎる」と書いてあるから、

 倭は「迂遠な」という意味に今も使われる。

 また辞書の『字彙』には「慎み深い・素直な」という意味だと書いてある。

 文字の構造は、殷代に始まった象形文字で、

 『委』の字の上部の『禾』は禾本科植物=稲など穀物のこと。

 下に『女』がついているから「農業をする女性」。

 この「農業を女性にまかせる」という行為から、

 この字を「まかせる=委任する」という意味に使うようになった。

 「まかせる」という日本語もこれとは無関係ではなくて、

 種を自分で蒔かずに他の者に「蒔かせる」という言葉から、

 発音が転用されたものなのである。

 「農業をする女性」に「イ=にんべん」をつけた『倭』を、

 「女性に農業をまかせる人種」の意味だとすると、鹿児島県から南の人たちは、

 まさにその通りの習俗を今に伝えてきている。

 「まわりくどくて遅い」という意味も、

 非力な女性農業が非能率的だったことからきている。

 では当時の男は何をしていたか…。

 農業と対象的な仕事は狩猟・畜産・漁業で、これらは全て動物を殺す仕事だ。

 だからこのことから紀元前後には、

 『倭』とは「殺生をしない菜食の女性=女性仏教徒」を指す

 「ウワイ」という発音で読まれることになった。

 ※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録7:16頁」

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2012年4月20日金曜日

稲作文化:日本語の「ホトケ」



 《日本語の「ホトケ」
 「日本語の「ホトケ」

 『魏書倭人章』を読めば対馬・一大の人々は南北へ

 「市糴(してき)=米を買いに」行くとはっきり書いてある。

 国境などなく、

 稲作に必要な石器などもどんどん物々交換されていた時代なのである。

 それは便利に使えさえすればいいのであって、

 幾らでも誰の手にもはいる。

 そんな大陸系石器をもっているから持ち主は中国人だと決めつける、

 時代遅れの発掘考音学者が、

 真実を求める日本国民と世界の史学の敵であり、

 日本人の恥であることはいうまでもない。

 熱帯ヤボニカ水稲が、絶対に北から南に入ることがないのは、

 稲の品種改良が進んだ現代でもなお北鮮が、

 慢性的な飢饉に悩み続けている事実で、簡単に理解できることである。

 弥生稲が中国から来たか、その逆かには動かぬ証拠がある。

 古代稲作遺跡のない中国南部でただ一か所、

 広東にある遺跡の「仏山」がそれで、その名が仏教遺跡だと裏書している。

 南中国は水稲の適地だから、もっと多くの遺跡があるはずなのにそれがない。

 しかも古代稲作遺跡が大量にある中部から、

 はるかに飛んで南海に面しているので、

 対岸の沖縄から海を越えてやって来た仏教徒が作った遺跡だとすぐわかる。

 時代は弥生後期、

 ちょうど卑弥呼の観音信仰が中国南岸に普陀落迦山(フダラッカサン)を作って

 観世音(カシイ)の名を伝えたころである。

 中国で仏を指す「浮屠(フォト)・沸(フォツ)」は

 パーリ語の Buddba(ブッダ) ではなく、

 日本語の「ホトケ」への当で字だったのだ。

 ※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録21:32頁」

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2012年4月19日木曜日

稲作文化:「大・小=フトカ・コメ」



 《「大・小=フトカ・コメ」
 「「大・小=フトカ・コメ」

 これで弥生前期に弘前まで誰が水稲稲作を広めたか、充分よくわかったが、

 今度は、熱帯水稲はインドからだけ入ったのではないことと、

 その稲の種類については、

 私たち本土人は食べる部分の稲の種子=「米」をコメと発音するが、

 沖縄の人は「クミ」と発音する。

 そして沖縄にある久米島も「クミ」島と呼ぶ。

 その久米を本土人は「クメ」と読むが、

 東南アジアにはクメールという人々が、

 古来強力な種族を形成していて、もちろん稲作人種である。

 言語の共通性も久米の名も、米をわざわざ「クミ」と呼ぶことも、

 全てが沖縄への稲作の運び手の中に、クメール人がいたことを物語っている。

 だがここではどこから来たかが問題ではない。

 南九州語では「コメ」というのは「小さい」という意味である。

 これの対象語「大きい」は「フトカ」という。

 だから「コメ」はクメールから来た稲で小粒であり、

 そのほかに「大粒の米」があったことになる。

 その米は誰がもって来たのか?。

 答はその名にある。

 「フトカ」は漢字で書くと

 「浮屠家」で仏教人をいい、ホトケの語源でもある。

 南九州語の「大・小=フトカ・コメ」は、

 古代からあった形容詞ではなくて、

 稲作が各地から入って来て、

 その米粒の大小から新たに生まれた日本語だったのである。

 これもまた仏教徒が稲作をもって来た動かない証拠であり文化財なのだ。

 ※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録21:30頁」

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2012年4月18日水曜日

稲作文化:焼酎文化史(早苗饗)



 《焼酎文化史(早苗饗)
 「焼酎文化史(早苗饗)

 焼酎が稲作と共に日本に渡来したことを証明するものは、

 日本における焼酎原産地である鹿児島地方での言語である。

 この地方では焼酎を飲もうと人を誘うのに

 「祭(まつ)んそや(お祭りをしましょうよ)」という。

 この祭りの真意は、収穫した米を神々に供えたあと、その米で焼酎を造り、

 それをまた神に供えてから、晴れてみんなでいただく祭り、

 すなわち冬の間に造りはじめてから次の田植えに間にあった焼酎によって、

 今年の豊作を祈る「早苗饗(さなえあえ)」祭りをさしているのである。

 この地方ではそれを「サナブイ」という。

 これを正確に分析してみると、

 それは「サナエウエ」(早苗植え)であって、

 「サナエアエ」(早苗饗え)ではなかったことがはっきりわかる。

 サナエアエなら、この地方では「サネエ」と発音する。

 どこの方言にも一定した原則があって、

 それから、はずれては言語として役に立たないのである。

 鹿児島方言の古音は、ウはヴ(V)音のものが多い。

 しかし、アがヴに変ることはない。

 だから「ウエ」は「ブイ」と聞こえるのである。

 これを「サノポイ」と発音して「サノポリ」が

 語源だと思いこんでいる者もあるが、

 これは「ナ」は「ノ」の訛りだと早がてんしたために、

 「ノブイ」となり、意味をつけようとして「プ」も「ボ」に改めて、

 「昇り」(ノポリ)にコジつけた結果、生れた奇妙な人工語である。

 方言に対する劣等視が、

 無知と複合して生み出したもので、似た例は全国的にみられる。

 この早苗植えの語は孤立しているのではなくて、

 『南島雑話』には奄美大島では「さうり遊び」というと記録している。

 「さうり」が何を意味するかについては、

 『琉球国由来記』に「さうり、とは、苗植え始め申す事」とあるから、

 「サナエウエ」が「サウリ」と短縮したものとわかる。

 また正確にいうと、

 鹿児島から沖縄にかけての南九州方言には、「リ」のような「ラ行音」はなかった。

 これも記録者が「サウイ」を「さうり」と誤訳して書いたものである。

 この地方ではエはイに、オはウに変る。

 「植え」は「ウイ」と変る。

 ところが、

 この誤訳の「さうり」が、

 はるかに飛んで遠州(静岡県)に分布していたことが

 『俚言集覧』に出ている。

 この理由を考えてみると、

 この地方は登呂遺跡が証明するように弥生稲作地帯であり、

 この語の分布はこの地域の弥生人たちが、

 沖縄、奄美地方からの移住者であったと考える以外にない。

 同じ『俚言集覧』はさらに上総(千葉県)では

 「五月初めて苗を植るをサオリという」と書いている。

 「ウ」が「オ」に変って、一層、東国方言化してはいるが、

 それが沖縄からの一連の言語であることはいうまでもない。

 五月を「サツキ」というが、

 五月が水稲の苗を植える月であることを考えると、

 サツキのサは、このサウイ、サウリ、サオリの

 サであったことも疑いの余地がないであろう。

 またこのことはサとは決して早いことではなく、

 水稲そのものであることも教えている。

 サナエとは早い苗ではなく、水稲の苗であったから、

 「水稲(サ)植え(ウイ)」だったのである。

 決して「早植え」ではない。

 このサは、

 マレー語で田のことを「サワ」ということと同じ語源をもっているのである。

 このことを拡大して考えてみると

 「サツマ」は「サ(水稲)ツ(津=古語の助詞の之(の))マ(古語で国のこと)」

 すなわち「水稲之国」になる。

 そこが焼酎原産地だということは決して偶然ではない。

 しかもさらに焼酎工場の本州分布をみると

 出雲、信濃、伊勢といった神話圏と、

 前記の静岡、千葉、茨城、福島といった

 日本武尊(やまとたけるのみこと)伝承の分布地に

 かたよって一致することがはっきりする。

 これは途中の伝承が断絶してはいても、

 焼酎そのものが、

 前にあげた数々の証拠と共に弥生時代に分布したとしか、

 考えるほかない形を示している。

 焼酎もまた謎の古代史を解明する重要な文化財であるという考えは無理であろうか……。

 ※出典:加治木義博「焼酎入門・保育社・カラーブックス:134~136頁」

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
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2012年4月17日火曜日

稲作文化:ウッタラと銅鐸



 《ウッタラと銅鐸
 「ウッタラと銅鐸

 ウィキペディア百科事典によれば

 「銅鐸(どうたく)とは、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器のこと。

  主に近畿地方の遺跡から出土している。

  大きさについては12センチから1メートルを越すものまである。

  当時の家屋など弥生時代の習俗の様子を描いた

  原始的な絵画が鋳出されているものもある。」

 と書かれている。

 ※出典:Wikipedia:銅鐸
     
 「銅鐸」というのは現代の考古学が仮につけた学名だから、

 古代からあった名前ではない。

 古代には何と呼ばれていたか。

 ウッタラが使った言葉はパーリ語だから、

 金属製で宗教用の打楽器には銅鑼(どら)、鐃鈸(ねうはち)、鼓(つつみ)などを意味する

 alamba アーラムバ、alambara アーラムバラ=太鼓などがある。

 ところがalambati アーラムバチと変化すると、

 「ぶら下がる・懸(か)ける」という意味になる。

 銅鐸はその上部の形からみて、

 間違いなく「ぶら下げる」構造になっており、

 下に置いたのでは鳴らないのは明白である。

 そしてアーラムバチの「バチ」は、

 打楽器を打つ「ばち」と同じで、

 鐃鈸(ねうはち)の「ばち」でもある。

 また昔の僧侶などが、

 門(かど)づけをする際には鐘を叩いて鳴らしたが、 

 それを鐘叩きとはいわずに「鉢(はち)叩き」といった。

 このハチもまたウッタラ時代のアーラムバチの遺物だとみられる。

 こうみてくると植木鉢は銅鐸を逆さにした形と共通牲が多く、

 鉢というのは底のある食器だけとは限らないことに気付く。

 そして打楽器というものは
 
 「打ったら鳴るが、打たねば鳴らない」その「打ったら鳴る」

 銅鐸がウッタラの持ってきた聖器だったのだから、

 「打ったら」という日本語の語源がこの「ウッタラ」に結びつく。

 銅鐸以前には打楽器は見られないから、

 これらの複数の日本語は、ウッタラと銅鐸が残した言語遺物。

 ウッタラに関連する話は関東以北に多く残る

 「ダイタラポッチ」の伝説である。

 彼は肉体の大きな巨人とされるが、必要なのはその名である。

 この名は地域で多少変わるが、

 「大太良坊」や「大太法師」と書かれるのをみると、

 「ボッチ」は「法師」または「坊主」であって仏教に関係のある存在である。

 ソナカとともに東方へ派遺された宣布団の、

 もう一人の指揮者「ウッタラ」の名が浮かんでくる。

 南九州では「大」は「ウ」と発音する。

 「大太良」はぴったり「ウッタラ」に一致する。

 この奇妙な巨人の名は、

 ウッタラも日本列島へ来ていたことを、

 あらゆる点で教えるが、時代が早く、

 地域が記録に残りにくい東国だったために、

 僅かに童話的な伝説しか残らなかった。

 彼はあらかじめ協議の上、

 寒地を担当するために寒地向きの稲を準備していたと考えると、

 熱帯アジアを次第に東遷したソナカらより、

 早期に日本列島まで到達して布教していた。

 それが卑弥呼より前の弥生前~中期に銅鐸などを考案して

 信仰とともに稲作を教えた人々の正体だったのである。

 銅鐸に描かれた渦状文は水稲の母=水を意味し、

 蜘蛛やカマキリは害虫を退治する味方で、

 狩猟のように見えるのは稲を食い荒らす害獣の駆除法で、

 籾を臼でついて収穫するまでの「絵解き読本」だとわかる。

 弥生時代の銅剣型祭器の分布はその後、

 四国西端から瀬戸内沿岸、中国地方へと広がって、

 中国以東の銅鐸分布圏とぶつかり次第に重なって行く。

 銅鐸も弥生時代の画期的な祭器で、

 ギリシャ教とは別の宗教が、

 やはり「冥界=銅」という思想を受け継いでいたものとみる必要がある。

 当時そんなことが可能だった存在は、

 インドでギリシャ文化に洗礼された仏教宣布団のウッタラ長老達しかなく、

 どう視点を変えても銅鐸は彼等が考案した仏教用具、

 「初期の釣鐘(つりがね)」だったとみる以外ない。

 銅鐸の絵画を分析すると

 「トカゲ、蛙、トンボ、カマキリ、クモは

  稲の害虫を食う益虫で、

  ヘビ、魚はそれを食う敵、

  サギや鶴は魚を食べる益鳥、

  鹿や猪は稲を荒らす敵、敵は生物であっても

  道具で捕らえ、犬や弓矢で退治て食べてもいい。

  稲は高倉に蓄えて、臼と杵で搗(つ)いて食べる。

  こうした文明は私たちが敵と戦いながら、船で苦労して運んできたものだ」と解け、

 すでに明かになった歴史と、

 インドと周辺諸国での仏教用具発達史とを総合して考えると、

 最終的結論は、

 ギリシャ信仰から仏教へ人々の信仰を変えさせた流れに合わせて、

 ウッタラ達が工夫した

 「読経祈祷用の伴奏楽器」兼

 「水稲稲作教育用具=生物連鎖の重要牲を教える輪廻転生、殺生戒教育用具」兼

 「音響通信器具

 だったというのが最も正しい結論だ。

 ※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録33:22頁」
          「言語復原史学会・大学講義録21:28頁」
          「言語復原史学会・大学講義録24:9頁」
 
 『参考』
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2012年4月16日月曜日

ハッタイ粉と黄(き)な粉の由来



 《ハッタイ粉と黄(き)な粉の由来
 「ハッタイ粉と黄(き)な粉の由来

 ウィキペディア百科事典によれば

 「はったい粉(はったいこ)」は、オオムギを炒って挽いた粉。

  別名、麦焦がし(むぎこがし)、煎り麦(いりむぎ)、香煎(こうせん)。

  方言名として、煎り粉(いりこ)、御粉(おこ)、散らし(ちらし)、

  香ばし(こばし)、香粉(こうこ、こんこ、ここ)、

  はね粉(はねこ)、麦粉(むぎこ)などがある。

 「黄粉(きなこ)」は、ダイズを炒って皮を剥き、挽いた粉である。

  餅にからめて食べたり、和菓子の原料とする。

  和菓子で黄粉をそのまま使ったものとしては、きな粉ねじりがある。

  また、牛乳や豆乳などに混ぜて飲むこともある。」

 と書かれている。

 ※出典:Wikipedia:はったい粉
     Wikipedia:黄粉
     
 麦を火で炒(い)って粉にひいて、お湯でこねて食べる、

 あの粉を大阪周辺では「ハッタイ粉」という。

 ムギは、本来、地中海農耕文化の主食である。

 このハッタイもハティ人に対する呼び名変化の中の一つと同じである。

 沖縄県の「波照間島」の名は

 沖縄語や鹿児島語では「ハティマ」と発音する。

 語尾のマは国を意味する。

 「ハティ」というものを指している。

 ハティというのは、

 アレッサンドロス時代の前後に、

 やはり中近東で大活躍していた人たちの名である。

 「ハティ人」は英語訛りでは「ヒッタイト」と発音する。

 古代金属文化の先進国人として、世界史上でも有名な人たちである。

 日本語の「ハチ=蜂」を考えてみると、

 この武器をもった連中と同じ性質をもっている。

 どちらも「剣をもつ者」。

 「黄色」を意味する「クナ」という言葉がある。

 日本語の古語では「木=キ」を「コ」と発音したが、

 これは沖縄語では「ク」になる。

 これでわかることは、

 黄を「キナ(一例=黄な粉)」というのもやはりこの語の方言。

 マレー詣では黄色はまた「クヌ」とか「クヌクヌ」ともいう。

 中国ではほとんど「助詞なし」で、

 翻訳には送りガナが必要なほどに、文字を「節約」している。  

 (例。キナコ=黄な粉。マナコ=目の子)

 ※出典:加治木義博「HIMIKO・KKロングセラーズ:182頁」
          「言語復原史学会・大学講義録4:7頁」

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2012年4月15日日曜日

千木のルーツ



 《千木のルーツ
 「千木のルーツ

 ウィキペディア百科事典によれば

 「千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)は、

  今日では神社建築にのみ見られる、

  建造物の屋根に設けられた部材である。」

 と書かれている。

 ※出典:Wikipedia:千木・鰹木

 伊勢神宮の建築様式のうちで特に印象的なのは

 左右に長く突出した切妻屋根と、

 それを支えるために屋外に独立して立てられた

 「棟持柱(むねもちばしら)」であるが、

 全く同じ構造の棟持柱をもった建築様式がインドネシア各地に見られる。

 何故棟持柱が必要なのかがよく理解できる。

 その屋根の張り出しは伊勢のそれよりも、

 はるかに大きく日蔭を作っているからである。

 また、その神殿には牛の頭の彫刻がつけられている。

 これは他の様式の神社では棟の両端にあって、

 丁度日本の千木にあたるものが、

 牛の角を表現している。

 これと全く同じものが、

 家屋文鏡の中にもはっきりと写しとられている。

 こうしたことは、古代の家屋文鏡の製作者と、

 今セレべス島などに住んでいる人々との間に、

 はっきりとつながりのあることを示している。

 このことは名詞の面からも明らかになる。

 私たちがこれまで<千木>を<チギ>とよんできたのは、

 正しくは「チヌギ」(千之木)と助詞の「ヌ」を入れて、

 読まねはならなかったのだ。

 ということである。

 なぜなら、

 <チヌギ>とは沖縄弁で、ツ(チ)ノ(ヌ)ギ(角木)のことであり、

 その原型たる<角木>はインドネシアに厳としで実在しており、

 家屋文鏡もまた、古型が現在の千木よりも、

 現在のインドネシアの<角型>に近かったことを証明しているからである。

 ※出典:加治木義博「言語復原史学会・邪馬臺国の言葉:128頁」


 わが国では仏教渡来以前の民族宗教は、

 天神地祇を祭ることであった。

 その祭り方にはいろいろな約束ごとがあり、

 今なお伝統を承けついでいるが、

 神社建築で目立つ特徴は棟先につけられた千木(ちぎ)である。

 それは古く家屋文鏡の絵にも描かれているが、

 実は千木はわが国の専売ではなく、

 東南アジア各地に広く見られる、聖なるシンボルなのである。

 それはインドネシアで牛頭をそのまま取りつけている。

 本来、牛の頭を象ったものであるが、

 日本の千木に最も近いものは、

 タイ国山地民族グエバ・アカ族の酋長の家のもので、

 天地神明造と同じく外(そと)削りになっている。

 家屋の話しで忘れることのできないのは千木である。

 日本人は永い間、千木は日本独特のものだと信じてきた。

 しかし、東南アジアには広く千木が分布していたのである。

 それらをすべて調べてみると、

 最も原始的なものはインドネシアのもので、

 牛の頭をそのまま棟の両端にとりつけている。

 またスラウエシのラムパ村のものは、

 コブ牛の長い角そっくりに削ったものを取りつけている。

 そして同じスラウエシのトラジャ族のものは、

 水牛の頭や角を、棟ではなく、軒下の柱に数多く取りつけている。

 こうした事実から出る結論は、

 日本の千木もまた、牛頭を象徴したものだということである。

 その観点からみると全国の神社の千木のうち、

 伊勢神宮の天地神明造りのものが、最もよく牛顔を写している。

 ●牛頭をかたどった千木

 角(千木・風穴

 上顎(障泥板

 鼻面(甍覆

 耳(鰹木・樋貫

 下顎(棟持柱

 歯(鞭懸)(破風板

 その外観が日本の千木に一番近いのは、

 グエバ・アカ族の酋長宅のものであった。

 もっともそれは角にあたる部分だけのもので、

 日本の農村の小社に見られるようなものである。

 このアカ族は同時に鳥居の一種とコケシに近い男女木偶を祭っている。

 こうしたコケシ型の神像はインドシナ半島の各地で広く祭られていて、

 日本のコケシが本来、何であったかを物語っている。

 カンボジアではこの神像をドンターと呼ぶ。

 新年の祭りはドンターの祭りで、

 日本の御幣とよく似た形に切った紙を祭壇にぶらさげる。

 福岡市の博多ドンタクは語源不明の祭りであったが、

 それが本来、新年の祭りであったことと考え合わせると、

 このドンターが語源として一番近い。

 なお御幣形の切紙は東南アジア一帯に、

 様々な形式で広く広がった信仰表現である。

 有名な家屋文鏡(4世紀頃)に見る弥生期前後の建築物には

 4つの建築図が見られるが、その4つとも棟端に千木をもっている。

 またその建築様式が後述のものと多くの共通点をもっているのである。

 これでわかるのは、

 言語と文明だけがセットになってはいって来るという事実と、

 人間自身が言語と文明を携えてやってくることがある、

 という事実の、

 二通りがあるということである。

 その差は何であろうか。

 それは、文明を伝達する手段としての言語を、

 人間自身が運ぶ必要があった時代と、

 文字や電波または録音や映画という媒体のある時代との相違だ、

 ということである。

 インドネシアのスラウェシ中央部ワッタウ近郊のラムパ村の神殿である。

 千木の位置に見事に作られた木彫りの角が取りつけられている。

 同様のものはスラウェシ各地で見られるが、様式は多様化分化している。

 また、この屋根の形は

 大和の高塀造り

 飛騨の合掌造りなどに多くの共通点をもっている。

 伊勢の神宮建築をさらに深く観察してみると、

 <千木>が<角>を意味することが、

 誤りでないことを証明するものが幾らでも見つかる。

 それは<牛の頭部>を表現する数々の努力の跡を止どめているのである。

 まさか<神宮>と<牛の頭>とお思いになる方も多いと思うが、

 天照大神の弟であるスサノオの命は間違いなく「牛頭天王」とされているし、 

 邪馬臺国の官名にもそれが見られる。

 その証拠に<『記・紀』の世界>と<倭人章世界>を結ぷ重要なシムボルが、

 <牛>であるという事実を、これから御覧に入れることにしょう。

 漢字音が時代によって大きく変化したことはもうすでにお話ししたが、

 カールグレン氏によってそれが

 <上古音>、<中古音>、<近世音>に三大別された。

 邪馬臺国四つの官名のうち<奴佳鞮>は、この研究結果に従がうと、

 中古音で「ヌォガィディェイ」と発音せねばならぬことになるが、

 これはどうみても日本語や朝鮮語ではない。

 どこの言葉に一番似ているかというとマレー語なのである。

 例をあげると、マレーの<州>は<ヌグリ>とよばれる。

 また少し発音が変わるが<N>が語頭に来る

 <Nガ>(<ン>と<ガ>を別々に発音してはいけない。

 一種の鼻音で、

 しいていえば<ヌァ>に近い音にきこえる)云々という語が、かなりある。

 <ンガリル>は「流れる」という意味をもっているから

 <ヌガリル>の方が<ナガレル>に

 近いことはすぐおわかりになると思う。

 <ンギアウ>は<ネコの啼き声>だから、

 <ニヤウ>であって<ン何々>でないこともおわかりと思う。

 では<ヌォガィディェイ>に一番近い言葉は何かというと、

 <ヌガンディ>という名詞である。

 またインドでは<牛>が神聖視されている。

 これは牡牛が<シバ>神の顕現であると信じられてきたためで、 

 牛や角が聖なるものの象徴とされるのである。

 このことが理解できないとインドからマレー語圏、

 さらに我が津々浦々に祭られる神社から

 伊勢神宮に至るまでの「千木」の神聖さが

 不明になるのである。

 その<ヌガンディ>の名をもつ<牛の像>は

 実は我が国にも古くから祭られていた。

 それは現在でもなお各地で見られる。

 ほかでもない<天神様の牛>である。

 世俗には菅原道実が太宰府へ流された際、

 彼を運んだ牛車の牛であるとされている。

 しかしこれは余りにも不合理な説明である。

 供をしたのは牛だけではないし、

 流人が船でなく牛車に乗って福岡まで行ったというのもおかしい。

 よく考えてみると、

 天神様の牛には全く必然性が無いことがわかるのである。

 これは理由ははっきりしている。

 天神様というのは菅公よりはるかに前から祭られていた神で、

 当時すでに祭神の不明になっていた社に、

 道実を合祀しただけのことなのである。

 もうおわかりのように

 天(チヌ)神とは角(ツノ)神であり、<牛>が本体あったのである。

 そして同じ京都の大氏神(うじがみ)は

 葵(アオイ)祭で名高い賀茂社であるが、

 その祭神中の氏の祖は、<加茂建角身命>であり、

 その孫神は<賀茂別雷命>である。

 <角>と<雷>がセットになっていて、

 天神様の先祖を証明しているのである。

 ※出典:加治木義博「日本人のルーツ・保育社・カラーブックス:23・108頁」
          「言語復原史学会・邪馬臺国の言葉:50~53頁」

 『参考』
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2012年4月14日土曜日

三種の神器



 《三種の神器
 「三種の神器

ウィキペディア百科事典によれば「三種の神器(さんしゅのじんぎ)とは、天孫降臨の時に、天照大神から授けられたとする鏡、剣、玉を指し、日本の歴代天皇が継承している三種の宝物である。」と書かれている。

 ※出典:Wikipedia:三種の神器
     
 [八坂瓊の曲玉]ヤサカニノマガタマ

 八坂はヤバン。

 瓊は赤い宝石。

 すなわちヤバン産の赤い宝石で作った曲がった玉という文字の意味。

 「マガダマ」は「マガダ国(マ)」。

 すなわちマガダ国を象徴しているが、

 それがさらに上級の「マケド」(人の国=ニヤ)も象徴している。

 神器の原型はリュキアの太陽象徴。

 「(古代ギリシャ領小アジア半島最南部、ロドス島の東北)の銀貨。

 曲玉もマンジも太陽の象徴。

 アポロンの生まれ変わりと称したアレクサンドロスも愛用していた。

 それは『琉球』という国名にもなっている。

 [八咫の鏡]ヤアタノカガミ

 八咫はハティ・アタ(阿多)だから「ハチアタ」と読むのが正しい。

 世界最高の金属文化と、王権の象徴。

 ヒミコを共立したアショカ仏教宣布団の重要な構成分子。   

 神器の原型は三角縁神獣鏡の一種。


 [草薙の剣]クサナギノツルギ

 このクサも古謝(クザ)、

 「カッシート=香椎人」(の王=ナキ)を示している。

 これは八俣の大蛇を退治して得られた剣だから、

 一度、スサノオに奪われて、返されてきたもの。

 このカシーはマレー、インドネシアでは「愛」を意味する言葉で、

 ヒミコの別名になっている。

 神器の原型はシャカ(サカ、スキュタイ)人の黄金宝石装宝剣。

 アレクサンドロス大王も同じ系統の剣を愛用していた。

 三種の神器とは

 ヤヴァナ人を頭に、

 ハティ人、

 カッシート人で

 構成された倭人文化の象徴だった。

 ※出典:加治木義博「HIMIKO・KKロングセラーズ:47・198頁

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2012年4月13日金曜日

妙見(北極星)



 《妙見(北極星)
 「妙見(北極星)

 ウィキペディア百科事典によれば

 「妙見菩薩(みょうけんぼさつ)は仏教における信仰対象である菩薩の一つ。

  本来、「菩薩」とはサンスクリットの「ボディサットヴァ」の

  漢訳「菩提薩埵」から来た言葉で、

  「悟り(真理)を求める者」の意だが、

  妙見菩薩は、他のインド由来の菩薩とは異なり、

  中国の星宿思想から来たもので、

  北極星を神格化したものであることから、

  通常は大黒天や毘沙門天・弁財天と同じ天部に分類されている。
 
  古代中国の思想では、

  北極星(北辰とも言う)は天帝と見なされた。

  これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、

  妙見菩薩と称するようになった。「

  妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということである。」

 と書かれている。

 ※出典:Wikipedia:妙見菩薩
    
 『妙見』とはなにか?

 B.C.E.2000年ごろから

 アーリヤ人インド侵入以後先住民ドラビダ人

 星を神または仙人と信じていた信仰が

 原始ブラフマン教に入って、

 マガダを中心にインドの中ッ国一体の信仰対象になっていたものを、

 それから派生した原始仏教で菩薩として扱ったものである。

 『妙見』は北極星を指し、Starsianaと呼ばれる。

 直訳すれば「星・遮那」(対比=太陽・遮那=ビルシヤナ)になるが、

 日本の密教系では訛って「蘇達利舎菟」と書き、

 別号として

 「妙見尊星」「妙見大菩薩」「北辰菩薩」「北辰尊星」などと呼ぶ。

 日本では吉祥天に似た美女の女性像が多い。

 本来は北斗星(大熊座)を伴い、

 「ラーマ・トナ」の第7巻以後に七人の予言者=大仙として 

 次の図に相当する名の人物が登場して活躍する。

 九曜星
       ★ Arundhati(努爾波知=ヌルハチ=清太祖=1583)
       ★ Vasistha       =     (Jamad gni)
  ★ Angirasa        (邪馬臺国)
  ★ Marici     (天ギリシャ)          ★ Kratu
  (摩利支天)         ★ Atri        (高麗津)
                  (阿修羅)    (プラハ)
               Purastia ★     ★ Puraha

 毛利氏の紋所など九曜紋は、

 この八星と妙見との九星を表現したものであるが、

 北斗を七星と信じているものは太陽と月とで九曜だと誤解して、

 それが仏教に定着し、

 マンダラにこの九曜を使って、

 その中心を大日如来とするものが生まれた。

 卑弥呼を天照大神としている事実は、この大日如来信仰と切り離せない。

 それは姫木山の信仰対象である巨岩を「ウカノミタマ」と表示しているが、

 「ウカ」は大日(ウカ)如来だからである。

 これは彼女の亡夫

 ソナカ・シチ=天日槍=天の稚彦=足仲彦=仲哀天皇の名と事跡が、

 アショカ仏教東方宜布団の長老・ソナカの名とともに、
 
 『魏書倭人章』が記録した

 3世紀当時の『鬼道』

 「仏教」だったことの動かない証拠として実に重要なものである。

 「ホシ」という発音は「百済」の一音と一致するから、

 百済倭国(フジワラ)の信仰対象だったことが語源である。

 また「妙見」の名は古代イナの遺跡である

 大阪府北部に「能勢妙見山」があり、

 枚方市近郊に「星田妙見」があり、

 鹿児島県の霧島山麓に「妙見温泉」があつて、

 この3地点は蘇我稲目とニギ速日とに完全に直結していて、

 大化大戦当時の遺跡とすると非常に合理的な地名になり、

 3~7世紀の倭国の信仰が完全に把握できる。

 ※出典:加治木義博「言語復原史学会・講演会:1994.10.30 レジメ」

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
 『言語復原史学会:画像』

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