2012年2月1日水曜日

兕觥



 《兕觥
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 《兕觥が生んだ中国発掘考古学の発祥

 この兕觥が届いた明治末当時の中国には、
 
 いま私たちがいう発掘考古学者はいなかった。

 だからこの兕觥は、意識して発掘して見つかったものではなかった。

 農民が農作業の際に、偶然、掘り当てて、何かはわからないが、

 幾らかになればいいと骨董屋に持ち込んだものに過ぎなかった。

 骨董屋もそれが兕觥どころか、いつの時代の、

 何に使うものかもわからずに、

 ただ古いものらしいという程度で何がしかの小銭で買取り、

 次第に転売されて北京の老舗に買い取られた時には、

 価格が破格に吊り上がっていたというに過ぎない。

 だから祖父に届けられたときも、

 ただ「故銅」という商品名しかついていなかった。

 それが殷のものだということになったのは、 

 この孫文が高価で買って日本の恩人に贈ったという噂が刺激になって、

 宝探しがブームを呼び、

 次第にまとまった出土品が見つかり、

 骨董屋の店頭に並ぶようになったために、
 
 それに刺激された歴史学者の一部が、

 やっと西欧式の発掘考古学を真似はじめて、

 次第に時代区分がつけられるようになり、

 また店頭の出土品が欧米や日本の骨董商に、

 高価に取り引きされるようになったことから、

 模造品が造られはじめ、

 それにも商品名が必要になるといったことで、

 昭和初頭には学者たちの研究も進んで、

 本器の仲間はすべて兕觥という名称で、

 取り扱われるようになって行ったのである。

 この兕觥と呼ばれてきた遺物の仲間は、

 学者たちが北京の南南西にある安陽で、

 昭和3年に殷帝国の都の跡「殷墟」を突き止めたことで一挙に研究が進み、

 「それは司馬遷が『史記』の「殷本紀」に書いている兕觥であろう」

 と見当をつけたことから、

 『兕觥』と呼ぶことになったのだが、

 これが世界の美術館やコレクターの関心を呼び、

 希少性の高さからますます値が吊り上がって、

 今ではゴッホの最高作品2~3点分の価格が相場になっている。

 しかし私が検討してみたところ、

 現在世界にある十数点のうち、

 本当の殷の遺物は数点しかなく、

 あとは周代以後のものであること。

 殷のものは正確には『兕觥』とは呼べず、

 本当の『兕觥』は世界で唯一、

 私が所蔵するものだけであることなどが立証された。
 
 それは何故か?。

 先にお話ししたとおり、紂王は本当は丑年生まれだから、

 彼等の干支信仰の牛の女神『兕』を象どって造らせたものであった。
 
 世界の兕觥を見ると、

 殷のものとわかる古いもの数点は干支にある動物だとわかる姿を表現しているが、

 その他のものは象や麒麟や亀の形に作られている。

 私たちが「『兕觥』ではないものを兕觥と呼ぶのは間違っている」と指摘したので、

 それ以後は象頭兕觥とか羊頭兕觥とか虎頭兕觥などと名を変えたが、

 酒器なのだから「觥=ジョッキに近いもの」と呼ばねばならないのに、

 それでもまだ○○兕觥と呼び続けている。

 それ以上に酷いのは「干支」には象や亀は入っていないから、

 それらは明らかに殷の皇帝のものではない。

 異なった文化、宗教の持ち主が自己流に作らせたものだと簡単にわかる。

 仮にラジオカーボンを使って殷代の数字が出たとしても、

 それは皇帝たちの器ではなくて、

 干支重視とは異なった他の信仰の持ち主が、

 皇帝のものを真似て作らせた別の性格のものであることは明らかである。

 これでおわかりの通り、

 私の一個の所蔵物でも、

 実に多くの歴史を物語る。

 それは製作時代の歴史だけでなく、

 現代の歴史も語るし、

 事件の立証もするのである。

 ところがこうしたことさえ理解できない人物が、

 ただ土器の推定年代だけを証拠だとして、

 奈良に邪馬台国があったと主張し、

 また器物を鑑定する旧式の頭の持ち主が、

 ○○大学教授とか、老舗の鑑定師といった肩書きで、

 ちょっとした知識を看板に「鑑定」を行ない、

 どこそこの形式が当時のものだから「本物だ」という『お墨付き』なる鑑定書を出す。

 これもまた、古墳から出た土器の推定年代が○○だから、

 古墳の築造年代は○世紀前半だというのと全く変わらない。

 手製の旧石器をひそかに埋めておいて大発見をしたとマスコミを騙し、

 我が国の人類史を大混乱させて、

 世界の笑い者にした犯罪者と大差ない。

 国辱を生む極悪犯罪なのである。

 

 『兕觥』はどんなに歴史を保存しているか?

 奈良県のある古墳で土器が発掘された。

 土器は明らかに3世紀半ばのものだと確認できた。

 奈良の古墳は卑弥呼時代から実在していた。

 邪馬台国が奈良にあった証拠だ。

 という説を以前、ご紹介したことがある。

 古墳からは鏡が出土する。

 その鏡は大半が中国製である。

 それには前漢時代のものが多い。

 前漢は紀元前の国だから、

 その古墳は紀元前に造られたのだろうか?。

 鏡はいくらでも伝世するから造って直ぐ副葬されたとは限らない。

 鏡の場合は伝世すると誰もが知っているから、

 その製造年代は古墳の築造年代とは何の関係もないと、割り切っている。

 古墳から出土した土器も同じことで、割れ物の土器は伝世しないとは限らない。

 茶の好きな人は利休の愛した茶碗を大切にしていた。

 その人の遺品がその茶碗一つでも、それでその遺骨の主が、

 利休時代の人だということにはならない。

 土器も、たとえ古墳が紀元前の土器で埋まっていても、

 それはそこに住んでいた先住民が残したものが混入しただけだと判定できる。

 それは他の古墳群がすべて古墳時代以後のものだと判っているからである。

 この程度のことが判断できずに、出土土器の年代だけで、

 それが古墳の築造年代だと即断して発表した発掘者は、

 素人なみの頭しかないというはかない。

 私は中国の古代王朝、殷の最後の皇帝・紂(チユウ)王が美女・妲妃(ダッキ)と

 酒池肉林の遊楽にふけった時、

 使ったと司馬遷が『史記』の「殷本紀」に書いている

 青銅製のジョッキ『兕觥』を秘蔵している。

 だから私は3000年以上前の故人だということには絶対にならない。

 この常識的なことがわからないのは、余りにも不勉強で非科学的すぎる。

 『兕觥』は、まず紂王の時代の銅器製作技術を物語り、

 その形態や文様で当時の信仰や呪術とその表現法を教え、

 付着物や保存状態で出土地とその環境条件がわかり、

 副葬していた墳墓の構造と技術によって、

 当時の人の未来に対する予測力と、

 保存法を考案した対応能力とがわかる。

 またそのサイズによって、

 それを酒器として使った紂王の経済状態が読みとれ、

 その兕という独特の空想動物の所属が牛の一種とされたことと、

 紂の字の発音が「チュウ」であることから、

 それは「丑(チュウ)」であって、

 紂王の干支を表わしているのだとわかる。

 すると「紂=糸の切れっ端」というような名を、

 当時の超大国の皇帝が自ら名乗るはずがないこと、

 その字は彼を倒した周の人間が、

 わざわざ選んでつけた蔑称だったことがわかる。

 まだ挙げればキリがないくらい?は「歴史を記録している」。

 それは単なる1個の骨董品ではない。

 だから私たちは、それが語る能力を徹底的に引き出さねばならないのである。

 それだけでなく私の兕觥は、それを何故?

 私がもっているのか?という疑問、

 それは殷の歴史ではなく「新しい歴史」の疑問をもっている。

 いまそれをお話しをすると、

 確かにそれは「複合した歴史の証人」であることが、

 より一層、深くおわかり戴けると思う。

 それは明治の末年に、

 中国の清朝を倒して国民を圧政から開放し、

 民主中国を誕生させた孫文(逸仙)が、

 明治44年に大総統になるや、

 当時中国の骨董商間で最高の貴品とされていたものを自ら選んで、

 わざわざ特使を派遣して、

 私(加治木義博)の祖父に、

 革命援助のお礼として届けてきたものである。

 近代史から見れば、このほうが重要であって、

 兕觥は自身のもつ歴史とは無関係に、中国革命の実体を語り、

 また、ただ単に高価だから選ばれたということが重要な意味をもつ、

 奇妙な歴史的位置も占める。

 この場合は価格が破格の高価だったということだけが問題で、

 その名称も種類も工芸価値も歴史価値も全く問題ではない。

 これでお解りのように、史料の価値というものは、

 それを見る立場、目的、時代、用途によって、どんどん変わる。

 このことを考えずに一面だけを見て評価するのは誤りだと、

 すぐおわかりになったと思う。

 それをさらに印象的にする全く別の視点の例を、

 この機会にもう一つ挙げて、

 より深くものごとを観ることの必要牲を、

 強く訴えることにしたい。

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