2012年2月24日金曜日

歴史年表(4)「和人史」年表



 1 紀元前1523年。
   バビロニア第一王朝滅びる。カレン人の放浪生活、始まる。

 2 紀元前1523年
   中国に商(シャン)=後の殷(イン)帝国起こる
   その繁栄は宝貝によって支えられていた。
   カレン人は沖縄海域で宝貝産業に従事。
   沖縄の貝塚からは宝貝の貝塚出ない。

 3 弥生時代
   種子ガ島の広田遺跡付近に「山」という漢字や、古代中国の文様を彫った
   装飾品をもった人々がいた。その付近は今も水稲や「赤米」を祭祀用に栽培している。
   古代辰韓

 4 紀元前
   高句麗、北朝鮮に建国
   その国名は宝貝を意味する。
   地名、数詞は日本語。
   沖縄から九州本土西部を北上した痕跡『三国史記』「高句麗本紀」の地名、王名に残っている。

 5 3世紀
   朝鮮に馬韓・辰韓・弁辰古三韓あり。
   三国とも日本語名の小国で構成されている。

 6 244年
   高句麗・山上王位宮、北朝鮮より敗走、行方不明になる。


 7 244年
   新羅始祖・赫居世(のちの倭女王「壹與」と諸条件が一致)、沖縄・与那原で即位。

 8 246年
   辰韓の「臣濆沽」国主、帯方郡の崎離宮を攻めて太守を殺し、臣濆沽国、滅亡。


 9 247年
   狗奴国男王・卑弥弓呼素、邪馬臺国を攻撃。
   卑弥呼死ぬ。大冢を作る。古墳時代の始まりか?

 10 247年。
   2代目卑弥呼・御間城姫、立つが、夫・崇神天皇の自立で内乱起こり、邪馬臺国消える。

 11 247年。
   3代目卑弥呼・壹與、立つ。邪馬壹国起こる。
   筆頭官「伊支馬」は山上王位宮=垂仁天皇。

 12 247年?。
   鹿児島県知覧に古代新羅「鶏林」が都する。
   福岡が白日別と呼ばれ新羅「斯盧」時代に一致する。

 13 425年頃
   倭王・珍の名乗りに始めて新羅・百済の名がある。
   このころ朝鮮に始めて古墳ができる。

 14 663年
   新羅王・金春秋、百済を滅ぼす。こののち天智天皇即位。
   「神武東征」革命で倭国滅ぶ。

 15 670年
   倭国、国号を「日本国」に変える。

「和人史」年表の補足説明

 <1>のカレン人だが、古代バビロニアは「カルデア人」の国である。

 この「カル」と「カレン」や「カリエン」の「カレ」「カリ」は、

 方言ていどの違いでしかない。

 沖縄・南九州方言は「ラ行」を「ダ行」で発音することは、

 前章で説明したが、

 大坂の河内方言では「ウドン」を「ウロン」と発音したこともよく知られている。

 仮に河内方言で「カルデア」を読むと「カルレア」。

 それに「人」を意味する語尾の「アン」または、南九州助詞の「ン」をつけると、

 「カルレアアン」または「カルレアン」になる。

 これが縮まって「カリ工ン」「カレン」になっても不思議ではない。

 「カレン」の語源は「カルデア人」であった可能性が濃厚である。

 宝貝の「カウレイ」は「カルレアン」が「カウレアン」と

 訛った場所・時代があって、

 そこで「カウレ人の商品」という意味で

 「カウレ・イ」と命名されたように見える。

 彼等がバビロニアで宝貝を取っていたとは考えられないから、

 それは放浪中に始めた仕事だったはずである。

 貝の名の方があとで生まれたことは間違いない。

 それが移動先でさらに次々と発音が訛って

 「コーリー」や「コグレー」と変化したのである。

 <2>の中国古代帝国「商」(シャン)の名もまた、

 ビルマからタイヘかけての山岳地方に住む民族の総称として有名な

 「シャン民族」の名と一致する。

 ビルマにはシャン・高原

 シャン州が、カレン・カレンニの二州とならんで実在しており、

 それらの地方からタイに移動した民族の名前をとって、

 かってタイ国がシャムと呼ばれていたことをご存じの方も多いと思う。

 <3>の赤米は今も私たちがお祝いに食べる赤飯の古い姿だというのが定説である。

 年表には書けなかったが、

 北部九州が銅剣・銅鉾をもっていた弥生時代に、

 南九州からはそうした銅器が全然出てこないので、

 南九州は文化が低かったのだとされていた。

 しかし戦後、

 同じ弥生時代の遺跡から銅器の変りに鉄器が次々に出てきて、

 南九州が一と足さきに鉄器時代に入っていたことが明らかになった。

 そこで「なぜ北九州の方が遅れていたのか謎」とされていたが、

 読者にはもう、その理由がよくお分りだと思う。

 <4>地名は日本語。

 『三国史記』「地理」にある朝鮮の古地名が日本語であることは

 加治木義博著『異説・日本古代国家』で説明済みなので、

 もと高句麗領地名を選んで少し例を挙げておく。

 それがどうして日本語だと分るかというと、

 地名は全然別のものに変えてしまうと

 不便極まりないから、

 どうしても元の地名に近い発音をもった当て字に変えるしかない。

 <十谷城>という地名を新羅王が鎮湍県に変えているのをみると

 「ジウタンキ」という名を「ジンタンケン」に変えたとみるほかない。

 十谷城を<ジウタンキ>と発音するのは

 日本語の・南九州方言しかないということが分るのである。

 また<烏斯含達>は

 「ウシガンダ」か「オシガンダ」としか読みようがないが、

 それは牛神田か押神田という日本式地名である。

 以下、説明ぬきで並べてみよう。

 沙熱伊=サネツイ=実洋井。

 古斯馬=コシマ=小島。

 伊伐支=イバルキ=茨城。

 加支達=カシダ=加世田。

 河西羅(または何瑟羅)=カシラ(またはカヒラ)。

 千珍=ウチヌ。

 数詞は日本語。

 高句麗の数詞を日本語か?

 と指摘したのは『広辞苑』の新村出氏である。

 「三・七・十」に当たるものに

 「蜜(ミツ)・難(ナヌ)・徳(卜)」

 という当て字が使ってあるのを発見したからであった。

 これはその後、

 加治木義博が後の数詞全部を見つけだして日本語だったことを立証できた。

 <10>邪馬臺国は鹿児島からどこへ移動したのか?

 崇神天皇系の人々が兵庫県に移住した事実が

 「天の日矛」伝承として記録されているが、

 邪馬臺国の名は「宇治山田」型の地名として

 京都、奈良、伊勢に分布している。

 この地域は弥生後期、銅鐸文化が栄えたが

 3世紀末頃に奇妙な滅び方をしている。

 これは先住民が新しい勢力に征服されたかたちに見える。

 そして代って古墳文化が栄え始める。

 その古墳は卑弥呼の死にともなって作られた「大冢」が、

 記録に残る「古墳らしいもの」の最初である。

 こう考えてくると

 3世紀の近畿地方の大変動は

 邪馬臺国の人々の移動によるものであった可能性がもっとも強い。

 <13>「倭の五王」をその頃の近畿の支配者と考えるのがこれまでの常識だったが、

 最後の「武」の上表文を分析してみるとそれは間違っている。
 
 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 

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 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
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 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

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