2012年2月6日月曜日

紫衣(しい):高貴の式服



 《紫衣(しい):高貴の式服

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 ウィキペディア百科事典によれば

 「紫衣とは、紫色の法衣や袈裟(けさ)をいい、

  古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。

  僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった。」

 と書かれている。

 出典:Wikipedia:紫衣
     
 史実の証拠は、しかし言語だけであり、

 それもまた移住先の言葉に抹殺されてしまうから、その量は当然、激減している。

 他には証拠はないのであろうか?。

 フェニキヤ人たちが扱っていた商品の中に、

 彼等から以外、

 絶対に入手できなかった特珠な染料の一種がある。

 なぜ?他では手に入らないのか?、

 それは地中海岸の属国・ツロ特産だった、

 ツロツブリという巻貝の一種がごく微量内臓する柴紅色の色素で染めた織物が、

 その色彩の良さはもちろん、

 その希少性から宝石のように珍重されて王侯の衣服の必需品になり、

 彼等はその採集と製法を極秘にして巨利を得ていたからで、

 海の富は貝貨だけではなかったのである。

 そんな紫の衣服など、少数の富める国の王侯が、限られた人々にだけしか見せず、

 それらの国以外には無いはずなのに、それが我が国には古代から実在して、

 「紫衣(しい)」と呼ばれて高貴の式服とされてきた。

 それらの紫衣はツロ紫染めだったとは限らないが、

 「紫衣」の名に恥じない色合いはもっていたのである。

 この事実は、

 フェニキヤ人が我が国まで来なければ絶対にあり得ないことが理解できる知性人には、

 これを否定して彼等の影響を疑う論拠は、消滅して残らなくなってしまう。

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