2012年2月16日木曜日

歌垣(かがい)



 《歌垣(かがい)

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 ウィキペディア百科事典によれば「歌垣(うたがき)とは、日本において、古来よりある時期まで続いた、特定の日時に男女が集まり、集団で和歌をうたう集会のこと。『万葉集』には筑波山に男女が集まり、歌垣を楽しんだ様子が残っている。当時、歌垣は人々の交流の機会としてだけではなく、近代の中国奥地の少数民族に見られるように未婚男女の求婚の場でもあったという見解があるが、定かではない。歌垣は、奈良時代・平安時代に宮廷に入り、踏歌を合流して儀式になった。歌垣の風習は永らく続いたが、明治時代に入ると、廃れた。「耀歌(かがい)」とも言う。
 歌垣と同様の風習は、中国南部からインドシナ半島、フィリピンやインドネシアにも存在する。このことから、古代日本の文化は、東南アジアから中国南部にかけての地域と、一体の文化圏を築いていたという見方もある。」と書かれている。

 ※出典:Wikipedia:歌垣

 鹿児島、宮崎の両県では、

 野外の広場や丘の上の平地に集まって、大宴会を催す習慣があった。

 ところによっては今でも盛んに行なわれていて、

 古代の歌垣の名残りだと考えられている。

 焼酎と肴(さかな)を持ち寄って、あちらこちら移動して分け合い、大いに語り、歌い、

 ゴッタンや太鼓が鳴り、踊り出す人、ナンコ拳(けん)をはじめる人など、

 他地方の花見よりもにぎやかで、日本型バーティー中の白眉(はくび)である。

 料理は鶏の骨つきぶつ切りや季節野菜に芋や高野豆腐などの煮つけ、

 火で乾かした川魚のつくだ煮、

 玉子焼、魚の塩焼き、干(ほし)大根のなますなどが主役であった。

 「タイ山地アカ族の歌垣(かがい)

 グエバ・アカ族の歌垣は風土記や万葉集に登場する日本の歌垣とまったく同じもの。

 ただ衣装は部族ごとに異なる。

 常陸(ひたち)国風土記(ふどき)に倭武命(やまとたけるのみこと)の事跡が多出し

 歌垣(かがい)の記録がある。

 『風土記』や『万葉集』に古代日本の風習として歌垣の行事があった記録が残っている。

 いま西南中国から東南アジア一帯にかけて分布する山地民族の多くは、

 夜かがり火をたいて集まり、

 男女二組に分かれて歌と踊りの掛け合い合戦をやる。

 日本の歌垣もまたこうした行事であったろうと見られている。

 アソカ王の碑文には、山頂に登って音楽、讃歌、舞踏、歌劇などを催す祭の、

 Samajja があったと記録されている。

 これは我が国でも後世、『常陸国風土記』が筑波山などで盛んに行なわれたと記録している

 「歌垣=かがい」などだから、アソカ王系の仏教徒・倭国の風習をもつ人々が、 

 東国に移ったったことを示している。

 筑波は西の峰は「雄神」と呼び登山を禁じて、東の峰だけに登らせたが、

 春秋には東国諸国からの男女が遊び集(つど)うたとある。

 ことに風土記などで有名な嬥歌(かがひ)(歌垣(うたがき)は今も盆踊りなどに姿を変えて

 日本でも伝承されている。

 その古形のままを思わせるラン・サオ・コットと呼ばれる行事を、 

 この人々に見て万葉の昔に遊ぶ想いに打たれたのも事実である。

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

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