2012年2月5日日曜日
四神
《四神》
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ウィキペディア百科事典によれば
「四神(しじん)とは中国・朝鮮・日本において、
天の四方の方角を司ると伝統的に信じられてきた神獣のことをいう。四獣。
青龍(せいりゅう)・朱雀(すざく)・白虎(びゃっこ)・玄武(げんぶ)から成る。
これは周天を4分割した四象に由来する。
五行説にも、中央に黄龍を足す事で数を合わせた上で、取り入れられている。」
と書かれている。
出典:Wikipedia:四神
「四神」はギリシャ生まれなのです。
なぜなら今もギリシャを中心に、この色の名が濃厚に分布しているからなのです。
西の色は「白」ですが、シシリー島に「シラクサ=シラキウス」があります。
北は「黒」ですが「クロアチア」があります。
南は「赤」ですがこれはギリシャ最古の中心「アカイヤ」があります。
そして東の「青」には「オーマン=オマーン」があります。
この最後の国はアレクサンドロス以後の領土で、
このアラブ地域には南に当たる「アカバ」もありますし、
ギリシャ本土の南端はアカイヤ地方です。
ドイツの東の国「オーストリア」の「オー」もやはり東を意味していて、
オーストリアとは 「東の国」という形容名詞です。
私たちが日本語だと思っていた「色の名」はこのようにギリシャ語が語源だったのです。
そして中心にギリシャ「ギ=キ=黄」の国があることを見落してはなりません。
これはインドに入ってさらに発達してトーテム動物との組み合わせが完成したのですが、
その話は長くなりますから避けます。
この四神の五色の名による国々の配置が、
東アジアに幾つも見られるということだけを知っておいてください。
この五つの色で表示された連邦の国々の配置を私は
「五彩圏(ごさいけん)」と命名しました。
これを研究していくと、
日本列島と朝鮮半島とにまたがって、
幾つもの「五彩圏」が見つかります。
その
「五彩圏九州連邦」時代の代表例を挙げておきましょう。
東の「青」が「大分」の時代には、
西の「白」は「平戸=ヒラド=シラド=長崎県」、
北の「黒」は「高麗=クレ=高句麗」でこれは南九州訛です。
南の「赤」は「赤水=鹿児島・桜島」または明(アカ)の宮=鹿児島神宮、
もっと南なら奄美大島の「大和村」で、
これは「大=オ=阿=ア、和=カ」で元は「アカ」だったものです。
鹿児島神宮は八幡の本家で、八幡様は応神天皇です。
この天皇の皇居がどこにあったかを調べた結果、
その皇居名の「軽・明宮」とは、
この鹿児島神宮以外にないことが突きとめられました。
それは今のペキン語で「児」を「ル」と発音しますが、
ペキン語は古代沖縄にいた人たちの子孫の言葉なので
「鹿児」は「カル」と読まれるからなのです。
すると「軽の明の宮」とは「軽=カル=鹿児、明=アカル=阿鹿児」で、
「阿」は丁寧にいう場合の敬称ですから、
どちらも鹿児島神宮を指すことがわかります。
鹿児島語では「明り」を「アカイ」と発音しますから、
「明宮」とは、本来は「アカイヤ」への当て字だった「明家」という字を、
『古事記』の編集者が皇居の名らしく敬称化して、
「家」の字を「宮」の字に文字を変えたものだとわかるからです。
これで卑弥呼がなぜ「明姫」という別名で呼ばれていたかという理由もわかります。
やはりアカイヤの国の女王という意味の当て字だったのです。
こうしたことを『記・紀』の編集者たちは見抜けずに、
別人として扱ったために『天稚彦神話』になってしまったのです。
四神というのは、このころに「方士」が中国に広めたものだったのだ。
この四神は現代の日本では、
奈良の高松塚古墳が発掘されて、
その壁画にあったことから一般に有名になり、
次第にポピュラーになったが、
それ以前は前漢からの青銅鏡背面中央のツマミの回りに、
四方に描かれているものが、
歴史関係者に知られていた程度である。
この四神が描かれている銅鏡の「製造年代」を調べてみると、
漢代以前のものはない。
その大半は、もうご存じの五胡十六国時代、六朝ごろのものである。
中国は漢人の勢力が衰えて、
「胡」人が大量に中国に移住、
群雄割拠して複数の王朝が乱立していた当時である。
胡人は和人と同じシンドゥ教徒だったから、
ビシュヌーを中国式に表現した東王父と西王母を聖なる守り神として、
鏡に彫りつけて礼拝の対象にしていたのである。
ビシュヌーが太陽神で東の象徴だったことを思い出していただきたい。
西王母は『山海経』に、
髪の毛を振り乱した怪物で、
西の神山・崑崙(こんろん)にいると書いてあるが、
鏡の絵をみるとそのとおりに描かれている。
漢鏡の虎の絵はずいぶんちがうもので、むしろ人獅子のほうに近い。
ビシュヌーの妻は「シュリ」という。
この名が琉球の首都だった「首里」と同じ発音であることに注意がいる。
沖縄には代々の統治者が、
それぞれ自分たちの信仰する女神を祭った遺跡があって、
それが地名として残っている。
ギリシャ人は女神アテナを祭っていた。
それが「阿手納(アテナ)」と書かれ、
のちに「可手納(カテナ)」と発音されて、
今では「嘉手納(カテナ)」になって残っている。
同じことは阿直岐(アチキ)と可直岐(カチキ)・加治木(カチキ)の間にもみられる。
これまで在来の学者が「中国文化」だと教えてきた「四神」が、
本当は我が国の固有文化で、それが在来説とは逆に、
こちらが中国へ教えたのだという証拠でもある「四神の名」についいては、
繰り返しお話ししてきたから、
今度は日本語の語源という視点から「東西南北」をみてみよう。
インド神話の『乳海攪拌』は前にもお話ししたが、
北のトーテム玄武は、蛇は山を回す綱役のバースキュー龍、
亀は回転軸を支えるビシュヌーの化身・クールマで、
『乳海攪拌』の主役を象徴にしたもの。
それが亀(キ)、蛇(タ)=キタ=北という日本語の源流なのである。
これは高句麗は倭国連邦の「北の国」だったことと、シンドゥ教国だった証拠である。
では連邦の「南の国」はどこか?。
南(ミナミ)は「皆(みな)・海(み)」。
倭国連邦の南の外れが皆、海になっている地域。
島国の種子島・屋久島以南、南西諸島から流球列島一帯だ。
では東は?。
古語「ヒムガシ」は「日向ヒ(ヒムカシ)」で大隈語。
日向が東の国。
これも卑弥呼時代だけに通用した特徴をもつ。
奈良に居たのでは「ヒガシ」という日本語は生まれない。
では「ニシ」はどういう語源をもつか?。
日向の西は九州や西部。そこには一つしか語源になるものがない。
それは伊都国の最高官「爾(ニ)支」だけである。
「爾支」は本来は沖縄語で北を意味する「ニシ=ニチ」であって、
それ伊都国最高官の称号になつたのは、
「女王国以北、特に一大率を置き」と書いている「北の太守」の略称であるからである。
そんな略称が投に立つのは首都が南の地域にある時代でなければならない。
それは卑弥呼が巴利国=隼人町に都を移したからであって、
壹與の邪馬壹国時代にも伊都の代官は「爾支」と呼ばれたのである。
しかし旧卑弥呼政権が日向に移動して、情勢が変化すると倭国の状態は変わった。
載斯(たいし)烏越(オシロ)=景行天皇が巻き返しをはかって、
九州東半を確保した時代には大分県が「北」と呼ばれていたことがわかる。
大分の古代発音はオオイタではなくオオキタである。
「オオ=倭、キタ=北」」で倭国の北部という呼び名を今なお記録し、
用い続けているのである。
これで、これまでお話ししてきた、卑弥呼政権が巴利から日向へ移動した後、
景行天皇の巻き返しによって、
倭国が南九州東半部で再び勢力を盛り返した当時が、
よくご理解載けたと思う。
これは何が手掛かりと証拠になったのか?。
それは日本語として今、
私たちが使っている
東西南北=「ひがし・にし・みなみ・きた」という発音が全て、
無意味な発音だけの先住民のものではなく、
歴史とともに生まれ育った言葉だったからなのである。
中国の方位観は、多くの史書が書く
「東夷」
「北狄(てき)」
「西戎(じゅう)」
「南蛮」の四方位で、
中央に「中華」がくる。
そこにあるのは皆「夷狄(外敵=蛮人)」の代名詞で、獣の名も色の名の片鱗もない。
強いていえば蛮人を獣なみに見ていたと言えなくもないが、
『四神』の獣は竜も虎も只の獣ではない。
竜は中国人が帝王の象徴とし、
他の鳥獣も尊い神霊として崇めてきたものばかりである。
中心が全く逆で根本的に違っていることを見落としてはならない。
それは中国の方位圏が、
国家の構成を示すためのものではなく、
国家として認めるのは、
中央の「中華」だけであって、
四囲に居るのは全て蛮族だという、
他をけなして自国だけを誇示しようとする
「劣等感の産物=中華思想」が生んだ方位観だからなのである。
だから中国のそれは
「敵」を明示した「闘争思想」の表現であり、
我が国のそれらは全て「和の思想」の産物だという違いがある。
この「ワ=和」が、
聖徳太子の時代まで一貫した国家理想だったからこそ
漢音「ウワイ」の倭を「ワ」と訓読することにもなったのである。
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