2012年1月27日金曜日

四神と五彩圏・5



 《四神と五彩圏

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 『こうして「天皇」が生まれた』

 陰陽寮の仕事は、

 建築や行事の方位の吉凶。

 行軍、旅行の方角と吉凶。

 季節と暦の管理。

 風水害の予知、予防。

 病気の予防と治療。

 基地の吉凶など、

 広範なものだが、

 最後のものを「風水」と呼ぶのは結局、

 墓地が人家の風上にあっては臭気でたまらないし、

 洪水で流されても困るというので、

 風向きや水路を判定するところからきた名にすぎないが、

 こうした心くばりがあの諸葛孔明の知謀のもとだったし、

 ハイテク機器としての鏡の利用も改良も、

 同じ科学精神の産物だったのである。

 孔明は蜀の人だったが、

 そこは今の成都を中心にした地域で、

 日本人そっくりの人々が大量にいる地域

 (『コフン』参照)である。

 諸葛という二字姓も中国人よりは

 日本人に近いことに注目すべきであろう。

 それよりも重要なのは、

 道教の護符が「鏡・剣・玉」だということである。

 玉は曲玉ではなく宝珠だが、

 曲玉は道教の「太極図」そのものである。

 まだ仮定だが「徐福が日本に来ていた」とするなら、

 縄文後期の石製曲玉は彼らの太極信仰の遺物だった可能性がある。

 そして道教は日月のほかに星を崇める。

 北極星を太上老君と呼んで天上最高の神としているのもそれだから、

 日の天照大神、

 月の月読みのミコトしかない日本は無関係と考える方もあると思うが、

 高松塚古墳の天井には二十八宿の星座がきちんと描かれていた。

 そんな知識は古代の方士、

 唐代の道士、

 平安時代の陰陽博士しか知らないことで、

 壁画を描いた当時の絵描きが知っていた知識ではない。

 そして古代の道教では同じ北極星を「天皇大帝」と呼んでいたのだ。

 「天皇」が中国語であるということはいうまでもないが、

 中国では皇帝という呼び名しか使わない。

 あるのは唯一のこの「天皇大帝」だけなのである。

 これも日本で、

 わざわざ「天皇」という称号を採用したのがなぜだったかを、

 はっきり物語っている。

 それは「三角縁神獣鏡」とも

 『五彩圏』とも、切っても 切れないインド~アーリア系の

 「シンドゥ=古形道教」の大王だったからである。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『四神』

 『天皇』

 『陰陽道』

 『陰陽道』

 『風水』

 『諸葛孔明』諸葛亮

 『蜀』

 『成都』

 『道教』

 『曲玉』

 『宝珠』

 『太極図』

 『徐福』

 『北極星』

 『太上老君』

 『天照大神』

 『ツクヨミ』

 『高松塚古墳』

 『二十八宿』

 『天皇大帝』

 『天皇』

 『皇帝』

 『三角縁神獣鏡』

 『シンドゥ=古形道教』ヒンドゥー教=『道教』


 西域の「イリ」は沖縄語の国名

 インド~アーリア系だというのは、

 それが狭い小範囲のものではなかったからである。

 『ヒミコ』とこの本で、

 彼女と壹與が金髪だったことをお話ししたが、

 その人々が大集団を作っていた地域は今も祁連(きりん)と

 呼ばれている山脈の北、

 楼蘭の西、新疆自治区に当たる地域から、

 旧ソ連のキルギス共和国の一部で、

 いわゆる西域の最西端である。

 そこに漢代に「伊列・伊黎(イリ)」と書かれた国があった。

 これは西を「イリ」と発音する沖縄語と完全に一致する。
 
 その東にあったのが

 ヒミコの遠い故郷だったと話した「烏孫(ウーソン)」である。

 「鳥(ウー)」も本土五の「オオ=青」で東だ。

 その南には「大月氏国」があるが、

 これは「大月(ウカツ)」で「大和津=赤」に合う。

 その烏孫の真ん中が、

 『コフン』でサムライそっくりの人々の青銅像をご覧にいれた、

 あの「滇=テン国」だったのだ。

 ギリシャ人を意味するキリン山脈やキルギス国は「黄」でもある。

 洒落じゃないか「キリ」がないくらい大量の証拠が見つかる。

 この本は学術書ではないので、

 発見したことの中から適当なものだけを選んでお話ししている。
 
 あげた証拠は発見量の1パーセントにも満たないが、

 それでも十分、ご理解いただけたと思っている。

 それはどんなに角度を変えて検討してみても、

 すべての答えが一致して、
 
 結論が全部一つに結びつき、

 決して変わらないからである。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『四神』

 『アーリア人』

 『祁連山脈』

 『楼蘭』

 『新疆ウイグル自治区』

 『キルギス』

 『イリ川』伊列・伊黎(イリ)
h 『イリ地方』伊列・伊黎(イリ)

 『月氏』

 『テン (中国史)』


 『大化改新が発生した本当の環境』

 これで「大化改新」のあった

 「倭国」とはどんな国だったかが明瞭にわかった。

 従来まったく外国だと信じこまされていた朝鮮半島の国々も、

 みな統一

 「五彩圏」連邦内の地方自治体のようなものだったのであり、

 倭国とは「東の都」といった意味だったのである。

 また過去の三角縁神獣鏡説が支援した

 「邪馬台・畿内説」とは、

 神武天皇以後の歴代天皇が

 紀元前後から奈良に中央政権をもっていたという説で、

 「北方騎馬民族説」とは、

 その神武系天皇家が、

 北方から侵入してきた外国軍によって征服されて滅亡し、

 国民は今に至るまでその

 「外国人征服者の子孫である別の天皇家」に

 支配されているのだという説である。

 だが「五彩圏の発見」によって、

 それはどちらも間違った空想に

 過ぎなかったことが完全に立証された。

 鏡は畿内に中央政権があった証拠ではなく、

 政変や古墳の変化も五彩圏を構成した

 人々の間の内政問題で、

 外国による侵略や滅亡の証拠ではなかったのである。

 だがこれと対照的に

 「大化改新」は過去の説のような

 「倭国内だけの有力者排除」ではない。

 規模も意味も実態もすべてがまれにみる大変動だったのである。

 神武以来、奈良に朝廷があったという、

 ありもしない錯覚のままの、

 在来の大化改新観のままでは、

 日本の歴史は野蛮な明治の教科書から少しも進歩しない。

 次巻の、その意外な「真相」にご期待いただきたい。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『四神』

 『大化の改新』

 『三角縁神獣鏡』

 『邪馬台国』

 『騎馬民族征服王朝説』

 
 『倭人(ウワイト)ワジン関連年表』
 
 紀元前(BCE)

 (※BCE=共通紀元以前。

 「BC=キリスト以前」は学術上は不適当) 

 18世紀 バビロニア第一王朝滅びる。
      カリエン人(和人)の大移住始まる。

 1523 中国に殷人の商帝国興る。
      その繁栄は宝貝貨幣によって支えられていた。

 10世紀 中国。殷・商帝国滅亡。周帝国に変わる。
      伝説では老子はこのころの人とされる。

  770 東周建国する。

 7世紀後半北インドに第1次マガダ国ほか16大王国生まれる。

  660 『日本書紀』はこの年を神武天皇の即位年とするが、
      それはこのマガダ国の誕生と
      重なるから、なんらかの記録があったものと考えられる。

  440 マガダ国、ガンジス河流域統一。

  322 チャンドラグプタ、新・マガダ国建国(マウルヤ王朝)。

  268 マガダ国アショカ王即位。

  244 アショカ王による仏典結集。
      東西南北へ仏教宣布団を派遣。
      東はソナカ宣布団が
      開拓して、ミャンマーから、
      後にインド・シナ半島、インドネシア各島に及び、
      台湾から沖縄、そして九州に達した。
      このころ日本列島に水稲、弥生土器が作られ始め、
      本州西部に銅鐸文化が広がる。
      インド以北はミジマ宣布団が開拓する。


  221 秦の始皇帝、中国を統一、即位。

  219 徐福、ホーライ島へ出発。
      このころ台湾がホーライと呼ばれている。

  210 徐福、またホーライへ出発。
      秦の始皇帝、死ぬ。

  160 地中海人種の月氏(ユェチ)、
      シヤケ族の国土を占領、シヤケ族の移動始まる。

  150 シヤケ人、インド北部、ネパールへ侵入。

  145 司馬遷(シマセン)生まれる。

  140 地中海人種の烏孫(ウーソン)」人、
      月氏の国土を占領、月氏の移動始まる。
      漢の武帝即位。

  121 漢の武帝、金人を手に入れて大神とする。

   86 司馬遷死ぬ。

   70 月氏、烏孫の敦煌周辺を占領、仏教圏生まれる。
      烏孫の移動始まる。
      烏孫人の一部は長江を下って、旧[呉]地域などに移住。

   53 烏孫国大乱。

   40 この年までに高句麗建国。


 紀元後(CE)(※CE=共通紀元)

   26 後漢の建武二年。委奴(いな)国、
      後漢・光武帝に朝賀し印綬を受ける。

   45 後漢の伏波将軍・馬援(マエン)、
      烏丸(ウカン)を攻めて敗走。

   49 烏丸の81君長ら漢に帰化、周辺守備につく。

   57 後漢の建武中元二年、委奴国、後漢・孝明帝・荘に朝賀。

  109 後漢の永初三年。
      烏丸、鮮卑と漢を攻めて敗け、親漢都尉にされる。

  168 後漢の孝桓帝死に、孝霊帝即位。
      このころ初代卑弥呼、連邦女王に共立される。
      これが『記・紀』の神功皇后の初期の記事に一致し、
      葛城襲津彦も登場する。
      このころが佐賀県基肄(きい)地方が
      黄色の国で伊都(いつ)国が都だった時代。
      弥生時代後期。南鮮に馬韓・辰韓・弁辰の古三韓あり。
      三国とも日本語名の小国で構成。

  234 諸葛孔明、死ぬ。

  237 魏の景初元年、烏丸の冠婁敦(カフロウドン)、魏の幽州刺史、
      毌丘倹(カンキュウケン)に降伏。

  238 呉の赤烏元年。
      (赤烏の年号が入った三角縁神獣鏡が出土している)

  239 魏の景初三年、倭人連邦女王・卑弥呼、
      魏の帯方郡に使者・難升米らを派遣。
      この年号が入った三角縁神獣鏡
      (大阪府和泉市の黄金山古墳から出土)がある。

  240 魏の正始元年、帯方郡使・建中校尉・梯儁、
      卑弥呼に合い、鏡などを届ける。


  244 魏の正始五年、魏の幽州刺史・毌丘倹は高句麗を攻め、
      首都の[丸都]陥落。
      高句麗山上王位宮は北鮮より敗走、行方不明になる。
      このころ粛真(シュクシン)国がある。
      新羅始祖・赫居世
      (邪馬壹国女王[壹與]と諸条件が一致)、沖縄で即位。

  247 魏の正始八年、狗奴国男王・卑称弓呼素、邪馬臺を攻撃。
      老卑弥呼死ぬ。
      これが神武天皇の東征記事の一部になる。

  247 壹與(次の卑弥呼・日葉酢媛)を立てて内乱治まる。
      邪馬臺政権消え、
      邪馬壹国誕生。
      筆頭官「伊支馬」は山上王位宮で
      『記・紀』の神武天皇と垂仁天皇に一致。
      鹿児島県川辺郡(灌奴部(かんなべ))の知覧に
      古代新羅「鶏林(ちりん)」が都する。
      その後、福岡が白日別(しらひわけ)と呼ばれ、
      『三国史記』[新羅本紀]の
      「斯盧(しろ)」時代に一致する。

  304 前趙・成漢、建国。
      これより439年までを五胡十六国時代という。

  366 敦煌(トンコウ)の莫高窟(モコウク)を作り始める。

  407 大夏、建国。

  413 東晋・義熊(ギギ)九年。倭王・賛あり。

  438 倭王・讃死に弟・珎立つ。

  443 倭王・済、宋に遣使。

  449 柔然(ジュジン)、北魏と戦い大敗して大移動する。

  451 倭王・興、宋に遣使。

  452 蠕蠕王・吐賀真、北魏に敗れて逃亡する。

  465 和平五年。蠕蠕王・吐賀真死ぬ。

  465 ?倭王・興死に、弟・武立つ。

  478 倭王・武、宋に遣使、上表する。

  502 梁の高祖即位し、倭王・武を征東将軍にする。

  520 蠕蠕の醜奴(シュウド)可干、母に殺される。
      6世紀の中ごろ、柔然(蠕蠕)の
      アヴアール族、ドイツ北部を支配する。

  581 隋、建国。

  608 隋・大業三年、隋の文林郎・斐清、俀国へくる。
      日本の推古一六年。

  628 隋滅び、唐建国。

  645 三蔵法師、インドから唐へ帰国。

  645 大化改新。

  660 阿倍比羅夫、粛真を討つ。
      唐と新羅の連合軍、百済を攻める。

  663 白村江の敗戦で百済滅ぶ。

  670 倭国、国号を「日本国」に変える。

  672 壬申の乱。弘文天皇殺され、天武天皇即位。

  681 浄御原令(きょみはらりょう)=律令制定。
      このとき陰陽寮を設置したとされる。


  764 淡海三船、天皇の漢風諡号を作る。

  950 このころから陰陽博士をおき、
      安倍と賀茂の二家をこれに当てる。

 1271 中国・元、建国。

 1368 中国・元滅び、明、建国。

 1441 島津忠国、琉球を所領に加えられるが統治せず放置しておく。

 1500 琉球・八重山の英雄ウヤキ・アカハチ、
      琉球王朝に反抗して死ぬ。

 1609 島津氏、徳川家康が対明貿易の拠点にするため、
      督促されて琉球統治開始。

 1616 女真のヌルハチ、中国・満州地区に金(後金)国を建国。

 1636 後金国、清シン(チン)と改名する。

 1661 中国・明、清に滅ぼされて、清朝始まる。


 
 『我が国の四神とは全然ちがう古代中国の方角意識』

 戦前は元旦に「四方拝」を行なう習慣が普及していたが、

 その四方の神の正体は、

 <青竜>・<白虎>・<朱雀>・<玄武>という「四神」である。

 在来の学者は、

 その「四神は中国の文化を輸入したものだ」と、

 さも権威ありげに教えてきた。

 だが中国には我が国の<神道>はない。

 近いものは<神仙>を崇拝した<道教>だけだ。

 その道教の「四神」も隋唐以後になると我が国のものと同じになるが、

 それ以前の方角思想は、我が国のものとは根本的に違っていた。

 その証拠は、
 
 漢の建国史で最も有名な一場面である<項羽>と<劉邦>の

 「鴻門の会」に出てくる。

 常勝将軍の<項羽>はづかづかと席に入ってくるなり、

 西の椅子にどっかと座る。

 <劉邦>は南の席に案内された。

 これは何を意味したか?。

 西の席は東に向き日の出の方角を見る最も縁起の良い最高の席である。

 これは南面する北の席も同じく明るい太陽に対面する意味があったので、

 天皇は南面し、

 最下位の武臣は北面して座るので

 『北面の武士』という特殊な呼び名も生まれたが、

 これは後世の我が国でのこと、

 中国では西が最高の地位を意味していたのだ。

 だから<劉邦>は臣下の座る席に座らされた。

 それも暗く寒々とした北を正面に見る最低の席、だったのである。

 この極端な差別が<項羽>の四面楚歌=悲惨な最期を招いた。

 古代の中国人はこんなに「方角に強い差別意識をもっていた」。

 これが中国本来の<方位信仰>なのである。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『四神』

 『四方拝』

 『青竜』

 『白虎』

 『朱雀』

 『玄武』

 『神道』

 『神仙』仙人

 『道教』

 『鴻門の会』

 『北面の武士』

 『四面楚歌』

 『方位神』


 『隋代には中国にも入っていた我が国の四神』

 これに対して我が国の<四神>は、東西南北にはどの方向も、

 特に尊いとか下座(しもざ)だという差別はない。

 最も尊いのは、中心の「黄」の位置だけなのである。

 ところが中国にも、

 隋代になると東西南北に

 <青竜>・<白虎>・<朱雀>・<玄武>を配置した鏡がある。

 唐代に書かれた小説の『古鏡記』に、

 はっきりと

 「中央の紐(ちゅう=摘(つま)み)には

  麒麟(キリン)が、

  その四方には亀・竜・鳳(おおとり)・虎が

  鋳出されている」と書いてある。

 これで初めて五彩圏の中央の「キ」に、

 「キリン」の「麒」が当てられたことがわかるのである。

 隋唐の支配者たちは中国の先住民ではない。

 <高句麗>という国名とカリエン人の<貝貨交易>と、

 <倭迹迹日百襲姫>と書かれた

 <卑弥呼>たちの「孝霊天皇系譜」で明らかなように、

 朝鮮半島北端の<高句麗>地方は、

 3000年前から沖縄系の人々の居住地だったが、

 それから分かれた「鮮卑」と呼ばれた人々が、

 今の中国東北区から中国に入って、

 <五胡十六国>時代に中国を征服して、

 隋唐時代をっくったのである。

 それは7世紀の初頭以後だから、

 <卑弥呼>時代からははるかに後世である。

 その<卑弥呼>時代以前の中国鏡には、

 <四神>を描いたものなど1面もない。

 さらに考えると

 <項羽>と<劉邦>の<方角思想>は

 「上下階級思想」で、

 敵対支配関係なのに対して、

 我が国の「四方拝」は、

 順序はあるが四方を平等に尊崇する和(なご)やかなものである。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『四神』

 『隋』

 『唐』

 『中国文学・唐代』古鏡記

 『麒麟(キリン)』
 『青竜』
 『竜』

 『白虎』
 『虎』

 『朱雀』
 『鳳』

 『玄武』
 『亀』

 『高句麗』カリエン
 『倭迹迹日百襲媛命』

 『卑弥呼』
 『孝霊天皇』

 『鮮卑』

 『五胡十六国時代』

 『鴻門の会』

 『項羽と劉邦』

 『四方拝』

 『方位神』



 『四神思想は絶対に中国のものではない』

 うっかりしていると、我が国の<四神>の<中央の黄>は、

 <麒麟>の<麒>が語源のように見えるのだが、

 それは何でもかでも古代文化は中国から入ったという、

 根本的に誤った先入観しか、もっていないからで、

 も少し精密に世界史を読みさえすれば、

 我が国の建国以前の世界の先進国は、

 北の中国ではなく、エジプトからバビロンまで、

 すべて西に集中していることがわかる。

 ギリシャとインドは紀元前4世紀には、

 <アレクサンドロス>の東征で一体といっていいほど固く結びついていたし、

 <釈迦>はそれ以前に人類最高の哲学を生んたが、
 
 その母体は西に海をへだてただけの

 <シュメル>(現在のイラク)大文明があったことは、

 その須弥山(シュミせん)(シュメルを象欲したもの)崇拝でよくわかるし、

 インドと中東・西欧は大規模な往来と混血を繰り返していた。

 その証拠に<インド-アーリヤ語>は、

 遠く北欧の隅々にまで行き渡っている。

 また<五彩圏>の<中央の黄>は、<黄泉の黄>でもあったことは、

 <ペルセポネ>の<黄泉戸喫>(よもつへぐい)の説話で、

 古代ギリシャの法律であり、

 その執行者=王を意味する<キ>でもあることがわかるとお話しした。

 この<五彩圏>の色の名の<キ>も、

 <王>を意味する<キ>(君のキ)も、

 ともに日本語なのだから、

 中国語の<麒麟>の<麒>ではない。

 また周囲に配置された<四神>の色名も、

 全て日本語で読んでこそ意味が通じるが、

 中国語の発音では何の意味もなく、

 見つけることもできない。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『四神』

 『麒麟(キリン)』

 『エジプト』

 『バビロン』

 『ギリシャ』

 『インド』
 『アレクサンドロス』

 『釈迦』

 『シュメル』シュメール

 『インド・ヨーロッパ語族』

 『黄泉』

 『ペルセポネー』ペルセポネ

 『須弥山』


 『日本国の色名はデウカリオンの一族から』

 しかしその色名の発音が、ギリシャ語となら共通であること、

 また四方に色の名をつける習慣も、

 共にギリシャ文化の特徴だったことも御存知である。

 それは古代ギリシャの遺跡に今も使われている。

 <アルバニヤ>という国名は、

 <アルビノ>というラテン語で「白の国」だとすぐわかる。

 その首都名の<チラナ>も、

 鹿児島の<開聞>(シラキッ)と<知覧>とに一致する。

 その<白>が<シラキウス>時代には、

 <黒>は<クロアチヤ>、

 <赤>は<アカイヤ>、

 <青>は<アイオリヤ>だった。

 この<シラ>、<クロ>、<アカ>、<アイ>の発音が、

 日本語と共通であることは小学生でもわかる。

 語源は、

 <黒>は<クロノス>、

 <白>はシレノスだったが、

 残りの日本語の色名は、

 ギリシャ神話の大洪水の主役・

 <デウカリオン>の子孫の名から出ている。

 <デウカリオン>は<ピュラー>と結婚して、

 ギリシャを<ヘレニヤ>と呼ばせた絶世の美女、

 あのトロイの<ヘレン>を生んだ。

 彼女は<オルセイス>と結婚して

 <ドロス>と<クストス>と<アイオロス>を生み、

 <ドロス>は自分の国民を<ドリス>と呼んだ。

 <四神>とは無関係だが、

 これが<ミドリ>(緑)の語源になった。

 <クストス>は<クレウサ>と

 結婚して<アカイオス>と<イオン>を生んだ。

 <アカイオス>は<アカイヤ>(赤)を、

 <イオン>は<イオニヤ>を治めた。

 この<イオニヤ>がパーリ語で<ヨーナ>に訛ったから、

 沖縄では<与那国>になってしまった。

 <アイオロス>は<テッサリア>を治めたので、

 国名を改めて<アイオリス>(藍)と呼んだ。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『四神』

 『ギリシア神話』

 『デウカリオーン』デウカリオン

 『アルバニア』アルバニヤ

 『アルビノ』

 『知覧町』

 『クロアチア』クロアチヤ

 『アカイア人』

 『アイオリス』アイオリヤ

 『クロノス』

 『シーレーノス』シレノス

 『イリオス』トロイ

 『ドロス』

 『アイオロス』

 『ドリス』

 『クレウーサ』クレウサ

 『ヘレーン』ヘレン

 『テッサリア』

 『アイオロス』

 『藍』

 『与那国島』

 『パーリ語』


 橙色も「色」という言葉もギリシャから

 ついでに日本語の<橙色>(ダイダイいろ)

 という変わった色の名は、

 どこからきたかもお話ししておこう。

 これは<斧>や<車>や<帆>を

 発明したギリシャ筆頭の大技術家<ダイダロス>が、

 ミノス大王の王妃・<パシバェ>のために作った

 牝牛(めうし)像からきている。

 この牝牛は輝く<橙色の眼>をもっていた。

 だから、その眼にそっくりな<柑橘>を

 <ダイダロスの眼>(メ⇒ミ)⇒実と呼び、

 それが南九州で<デデ>と縮まって変わったものが、

 本土語で<ダイダイ>になったものなのである。

 さらに、ついでにお話しすると、

 可愛い<キューピー>は英語、ラテン語の<クピド>、

 ギリシャ語の<エロス>だが、

 彼は恋の仲立ちをする「色ごと師」である。

 恋愛や恋人を我が国で「色(いろ)」と呼ぶのは、

 この<エロス>が大隅で

 「イロ」と発音が変わったからで、

 それは色情を離れて、

 すべての色の日本語発音

 「イロ」としても使われることになったのである。

 だから<イロ>というものへの認識と、

 その色の名は、ギリシャ人が日本にやってこなければ、

 生まれるはずのない言語だったことがわかる。

 これで日本の色名が

 ギリシャ生まれだということは疑う余地がなく、

 それがいつ、どう使われたか、経過まで明確になった。

 だから四神は

 中国ではなくギリシャ生まれの日本育ちで、

 中国へは逆に日本から、

 <鮮卑人>=<隋唐人>が

 <五胡十六国時代>にもって行ったのだと、

 細部まで詳細におわかり戴けたと思う。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『四神』

 『ギリシア神話』

 『橙色』

 『柑橘』

 『ダイダロス』
 『斧』
 『車』
 『帆』

 『ミノス』ミーノース

 『キューピー』『』

 『ラテン語』

 『エロース』エロス

 『鮮卑』

 『隋』
 『唐』

 『五胡十六国時代』


 『チナ・キノに合うギリシャ地名・テノス』

 だが、まだ完全に解決したわけではない。

 それは最も重要な位置を占めている

 <中央の黄>がギリシャにないことだ。

 そこで見つかったのは<橙色>であって<黄>ではない。

 あらゆる可能性を考えて出た結論は、

 この答は沖縄語が<キ>を<チ>と

 発音すること以外にないということである。

 そこで「沖縄」と新井白石が当て字した

 国名の<ウチナー>を考えてみると、

 <ウ>は<大>という美称として省くと、

 <チナ>が本来の国名として後に残る。

 これは<チヌ>・<チン>・<ツナ>・<キノ>と変化しながら、

 <倭王・珍>を経て現代まで、

 我が国の建国史を貫いて「中央」を意味し、

 最後には「畿内」に至る「キ」の本体として

 実在が確かめられた「巨大な文化財」なのである。

 だから<チナ>は「黄国(キナ)」である。

 ではなぜそれが「国家の中央」を意味するのであろうか?。

 古代ギリシャの名詞を調べてみると、

 これに該当するように見えるものが1つ見つかった。

 地名の<テノス>である。

 これは沖縄では<チヌシ>になるから

 「地主」という領土の所有者を意味する当て字に合う。

 これに助詞の「ン」を挟むと、<チンヌシ>=<テンヌシ>=天主、

 テンヌーシ=<天の御主>=<天の大人(うし)>⇒

 <天皇氏>という当て字もすぐ生まれる。

 しかしこの<テノス>は単なる地名に過ぎず、

 天皇を意味するような何物ももっていない。

 これでは

 「他人のソラ似」「コジつけ」と軽蔑されても文句はいえない。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『四神』

 

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