2012年2月19日日曜日

タイナロン:台湾



 《タイナロン:台湾


 ギリシャというのは古い名前だが、

 実はソクラテスがいたころは「エラーダ」という名だった。

 この国名になにか心あたりはないだろうか?

 そうだ。

 ハムムラビが破った敵の本拠が「エラム」だったのである。

 プラトンは、その『国家篇』でエルという人物が戦死してあの世へ行き、

 また生き返った体験をソクラテスに物語らせている。

 エラーダというのはこのエルの土地という意味である。

 このエルは、本来のギリシャ人ではなくアルメニア人といったほうがいいが、

 実は「たとえ話」の主人公なので、「エラ人」といった意味の仮空の人物である。

 「エラム」というのも、この「エラ人の土地」ということである。

 この話でもおわかりのとおり、エラムも、ヤマトも、


 バビロン人の後身であるカリエン人だけでなく、

 ギリシャ人にとってもよく知られた身近かな名であり人々だったのである。

 そしてそれは日本列島の南端にある

 「永良部(エラブ)」という島の名とも共通している。

 それが和人(カリエン)によるものであることはわかっているが、

 その名がまた「選(えら)ぶ」という日本語につながる。

 しかしギリシャ人もホメロス以前に、インド以東にやってきていて、

 東アジアのことをよく知っていたのである。

 それは次の『ホメロス序章』にある
 
 「ピューティア・アポルローン頌歌(しょうか)」の一節でよくわかる。

 「マレアなる岬の沖を過ぎ越し、ラコニヤの沿岸を辿(たど)り辿りて進みしが、

  やがて四面環海の土地、歓喜の日の大神(へリオス)の国・タイナロンにぞつきにけり……」
  (加治木訳)

 マレアは今もマレアで、国名になるとマレーシアになっているが、マレー半島のことである。

 それを過ぎて横たわっている広い沿岸といえば中国しかないが、

 南中国には[六合]という県があり、卑弥呼当時の人々はそれを

 「国・故郷」といった意味で呼んでいた。

 それが「リクウ」という地名として沖縄に分かれ、[琉球]という当て字を生んだ。

 この[六合]は、方言差では「ラコウ」「ラコン」と呼ばれる地名である。

 紀元前8~9世紀を下(くだ)らないホメロス詩篇の中にある地名だから、

 さらにそれよりマレー半島に近いインドシナ半島がそう呼ばれていた可能性もある。

 それは江戸時代初期にタイで「六昆王」になったという伝承を残した山田長政の国もまた

 [六昆=ラコン]でラコニアにより近い。

 外交関係のまるでなかった当時は、背後地にどんなに強大な国があろうと、

 そんなことはわからない。

 寄港したり通商したりする地名がすべてを代表する。

 ラコニアが中国大陸であったことは、まず間違いない。

 ではその南岸の沖にあった[タイナロン]とはどこだったのだろう?

 海南島かも知れないし、台湾かも知れない。

 沖縄であった可能性もある。

 それは「カイナン」にも似ているし、

 「タイワン」にも近いし、「ウティナ」という発音とも合う。

 「タイワン」の語源は、もともとは「タイ」だけで、

 「臺(タイ)」の字を「ウティナ」と読むことから、沖縄と同じ名だったとわかる。

 これに比べると「カイナン」の方は無理がある。

 沖縄語で「ウ」は「オオ=大」のことだから、

 ウティナは漢字で書くと「大臺(ウテイ)」国(ナ)なのである。

 こう次第にしぼってくると、タイナロンは「タイ国(ナ)」のことで、

 語尾の「ロン」は、バビロンなどの語尾と同じく、

 中東語で「国」の意味でつけるものである。

 タイナロン人が、中東から来た人々だったことがこの国名でもわかる。

 臺(タイ)湾の「ワン」は「和人(カリエン)」の国であったことから

 タイ和人(ワニ)の意味で呼ばれた通称に、当て字された可能性も否定できない。

 これにはあとでさらにつけ加えることがあるが、

 こうしたことからタイナロンは台湾だとするのが、

 いちばん妥当である。

 いずれにしても、このあたりまでの情報が、ホメロスの時代に、

 すでにギリシャ人の知識の中に届いていたのである。

 古い時代から、人々の交流があったのだ。

 そのことはベトナムのドンソン発掘の銅鼓の絵が、

 エジプトの葦船(あしぶね)と同じタイプであることや、

 インドネシアからフィリピンまでの帆船が、地中海スタイルの三角帆であることなど、
 
 より古い時代からの人と文化の流れが見てとれる。

 ことに上のホメロスの詩篇の名にあるピューティア(日の神の託宣を告げる巫女)は、

 卑弥呼(天照大神・神功皇后)にも、その資格が見られる。

 バビロン難民がたどりついた台湾の元の固有名詞「タイ」に、国称の「ナ」がつき、

 さらに後からたどりついた人々によって国称「ロン」が追加された形の国名[タイナロン]は、

 カリエンの語り部が話してくれたことが事実だったことを、

 こともあろうに「ホメロス」が太鼓判を押した形で、歴史の真相を私たちに見せてくれた。

 すると、その人々が造った古墳も、その文明の産物であったことがハッキリと見えてくる。

 次はそれを確認させる「証拠」をとり出して、検討していくことにしよう。

 しかしその前に、もうひとつの問題を片づけておこう。

 それはこの「タイ」を、現在のタイ人やタイ国のことではないか?

 とお思いの方もあるかもしれないからである。

 だがタイ国の歴史はよくわかっているので、

 この二つのタイがどんな関係にあるかはスッキリしている。

 タイ人は、ミャンマー経由で現在のタイ国に入ったシャン人の一族である。

 このシャンという名は中国人がつけたもので、

 それに漢字を当てると「商」や「山」なのである。

 タイナロンの人たちと同じ系統の人々であったことが、その名だけでもわかるが、

 それは事実だったことが伝承からでも明らかになっている。

 江南から雲南に広がったカリエン人から、

 タイ族、シャン族、カチン族などに分裂した後、

 彼らはミャンマーの山地から現在の平地におりて幾つかの国を造った。

 それが統一や分裂を繰り返したが、中国ではそれらを総称して「暹羅=シャム」と呼んだ、

 シャン人の国という意味である。

 しかしそのシャムはタイ語では「死」を意味するのでタイ人が喜ぶわけがない。

 彼らは自分ではシャムとは呼ばない。

 古来「タイ」といってきたのである。

 タイとはタイ語で自由のことである。

 タイナロンのタイも、この「自由」であったから、「歓喜の国」と呼ばれたのだ。

 タイ人は祖先がタイナロンから出たことを現代まで記憶していた。

 そしてついに正式の国名として「ムアン(大)・タイ(自由)国」を世界に承認させた。

 それは動乱の1940年前後のことだったから、タイナロンの昔から数えると3000年に近い。

 それはバビロンからの遠く永い道のりのあとに花開き、実を結んだ、幻(まぼろし)でない

 新タイナロンなのである。

 このことはチェンマイ大学で話したことがある。

 話が古墳から横道にそれたが、人間の生き方は環境によって変わる。

 同じ祖先をもつからといって永久に同じ生活をするわけではない。

 どんな環境にも適応したものだけが生き残る。農耕、狩猟、騎馬といった分類は誤解であり

 歴史の真実を曲げる働きしかしない。

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 

 『My ブログ』
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 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
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 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

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