2012年2月10日金曜日

弥生時代を開いた「マガダ文化」



 《弥生時代を開いた「マガダ文化」

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 イン・イナ・イネという名は

 3000年前からあった

 日本語だということである。

 それでなければ在来の説のように、

 「稲作文化」が縄文晩期以前は中国だけの文化で、

 朝鮮半島経由の渡来人たちが縄文晩期に

 「初めて」九州北部に移植した文化だとすれば、

 稲は決してイン・イナ・イネと呼ばれるはずがない。

 なぜなら、なにも新しい日本名を無理して付けなくても、

 鉄はテツ、金銀はキンギンと中国語のままで便利に使われている。

 稲も米も中国名のまま「稲=トウ」や

 朝鮮語の「米=サル」と呼べばいい。

 それは現代のラジオ、テレビ、パソコンなどと同じことだからである。

 また動かぬ証拠品として、

 形のある「物体」としての炭化米が、

 縄文時代のかなり早期の遺跡から、

 今も続々と発見され続けていて

 「稲作文化」渡来期の上限を更新し続けている。

 だから「稲作文化」は

 「縄文晩期に、中国から朝鮮半島を経て九州北部から始まった」

 のでないことはいうまでもない。

 そんな説は完全に間違っていて「定説」どころではない。

 では弥生時代を開いた九州の水稲文化はどこから来たのか。

 それはその遺跡が明確な記録を残している。

 南九州では「曲田」姓はマガタと読みマガダへの当て字だから、

 福岡の遺跡「曲り田」は後世の読み替えである。

 我が国の弥生時代はアソカ宣布団が運んで来たのだ。

 では、それと一緒に残っていた大陸系石器などは、中国のものではなかったのか?。

 当時の中国銅器類、矛や鏡が大量に北部九州で出土するのをみれば、

 そうした利器類を売り歩く職業が実在したことは確かであり、

 「矛や鏡が中国製だから、それを副葬している死者は間違いなく中国人だ」

 などとは誰も断定しないし、

 「正倉院の御物にアラビア製のものが多いから天皇家はアラビア人だ」

 ともいわないのは、

 物品は売買という手段などで幾らでも所有者が変わるから、

 それがもつ証拠力には限度があり、それを動かない証拠にするには、

 「物以外の、普遍的な遺物」

 すなわち言語とか地名とか、その他の名とかいった、

 大勢の人々が共用していた無形文化財によって、疑問を一つ一つ解決してから、

 それは間違いなく○○だ。

 と結論するのでなければ、史学にはマイナスになっても、プラスにはならない。

 発掘考古学は史実の復元には補助的な役割しか果たさない宿命をもった、

 限界のある技術なのである。

 だから大陸系だからといっても、

 磨製石器や金属器はアソカ宣布団が買った商品に過ぎなかった可能性もあるし、

 中国の南には「河内(ハノイ)」がある。

 これはよくご存じのベトナムで大陸系石器が出る。

 これもまた中国だけのものと限定できる遺物でもない。

 こうした点でも

 「稲作文化は中国から朝鮮半島経由で来た」はウソなのだ。

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