2012年2月3日金曜日
五彩圏連邦
《五彩圏連邦》
《五彩圏連邦》
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卑弥呼系の倭人連邦は、
中心に黄、
東に青、
西に白、
南に赤、
北に黒の
五色をもつ鳥獣をトーテムとする後世の「四神」の原型を、
統治の単位にしていました。
そのままの地名がセットになって
今も南九州から四国、中国地方、近畿へかけてかなり残っていますので、
私(加治木義博)はそれらを「五彩圏連邦」と名づけて研究を重ねてきました。
それは本来、ギリシャを中心にして生まれた統治形態であり、
その当時の地中海文明の遺跡のある地域は
在も
東に「青=オマーン」、
西に「白=シラクサ」、
南に「赤=アカイヤ」、
北に「黒=クロアチア」という国や地域が実在しています。
この名がみんな日本語の色の名と同じであることに、よく心をとめてご注目ください。
これと同じものが日本にもみられます。
一例は
東に青=オオワ(大和)、
西に白=シラギ(新羅)、
南に赤=アケイ(安芸=高知)、
北に黒=クリ(高麗・句麗)という
国や地域が実在していることです。
卑弥呼のころに、
こうした言語や統治方法だけが伝わるということはありませんから、
当時の統治者がギリシャから来た人々だったことは疑うことができないことになるのです。
このことも卑弥呼たち天照大神がギリシャ系の白人で
金髪だったことの強力な証拠の一つといえますし、
シロ・シラという発音の「新羅」人が、
その人々の国をさす名であることも、すぐおわかりになると思います。
壹與はその新羅の始祖王で「赫居世」と書かれますが、
カグヤ姫も漢字では「赫夜姫」と書きます。
「夜=ヤ=ィョ=居世」で、少しの発音差しかありません。
こうしたことを記録している
『記・紀』も『三国史記』も
真実の記録をたくさんもっている貴重な史料だということが、
これでよくおわかりいただけたと思います。
ここに挙げた新羅が朝鮮半島に移動したのは、
壹與が死んだあとだいぶ経ってから、
4世紀のことです。
とうぜん壹與の時代には新羅はまだ九州の中にありました。
ですから「五彩圏連邦」は拡大しながら西から東へ移動して、
5世紀半ばの「倭王・興」の名乗りが「河内」を意味するので、
そのときやっと東の端が近畿にとどいたという記録になっています。
ですから卑弥呼の3世紀には、
まだ出発点である沖縄からあまり遠くない九州地域に
都していたことは考えるまでもありません。
卑弥呼の都を語るのなら、
こうした基礎的な知識からまず先に身につける必要があります。
江戸時代初期の素人説から一歩も出ない頭では、
とても知性の高い読者を納得させられるような正しい報道はできないと思います。
「二つのアスカ」なのである。
それに「遠近」の区別があることが、
7世紀の歴史の大きな証人であり、
重要な記録なのでもある。
ご存じのとおり
「遠津アスカは奈良県のほう」
「近津アスカは大阪府のほう」である。
これは「近津」に近い位置に命名者がいたことを示している。
この呼び名は命名者の視点が、奈良側でなく大阪側にあった証拠なのだ。
では、その命名者は誰だったのだろう。
それは同じょうな「遠近」のついた地名の命名者が誰かを見てみればわかる。
誰でも知っている遠近地名に「近江・遠江(オウミ・トオトウミ)」がある。
近江は「近津・淡海(チカツ・オウミ}」の略で、
遠江は「遠津・淡海(トオツ・オウミ)」の略だ。
近いほうは近江(滋賀県)のビワ湖。
遠いほうは遠州(静岡県)の浜名湖が名前の語源である。
この遠近感はどこから見たものだろう?
いうまでもなく、この場合は「都=京都」から見ている。
都に近いほうが「近」なのである。
この遠近の区別を的確に使っているのが「近畿」という地域名だ。
「畿」は都を意味するが、
その発音の「キ」は五彩圏の中心の「キ(黄)」の色の名の語源である。
黄を<キ> と発音するのは、
この「畿」の字の漢音が、日本語の色の名になったからである。
私たち日本人は天武時代から明治以前までの長い間、
奈良と京都を首都にしてきた。
それを中心にした地域を「畿内」と呼び、
今も「近畿地方」と呼んでいるのは、
そこが「五彩圏連邦の中心=黄色の国」という意味を
いまだに受け継いでいるのである。
そこに近い地域が「近畿」なのだから、
それより遠方は「畿外」であり「遠国」なのだ。
これでわかるとおり、それらの遠近は都人が見たもの。
もう少し詳しくいうと、都の支配者がつけた代名詞なのである。
それは当然のことで、古代は万事が支配者中心社会だった。
すべての文化の中心は「官=政府」だった。
文字の読み書きもできなかった一般国民は、
官の視点でみたものを、ただ受け入れて使うだけだったのである。
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