2012年2月17日金曜日
「門松」の由来
《「門松」の由来》
※出典:Wikipedia:門松
ウィキペディア百科事典によれば
「門松(かどまつ)とは、正月に家の門の前などに立てられる竹や松で作った飾りのこと。」
と書かれている。
正月を迎えると我が国では門松を立てる。
最近は少なくなったが、戦前は長屋住まいの人でも、
根のついた松苗にノシを掛けたものを、玄関の左右に打ちつけて、松の内を祝った。
ところが戦争が長引いて、
航空燃料に松根油を供出するという断未魔状態になると、
政府が
「松は重要資源だから門松は国策に反する、絵で代用するように」と命令したので、
以後は門松の絵を印刷したものを貼るようになった。
敗戦後「そんな縁起でもないことをしたから敗けたんだ」といった人がいたが、
戦後はデパートなどが賑々しく大きな松竹梅を飾るくらいで、
全国的に廃れて、クリスマス・ツリーのほうが目立つようになった。
しかしなぜ門松を立てるのか?。
在来の手法なら何でもかでも
「中国から来た文化だ」で済まされてきたが、
中国には松を特別視する宗教や習慣はない。
それがあるのは只1カ所、ギリシャだけである。
古代ギリシャでは船を造るのに松が欠かせない適材だったから、
今も「ポセイドンの聖木」として神聖視されている。
この門松(カドマツ)という姓が鹿児島にある。
すると初めて松の木が、なぜ「マツ」という発音をもっているのか?が、わかる。
ポセイドンは豊穣の女神・デメテルに一目惚れして、
彼女を喜ばせようと河馬やキリンやロバなど様々な動物を造ったが皆、
女神の気にいらなかった。
しかし諦めずに試作品を造り続けた結果、ついにデメテルが、
うっとりする美の極致の動物が出来上がった。
馬である。
古代日本人はこの話をよく知っていたのである。
なぜなら百済はポセイドンへの当て字である。
それがクダラという発音ももっている。
クダはマレー語の「馬」だから、クダラとは「馬の国」だ。
これは古文では「馬津国」と書き、マツラと読む。
これは『魏書倭人章』に末廬国と書かれた国と発音が一致し、
今の佐賀県と長崎県にまたがる松浦地方であることも、
帯方郡使がやってきたコースの記録で、完全に証明されていて疑う余地がない。
そのコースを北へ逆行すると朝鮮半島南西部に着くが、
そこは当時、馬韓国だったことが
『魏書・東夷・韓章』に記録されている。
馬韓国は「マガラ」と日本語読みすると、初めて正確な意味がわかる。
「馬ガ国」すなわち馬の国で、後世、植民地百済になったことも疑問の余地はない。
百済も末廬国も松浦も馬韓も、全て同じ馬の国だったのである。
百済がなぜ?馬の国だったか、
それはこの、ポセイドンと馬との切っても切れない関係を教えたギリシャ神話が、
当時の我が国で周知のものだったからに、
ほかならず、そうでなければ絶対に生まれるはずのない複数の地名・国名群と、
その相互関係だったのである。
ここまでわかると、その「馬津」国の聖木が、マツと呼ばれる理由がわかる。
それは国名そのものが、
その聖木の代名詞になって「馬津」の木と呼ばれただけである。
古代の我が国にポセイドン神話がなければ、
マツという名詞は絶対に生まれなかったのである。
このことで『魏書倭人章』の解読に、
決定的な大きな根拠が生まれたことも、見落してはいけない。
帯方郡使が当てた当て字「末廬国」は、間違いなく「マツ」という名詞を写しており、
それは馬津という土地と、馬という動物と、松という植物と、マツという発音の植物名とが、
すでに倭国こ実在していた事実を記録しているからである。
その上さらに当時すでにこれらの漢字が当て字として我が国で使われていた事実も立証している。
それがなければこうした百済殿から松に至る名詞群を生んだ文化展開は、
絶対に起こらないからである。
また帯方郡使が「馬…無し」と書き、「其の木」の中に松がないのも、
彼の接触した倭人の教養度の低さによるもので、
その記事が絶対だと思い込むのは間違いであることも、
この発見が明確に教えてくれる。
このことはさらに国史解明充実の新しい手掛かりとして大きな役割を果たす。
それは門松から北海道の松前に至るまで我が国の地名や姓についている松が、
全て、ポセイドン=百済に関係しており、その一族の消長を記録しているからである。
ギリシャの海神・ポセイドンは馬を作り出したから馬は彼の聖獣で。
またギリシャでは船を造る木として最高だった松の木を、
そのポセイドンの聖木として崇敬していた。
百済というのは、そのポセイドンに当てた漢字で、
ポセイドン=百済殿(ポセイドン)である。
すると福岡県若宮町の竹原古墳などが代表する北部九州の古墳壁画が船と馬をテーマにし、
『魏書倭人章』には「馬無し」と書いてあるのに、
各地で立派な馬の埴輪が出てくる理由が完全に解かる。
また宮崎県西都原(さいとのばる)の飯盛塚古墳出土の船の埴輪は、
艪(ろ)を支える突起が14あるから乗員数で規模がわかる。
こうして本学によって発掘考古学の手探り時代は終わったのである。
それだけでなく、帯方郡使の眼の届かなかった沖縄地方で、
いま久高島のノロたちが頭にギリシャの月桂冠そっくりのものを被るのは何故か?
といったことまで、明確にわかる。
ギリシャでオリンピックが開かれた。
日常、なんの気なく使われる「栄冠」という言葉が、
ギリシャ起源の月桂冠のことだったと改めて気付かされる思いがするが、
ギリシャから私たちが受け継いだ『四神』の名と色彩の名と、
それを府県名のような行政区名化した五彩圏国家の実在に及ぶ、
極東に於ける壮大なギリシャ文明の開花が、
奇しくもいま明確に白日のもとに姿を現わした。
末廬(マツラ)という発音が帯方郡使にも聞き取れたことは、
3世紀にはマツラという地名がそこにつけられていたからで、
それは最初は馬津国(マツラ)だったものが、のちに松浦になったことも疑いない。
ところがその地域には日本最大の磯の松原である
「虹の松原」が現在も残っている。
文字通り松の浦である。松の木が馬津国(マツラ)を代表する聖木だから、
むやみに伐採し尽くされず、今に至るまで昔の面影を保っているのだとわかる。
このことで松を日本語でマツと発音するのは、
語源が馬の国である「馬津国」だからだとわかる。
それではその松の木はポセイドンの聖木だから、それが群生していたから、
そこをマツラと呼んだのであろうか?。
それともそこが馬津国こなったからマツラと呼ばれた後、
そこに松の木を植えたから、馬津=マツの木という名が生まれ、
それは中国では松=セウと呼ばれる木だから、その字を使い、
発音だけ日本読みしてマツと呼ぶようになったのか?。
これは発音からいっても、文字からいっても後の方が正しい。
だとすれば松の木は後から植えたもので、そこに大きな松原があったところに、
偶然、馬津国が移動してきた奇跡的な出来事があったわけではない。
馬津国が発展すれば必然的に造船量も増えるから、松は単なる聖木としてではなく、
海人族の最大の経済基盤として人工的に増殖されたのだとわかる。
その海運力をもっていたから、ギリシャ人は台湾から朝鮮半島まで支配できたのである。
それがまた、高句麗王・位宮が魏の大軍に敗れて脱出、琉球まで落ち延びるのに役立った。
この話が浦島太郎伝説になって残ったが、太郎は「助けた亀に連れられて」竜宮城へいく。
彼は兄の高句麗王が死んで王妃に泣き付かれたため、亀=高句麗海軍を助けに、
高句麗王を引き受けて戦ったのだったから、「助けた亀に連れられて」なのだが、
その亀の名も単なる海人族の風刺ではない。
位宮は垂仁天皇で、その后妃は狭穂姫皇后の死後に再婚した比婆須比売皇后柿妹である。
その父は美知能宇斯王で、
これはインドの最高の神・ビシュヌウ神ヘの当て字・美知能宇斯(ビシヌウシ)ンであることは、
その当て字の一字一字が証明するし、当時の支配者たちが、信奉する神の名を名乗っていた実例は、
百済王のポセイドン以外にも多数あるから議論する必要はない。
このビシュヌウ神は、目的に応じて様々なものに姿を変えるが、
そのトップにあげられるのが「亀・クールマ」なのである。
それはインド神話の筆頭にある『乳海攪拌』で、この世界を造る時、
宇宙を満たしていた白濁したモヤのような乳の海を神々が攪きまわすのに、
ビシュヌウ神が巨大な亀に変身して特大の攪拌棒を支える軸受けになるからである。
だから太郎の亀は美知能宇斯なのだ。
では「門松」は、どんな事実を記録しているのであろうか?。
それを門飾りにするのは、ポセイドン族=海人族=百済人の行為で、
それは国民が国旗を掲げるのと同じものであるといえる。
ではそれを日本語で「カドマツ」と呼ぶのはなぜ?だろうか…?。
これもギリシャに語源があるのではないかと、精密に捜査し検討するのが、本学の原則である。
するとカドマツに転訛する名詞がギリシャ神話中にみつかる。
カドモスである。
この名はギリシャ人が最初に土着した琉球地区では、母音のオがないために、カヅムスになる。
これは南九州語に転訛すると、ヅはドに戻り、ムはマになり、
スはツと区別のつかない「ッ」になるからカドマッになる。
この語源がなければ、門松は決してカドマツとは読まれず、
モンマツと発音されていたはずである。
関西語では戸外を「カド」というが、それは門を意味しない。
「カドで遊んで来(き)」というのは広い戸外で遊んでこいという意味なのである。
カドモスとは、どんな人物なのだろう?。
我が国では、そんなに有名な存在ではないが、
ギリシャ神話では、大きなページを占める重要人物である。
紀元前1世紀ごろに書かれたとされる、
アポルロドロスの『ギリシャ神話』の第3巻に、
カドモスー族のことが詳しく書かれている。
ポセイドンはリビエと結婚してベロスとアゲーノルが生まれた。
ベロスはエジプトに行って支配者になり、
アゲーノルはフェニキヤに行ってテレパッサと結婚、
長女エウロペと3人の男の子、カドモス、ポイニクス、キリクスたちが生まれた。
ご覧の通りカドモスはポセイドンの孫だから、百済人には周知の名なのだ。
ここで父・アゲーノルの名を検討してみよう。
アゲーは倭国の倭の発音がウワイだったこと、切っても切れない関係にある。
ウワイは今も鹿児島独特の上井(うわい)という地名と姓として、残っているが、
上井という当て字はアゲイとも読まれて、
山口県の地名やJRの駅名に残り、さらに東隣りの県・
広島の古名・安芸も、注意してみればアゲイという発音をもっている。
これはアゲーノルという名が先に鹿児島にあって、
上井と書かれていたからウワイという国名が生まれ、
それにウワイという発音をもった倭の字が当て字されたように見える。
だがその逆も考えられる、倭のウワイが古くて、
そこがアゲーノルの国になってからアゲイへの当て字として上井が使われたが、
そこは倭だったので、ウェイであってウワイではない上井の文字を、
飛鳥や春日や大和と同じように、無理にウワイと読むことになったのだと…。
では、アゲーノルの残りの「ノル」はどうなるか?。
ノルという日本語の古語は「宣る」で、上が下に向かって命令することである。
『古事記』は貴人の名や名乗りに「命」をつけている。
これは在来は「ミコト」と読むと決められていたが、
このミコトは御言葉の省略で「御言」すなわち命令であるとされてきた。
するとそれは「ノル=宣る」と同じことである。
そして「命」という文字は、イノチという発音が一般的で、
ミコトは、こんなに説明しなければわからない特殊な使い方なのである。
ところがアゲーノルの方は「アゲー宣る」と理解すると
「上井命」と書いたものと同じになる。
命が御言か宣るかは、まだ断定できないが、この2つが、
どちらでも同じことであるのは間違いない。
アゲーノルが「命」という敬称の語源である可能性は残っている。
ここで是非、付け加えておく必要があるのは、
私たちの最大の利器「名乗り」についてである。
それは慣習に従うほかないから、
使い続けている「名乗り」という言葉の「乗り」も本当は、
この「宣る、宣り」なのだということなのである。
「名を宣る」から「名宣り」が正しいのである。
間違った「名乗り」という用字では、
一般のかたには何のことか分からなくて当然なのだ。
だが我が国には歴史に限らず、同様の恥を晒している用語が実に多い。
カドモスが生まれた国の名・フェニキヤも重要な名詞である。
そこは古代ギリシャ中でも最も有力な海軍国で、
スペインなど各地に植民地を造り続けた。
その国名に当て字すれば、船木国になる。
船の木は松。
カドモスと門松はここでも結びつくのである。
ただしフェニがフネというのはオカシいという疑問が残る。
これは沖縄語を考えればきれいに晴れる。
沖縄で最も有名な戦跡「マブニの丘」は、摩文仁と書くが、
そこは沖縄本島最南端に近く、
一望、果てしない太平洋を見渡す丘だから、
「船しか見えない丘」で、
それを叙情的に表現した「真船の丘」が、命名者の意図した本来の名前なのである。
真船がマプニになるのは本来の沖縄語には母音のエがないからフネがフニになる。
だからフェニもフニで船と同じになるから船木国で完全に表現されているのである。
いまギリシャや、その植民地遺跡一帯へ行ってみると、見事な松原や松並木が残っている。
紛れもなく文字通り「船木の国」だったことが実感できる。
日本語の「フネ」の語源がフェニキャだったことは疑問の余地がない。
従来、古墳人は北方騎馬民族だといわれてきた。
古墳に壁画や埴輪の馬があり、
石の馬も九州と出雲で出土したから、有力な証拠とされていた。
しかし彼らは船や松には縁がない。
それは全て海神・ポセイドンとだけ、矛盾なく結びつく、
動かぬ証拠群だったのである。
これでギリシャ人と、フェニキャ人とを別の国の、
別の人種だと思っていたのでは、
絶対に古代史の謎など解けないことがおわかり戴けたと思う。
ではカドモスが我が国までやってきたのであろうか?。
実は彼らはフェニキヤで大事件に巻き込まれて四散してしまうのである。
事件はエウロペが誘拐されて行方不明になったことから始まる。
父はエウロペが見つかるまで帰るなと兄弟たちを探しに出す。
カドモスは母のテレパッサと同行するが、母はトラキヤで死ぬ。
そこで一人で旅を続けてデルポイへ行き、神殿へ参詣して神にたずねる。
するとビューティアの告げた神託は
「牝牛を道案内にして、牝牛が倒れた所に町を造れ」という。
すると本当に彼の前に立って歩く牝牛が現われたので、
それについていくと、現在のテパイ市で止まって倒れてしまった。
従者をアレスの泉に水を汲みに行かせると、
泉を守っていた竜が従者たちを殺したので、退治た。
すると女神・アテナが現われて、竜の歯を撒けという。
それにしたがって歯を折りとって撒くと、それが鎧兜で武装した兵士たちになった。
その数が余りに多いのでカドモスは石を投げっけたところ、
兵士たちは怒って同士討ちを始め、どんどん倒れていき最強の5人が残った。
しかし行為を恥じたカドモスは、贖罪のために8年間、神々に仕えた。
それをめでて、
アテネは王国を、
ゼウスはアプロディテの娘・ハルモニアを妻として与えたので、
4人の娘・アウトノエ、イノ、セメレ、アガウェと、男の子・ポリドロスが生まれた。
その後、カドモスはテパイを捨ててイリリアの王になり、
死後は夫婦とも大蛇になって、ゼウスに常春のユリュシオンの野に送られた。
胴から下が蛇の男女が絡みあっている中国の伏義女堝(フクギジョカ)によく似ている。
だからカドモス自身は我が国までは来ていない。
しかし淡路島の語源であるアプロディテの娘と結婚している。
神話とはいえ、彼の一族と我が国との関係が非常に濃厚であることは変わらない。
それはその妻子たちの名にも現われているのである。
「ハルモニア(Harmonia)」
門松を飾る正月を「ハル」という。
名詞語尾のiaは国を意味するから本来の名はハルモンである。
これは「春・門」で、門松を飾る門を意味している。
「アウトノエ(Autonoe)」
アウはオウだから、オオトノ=大殿で王家のこと。
エは兄で、古語では兄と姉を意味する。
彼女は一番上の王女だから、大殿姉なのである。
「セメレ(Semele)」
ゼウスが愛したのでゼウスの妻が憎み、雷に撃たれて若死にする。
だが噂はセメレは人間の男と姦通したのを、ゼウスのせいにしたので、
それをゼウスに「責められて」ゼウスの武器・雷で罰せられたのだ、といった。
日本語の「セメラレ」と彼女の名「セメレ」との関係が、ここに見られる。
セメレは奄美語ではシミジで、そこでは清水をシミジと発音する。
「イノ(Ino)」
イノはボイオチアの王・アタマスの後妻になったが、
大女神・ヘラに憎まれ、ヘラはアタマスに夢で告げ口をしてアタマスの「頭」を狂わせる。
頭にきたアタマスはイノに生ませた長男を殺し、イノも殺そうとした。
イノは次男を抱いて逃げたが、追い詰められて海に飛び込んだ。
彼女に恩義をもつゼウスは彼女と次男を海の神に変えた。
母子は船乗りたちを嵐から救うとして厚く信仰され、彼女を白い女神・レウコテア、
次男をバライモンと名付けたが、それは嵐の海の白い波がしらと、
死の悪魔の手を払いのけてくれるからで、日本の神事の「お祓い」の語源がここにある。
轟々と暴風を吹きつけて船員達を海へ引きづりこもうとする悪魔を、
強く払いのけてくれるハライモンは、
まさに「払い者(もん)」の名にふさわしい海の神様なのである。
海人族たちがカドモスー族を日本まで運んできたのである。
そしてイノという名は国名になり、地名、姓氏にもなって現在まで使われている。
猪野、伊野、井野、伊能、飯野など、これから出た姓は特に南九州と海人族居住地に多い。
「アガウェ(Agaue)」
これは前にもお話ししたが、吾郷、阿江、安川という姓に合い、
アガウェは前記の「エ=兄・姉」がついたもので、阿賀大兄などと当て字できる。
「ポリドロス(Polydoros)」
ポリドはホリト。堀戸や彫戸や保利都、ロスへの当て字は郎子。
保利都郎子。
この堀戸は後にホリベと読まれて、堀部・堀邊などに変化する。
誤解はないと思うが、念の為に申し上げておくと、
以上の一致点はその名詞のギリシャ語の「意味の部分」ではない。
ギリシャ語の名前の「発音の部分」が、日本では日本語として別の意味をもったのである。
これはその名詞が我が国に入ってくる前には無かった言葉が、
その名詞が移住してきて、別の意味をもつ新らしい名詞に生まれかわったのである。
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