2012年1月29日日曜日
桶と樽
《桶と樽》
桶と樽
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ひねもす徒然なるままに
「桶と樽の重要性」
日本にある大抵のものは、
すべて海外で簡単に見つかる、
というような気持ちになってしまうと思う。
だから甘粛省甘南地区卓尼(チョニ)県の
写真:少女(天秤棒水桶)の写真にも、
それほど驚かれなかったのではあるまいか。
「桶」や「樽」というのは、
近年のプラスチックや金属全盛時代にはいって、
だいぶ姿が少なくなったが、
それでも珍しいというほどではない。
だれでもが知っている木製器具である。
そのルーツは?と問えば、
たいていの人が「中国」と答える。
それはどちらも漢字名だからである。
しかし、
実は中国には唐代になるまで
「桶」も「樽」もなかったのである。
それはむしろヨーロッパ文明だといっていい。
ヨーロッパにワインの樽が転がっている時、
中国人はそんな器具があることさえ知らなかった。
では桶という文字は後世になってから作られたのかというとそうではない。
有名な『史記』に「斗桶権衡」という言葉が出てくる。
だからあるにはあったが、意味がちがっていたのである。
斗も桶も桝のことで日本の「オケ」に当たるものではない。
樽の方も中国では銅または陶器で作った
「尊」という大コップがあっただけで、
たとえば日本の酒樽に当たるものは、
すべて焼き物の甕か壷であった。
しかし、日本では焼物の方が大変な貴重品で、
農業用の肥桶や家庭の水桶は、
ごく一般的なものであった。
それは中国以外の土地から農業と共にやって来たのである。
「誤解を生む大国名」
中国に桶がなかったというと、
それではチョニにもなかった、
ということになってしまう。
チョニは中国の甘粛省の町の一つだからである。
だがこれは正確ではない。
チョニは古代は中国に属していなかったのである。
こうしたことはインドについてもいえるし、
タイやラオスでも同じである。
国というのは大きくなったり、
小さくなったり、生まれたり消えたりする。
元の時代の中国はヨーロッパの一部までとどいていたのであり、
今の北部タイは近世までは別のラオス人の国であった。
そして、太平洋戦争前と後で、
世界地図がどんなに変わったかは常識である。
それまでフランス領インドシナといっていた地域が
ベトナム、ラオス、カンボジアになり、
オランダ領インドシナといっていた地域が、
インドネシアとして独立したのである。
いうまでもなく広大な地域をさす中国とかインドとかいう名で、
ルーツを示すのは誤解のもとである。
インドには840におよぶ方言があるといわれる。
その中には
色の白いアーリア系から、
黒いドラビダ系、
黄色のモンゴロイド系、
小人のアンダマン黒人などまで含まれているし、
中国にも漢民族以外に
満州系や
蒙古系、
イラン系といった大族があり、
多数の少数民族を含んでいる。
それがまた間断なく移動している。
だから漠然とした表現の北方人とか南方人とかはもちろん、
インド人、中国人といった表現も正しい答えをくるわせる。
学問上はもっと精密な表現が必要である。
"チョニは中国の甘粛省
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『桶』
『樽』
『斗』
『桝』
『尊』青銅器
『甕』
『壺』
『天秤棒』
『ワイン』
『史記』
『甘粛省甘南(Gannan)地区卓尼県(Zhuoni)』チョネ県
『甘南チベット族自治州』
『甘粛省・甘南チベット族自治州ランムー寺の晒仏祭』
『チベット』
『ラマ教』チベット仏教
『アーリア人』
『ドラヴィダ人』ドラビダ人
『モンゴロイド』
『アンダマン諸島』
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