2012年2月4日土曜日

五行思想・五行説



五行思想・五行説



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ウィキペディア百科事典によれば

「五行思想(ごぎょうしそう)は、

古代中国に端を発する自然哲学の思想で、

万物は木・火・土・金・水の 5 種類の元素から成るという説である。

又、5種類の元素は、互いに影響を与え合い、

その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する、という考えが根底に存在する。

西洋の四元素説(四大元素説)と比較される思想である。」と書かれている。

出典:Wikipedia:五行思想

では一体、だれがこんな大規模な測量や、壮大な配列や、

複雑な暗号仕掛けや、意味をこめた設計を行なったのであろうか?

またその巨大な構想を実現するために、一体どんな測量器具を用い、

どんな方法で、世界のメートル法にさきがけてその尺度を使い、

測量を行なったのであろうか?

この手がかりをつかむのはそれほど難しくはない。

すでにみたように、これらの直線は元正天皇陵にも及んでいた。

元正太上天皇が死んだのは天平二十年。

その四月、御大葬養役夫司になり、

また後に天平勝宝四年(752年)、

光明皇太后の死に際しても、

葬送装束司になったのは阿倍朝臣(あべのあそん)嶋麻呂である。

阿倍氏は安倍氏とも書き、賀茂家と共に陰陽師(の家系である。

土地の吉凶を占い、方位、天文、暦数、相地を司(つかさど)り、

当然、古墳の造営に際しても、その設計、配置、日の吉凶を指導した。

もちろん、こうした仕事は常にあるものではなく、

天皇や皇族の死の際にだけ世襲の任務として臨時に担当したものらしく、

のちに陰陽寮が置かれるまでは、他の官職の兼任であった。

この前後の阿部一族の仕事ぶりを『続日本紀』でみてみると、

次のようになっている。

神亀元年(724年)七月、

聖武天皇夫人の石川大越比売(おおいひめ)の葬事を監護したのは阿倍朝臣広庭であった。

天平十九年(747年)十一月、

国分寺設置に際し、道を分けて寺地を検定したのは阿倍朝臣子嶋であった。

天平神護二年(766年)九月、

五畿内巡察使として百姓の民情を視察し、

田畑の面積と条件による得失を検したのは阿倍朝臣毛人(えみし)であった。

これは測量を意味している。

神護景雲元年(767年)八月、

阿倍朝臣東人(あづまひと)は伊勢守として任地にあり、

度会(わたらい)の郡にある

等由気(とゆけ)宮(豊受大神宮)=(外宮(げぐう))に

瑞雲(ずいうん)が

出現したことを奏上したため、

景雲と改元したという詔(みことのり)がみえ、

彼は従五位上に昇任された。

天文家の才能をもっていたことが認められる。

その翌二年(768年)

阿倍朝臣浄成(きよなり)(安倍清成)は

鋳銭司(ちゅうせんし)長官(造幣局長官)になる。

宝亀元年(770年)八月、

称徳天皇の作山陵司(御陵造営長官)になる。

その後、宝亀四年(773年)に再び鋳銭司長官を兼ねている。

鋳銭は硬貨を造る仕事で、当然、金属の熔解や、合金を作る方法、

金属材料の分析と分量、温度の決定、型の作成といった科学技術に精通していなければならない。

阿倍というのは、科学者の家系であったといっていい。

那須の殺生石伝説で有名な、

金毛九尾の狐を退治したとされる

安倍泰成(あべのやすなり)も陰陽(おんみょう)博士であった。

陰陽道とは、

中国の陰陽(いんよう)五行説による術とされてきたが、

この古墳の配列や中国にも見られない遠距離測量、

それにメートル法に一致する尺度等は、すべて中国とは無縁のものである。

また時間的にみて、すでに3世紀末には古墳時代に入っている。

いわゆる陰陽道が盛んになったのは中国では唐代であり、

4、5世紀あとのことである。

遣唐使によって唐の文物が輸入されると同時に、

いわゆる陰陽道が入ってきて、とりいれられたが、

それ以前に日本には別の科学技術

それも古墳時代の驚異の測量技術に象徴されるような大文明が、

少なくとも畿内には実在したのである。

それは一体どこから来たものであったのか?

沖縄・台湾から出発した『五彩圏』は、

後世の平安時代に盛んに信じられた

例の陰陽道(おんみようどう)(『コフン』参照)の、

陰陽五行説の産物のように、一見、みえるかも知れない。

しかし厳密には別物なので、誤解のないようにここで明らかにしておこう。

中国の唐政権は高祖・李淵(リエン)が、隋を乗っ取って建てた国だが、

同じ李姓の老子=李耳(リジ)の子孫だと名乗っていたので、

老子(道徳経)』を至上の聖書として「道教」を信仰していただけでなく、
それを大いに宣伝し、施政の根本方針にしていた。

後の玄宗皇帝の時代になって、三蔵法師がインドへ取経に行って

小説『西遊記』のモデルになったことがあまりにも有名なために、

唐は仏教国だったと誤解されているが、それはただ制限がなかっただけで、

皇帝は熱烈な道教信者であり、

そのために全国的に「神仙」と「陰陽五行」の信者がおり、

それは近隣の国々や、日本のような遠い友好国にも大きく影響した。

当時の日本政権は、唐を宗主国同様に尊敬し、都をそのままにまね、

国家の大本である法制まで唐の律令体制どおりに施行した国だったから、

当然その陰陽五行も重要な政治技術として採用した。

今でいう省庁の一つにあたる陰陽寮(おんみょうりょう)が設置されて、

国家行事の吉凶を判断し、施策を左右する重要な役所の一つになった。

その長官を「陰陽博士」と呼び、安倍氏と賀茂氏とが当てられた。

そのアベ氏がもと俀王家で、それ以前に天文、気象、測量に詳しく、

それを国家経営の基盤にしていたことは『コフン』でもお話ししたとおりである。

陰陽博士とは、今でいえば

気象庁長官と総務庁長官と文化庁長官と厚生大臣とを兼ねたような、

当時としては非常に重要な地位の官僚だったわけである。

その古い知識に新しい技術を加味して、舶来のベールを着せたのが「陰陽道」だったのだ。

だから正確にいえば、むしろアベ(安倍、阿部)氏のほうが「本家」だったともいえるのだが、

『五彩圏』は古いほうの、あの徐福ら「方士」に伝わったシンドゥ教の産物で、

陰陽道のほうが後の輸入品なのだということを、はっきり区別しておいていただきたい。

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