2012年2月13日月曜日

銅鐸は「絵解き読本」



 《銅鐸は「絵解き読本」

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 1985年に青森県弘前市の砂沢遺跡で、弥生前期の水田跡が発掘された。

 弥生水稲が南九州に移植されてから、

 1~2世紀の間に本州北端まで広がったのである。

 これらは弥生中期に卑弥呼と結婚したソナカたち一行の遺物ではない。

 それより5世紀も前の移住跡なのである。

 それは前記の通り、水稲栽培開拓にまつわる難問題を克服できるだけの、

 かなりの人数の人々の大移住があった証拠だが、

 交通至便な現代でも余程のことがなければ移住などしたくはない。

 ましてや歩くか船に乗る以外に乗り物のなかった時代に、

 本州の北の果てまで移住したのは、

 余程の理由があったことになる。一体だれがそこまで行ったのか?。

 しかし当時、水稲の原産地帯にも、中国にも、九州にも大量移住が

 必要な大動乱や大災害などはどこにもなかった。

 そんな地域まで、これほどの長距離大移動を敢行したのは、

 世にも希な目的意識のある人々がいたためとするほかないから、

 それはやはり弥生直前に敢行されたアソカ仏教宣布団の大移動以外にはありえない。

 とすると、マレー語源からフィリピンまで、ソナカと犬と支配者の称号を残した、

 あの卑弥呼の夫の祖先のソナカが、南九州から次第に東北地方まで、

 仏教圏を拡大して行ったのであろうか?。

 またそんな寒地にまで熱帯ヤポニカ種が適応しただろうか?。

 それとも寒地向きの稲も準備していたのであろうか?。

 これにも答える遺物がある。

 それは関東以北に多く残る「ダイタラポッチ」の伝説である。

 彼は肉体の大きな巨人とされるが、必要なのはその名である。

 この名は地域で多少変わるが、
 
 「大太良坊」や「大太法師」と書かれるのをみると、

 「ボッチ」は「法師」または「坊主」であって仏教に関係のある存在である。

 するとソナカとともに東方へ派遺された宣布団の、

 もう一人の指揮者「ウッタラ」の名が浮かんでくる。

 南九州では「大」は「ウ」と発音する。

 「大太良」はぴったり「ウッタラ」に一致する。

 この奇妙な巨人の名は、ウッタラも日本列島へ来ていたことを、

 あらゆる点で教えるが、時代が早く、地域が記録に残りにくい東国だったために、

 僅かに童話的な伝説しか残らなかったとみていい。

 彼はあらかじめ協議の上、

 寒地を担当するために寒地向きの稲を準備していたと考えると、

 熱帯アジアを次第に東遷したソナカらより、

 早期に日本列島まで到達して布教していた。

 それが卑弥呼より前の弥生前~中期に銅鐸などを考案して信仰とともに稲作を

 教えた人々の正体だったのである。

 こうわかると銅鐸に描かれた渦状文は水稲の母=水を意味し、

 蜘蛛やカマキリは害虫を退治する味方で、

 狩猟のように見えるのは稲を食い荒らす害獣の駆除法で、

 籾を臼でついて収穫するまでの「絵解き読本」だとわかる。

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法

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