2012年1月24日火曜日
四神と五彩圏・2
《四神と五彩圏》
『参照ブログ』
ウワイト(倭人):大学講義録
ウワイト(倭人)大学院講義録
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ひねもす徒然なるままに
『邪馬臺人は5世紀まで四国にいた』
こうなってくると、
これまで6ないし7カ国に君臨していたと思っていた
倭の五王は、たいそう印象が変わってしまった。
これまではその名乗りにある
新羅、百済は朝鮮半島にある独立国だと
思いこんでいた人が多いが、
それが間違いだったことが明らかになったのである。
そのかわり彼らが「倭の」王だと名乗っていたのが
なぜかよくわかることになった。
彼らは本当は邪馬壹(いち)国王なのだから、
仏教国の「倭(ウワイ)の王」ではない。
それなのに「倭(ウワイ)国王」と自称しているのは、
倭王・武がいうとおり彼の父祖が
次第に東の55カ国を征服して、自分のものにしたからだ。
この55カ国が四国に当たることは
『コフン』で詳しくお話ししておいた。
この事実と、彼らが「倭王」と自称して、
それが宋政府に受けいれられていることをみると、
彼らは本当に「倭(ウワイ)国」を征服したのである。
倭国とは、もう一度念をいれて繰り返すが、
仏教徒の「ウワイ人の国」で旧ヒミコ政権であり、
世に邪馬臺として知られていた国である。
五王はその「倭国」を手に入れた。
だからこそ血縁の有無は別として、
「倭王」だと自認していたのである。
ということは、位宮に追われた
「倭政権」は間違いなく四国に移動していたのだ。
しかしそれもまた讃以下の王らに奪い取られた。
それはいつか?
讃が宋に初めて使者を送ったのは421年。
だから倭は5世紀初めにはまだ四国にいたのである。
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『倭の五王』
『新羅』
『百済』
『朝鮮半島』
『倭の五王の上表文』
(誰が巨大古墳を造ったのか):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
『KOFUN』コフン
『卑弥呼』
「倭国」の移動コースの証拠群
こうした移動は想像ではなくはっきりした証拠で確認できる。
その証拠とは、その国が残した遺物である。
遺物には発掘で出てくる文化財もあるが、
それは「国」を特定するのには、ほとんど役に立たない。
本当に役立つ文化財は「地名」なのである。
それがどんなに貴重なものか、その実例をご覧にいれよう。
それはほかでもない、前章でお話ししたばかりの
「色の名の地名セット」である。
それをバラバラでなく、連続してみていくと、
「倭国」はどこからどこへ、どう移動したか、
一目瞭然にわかるからである。
「俀(だい)国」を中心にした東西南北に、
四神に相当する色の名をもった国名が
配置されていた実例をご覧いただいたが、
そうした配置は中心が移動すると、
それにともなって別の地域に移る。
その次の位置は同じ四国のなかを東にいった香川県が中心になる。
香川県は讃岐(さぬき)であるから
「倭王・讃の黄色の国=讃岐」と考えてみよう。
すると
東に淡路島がある「淡=オオ=青」で東の色。
西には広島がある「広=ヒロ(=南九州と東京方言ではシロ)=白」で
西の色。
北に黒にあう名の土地をさがすと「倉敷」がある。
「倉=句羅=クロ」の発音をもっている。
「敷」は場所という意味と
「儀式場=祭祀場」という意味を持っている。
残る
南は赤だが、これは阿波=アワを「阿和」と書くと「アカ」になる。
以下、同じことを繰り返すのも無駄だから、地名だけをあげておく。
図と見比べてみていただけば、
ごく簡単におわかりと思う。
ただ、大切なキーである
「発音変化」がどうなるかだけは念入りに読んでおいていただきたい。
それはこの場合、
先に「俀国中心」では「青の国」だった同じ「阿波」が、
「讃岐中心」では「赤」に変わったことだ。
同じ地名を、そんなに都合よく読み変えていいのか?
という疑問がある。
しかしそれは私が決めるのでも、読者が決めるのでもないから、
そうした配置をした本人たちにたずねなければならない。
しかし大昔に死んだ彼らにどう聞けばいいのだろう?
それは彼らが配置した色の名とその地名とが、
どう読めば一致するかを調べてみればわかる。
それで彼らがどう読んだのかがはつきりするから、
一見ムリな読み方も、彼らはそう読んでいたのだとわかるからである。
ではそのつもりで、今度は俀国より西はどうなっているか見てみよう。
「肥前風土記」に一番最初に出てくる郡は
「基肄(きい)の郡(こおり)」である。
これも紀伊とまったく同じく「キまたはキイ」と発音する。
間違いなく「黄」の国である。
今はこの郡(ぐん)はないが、
三つの郡を一つにした三養基(みやき)郡の最後に基の字が残っているし、
城島(きしま)、小城(おぎ)、杵島(きしま)といった地名が連なっているので、
今その中心にある佐賀市付近一帯が古代の「基肄の郡」だったとわかる。
だがここが本当に「黄」の国か?
念のために北に「黒」の地名があるかどうかを調べてみると、
たしかに「カラ」のつく土地がある。
それは「唐津」である。その南は海だが、その名は有明海。
「明」は「アカ」の音をもっているし、
残る「有海」も「アカイ」と読める。
これは何かの理由で二つのアカの当て字が
重なって混乱したものとみていい。
これと同じ名の重なりは
『記・紀』に登場する武内宿祢一族の名にも全員にみられるように、
日本の古代史には他にも例があるからである。
この地域の西端にある大きな島は「平戸島」である。
「ヒラ=シラ=白」。
残るのは東の青だが、
平戸と対象の東端の位置にあるのは
「大分」「大=オオ=青」である。
この「オオ」を「倭(ウォー)」だとすると、
そこは九州の中でも最も愛媛県に近い。
倭の移動コースが見えてくる。
「倭国が香川県が移動した場合」
倉吉
↑
広島←倉敷→播磨
伯方島 ↑↓ 淡路
福岡←善通寺→徳島
↓
安芸
「肥前風土記に記載された基肄の郡を中心した場合」
唐津湾
↑
平戸←基肄→大分
↓
有明海
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『地名』
『四神』
『香川県』
『讃岐』
『善通寺』
『淡路島』
『徳島県』
『安芸』
『広島』
『伯方島』
『倉敷』
『播磨』
『阿波』
『福岡県』
『大分県』
『肥前国風土記』
『基肄郡』
『三養基郡』
『城島町』
『小城市』
『杵島郡』
『佐賀市』
『唐津』
『唐津湾』
『有明』
『有明海』
『平戸島』
『邪馬壹国当時の連邦の大きさ』
けれども倭が移動したのはヒミコ政権没落後である。
邪馬壹国当時はどうだったのだろう?
『魏書倭人(ウワイト)章』には
「倭の北岸の狗邪韓(くじやから)国」が出ているから、
北のカラは唐津ではない。
壹與が女王だった当時の連邦の範囲は、
北は間違いなく朝鮮半島におよんでいたことがわかる。
では南はどうだったか?
伊都国から「水行20日の投馬国」がある。
これは「水行10日+陸行1と月」の
邪馬壹国(鹿児島県隼人町)よりさらに南の海上の国、
今の「十島村=トオ・マ」である。
その群島の地理上の名は「トカラ諸島」で、
いかにも離島という印象が強いが、
奄美(あまみ)大島などの大島郡には所属せずに、
桜島や硫黄(いおう)島と一緒に鹿児島郡に入っている。
これは明治以後のことではなくて、
3世紀に鹿児島半島を首都としていた
「邪馬壹国」に直属していた当時のままの行政区画が、
20世紀末の現代まで残った遺物なのである。
そこに、ぴったり「水行20日」の位置に「宝島」がある。
これは「高国(たから)」でも「大和羅=タカラ」でもある。
「大和=オワ=阿和=アカ」だから、
最初は「赤」の国として設定された「阿和」が、
次第に「オワ=大和」になり
「タカ=高」になり「宝」になったことがわかる。
だが「エッ!…大和(やまと)は、ここで生まれたんだ!」と喜ぶのはまだ早い。
「高句麗の青年はミヅラ髪を結っていた」
埴輪や古代日本人の絵でおなじみの
ミヅラ髪は、高句麗男子の髪型でもあった。
高い棒を足にはいて曲芸をしている高句麗の青年。
<朝鮮民主主義人民共和国・水山里古墳(5世紀)の壁画。>
「邪馬壹国当時の連邦の大きさ」
韓
↑
平戸←基肄→大分
↓
宝島
大島
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『朝鮮半島』
『伊都国』
『唐津』
『奄美大島』
『隼人町』
『トカラ列島』
『宝島 (鹿児島県)』
『十島村』
『桜島』
『硫黄島 (鹿児島県)』
『高句麗』
『埴輪』
『ヒミコ当時の倭国は九州・朝鮮連邦だった』
ではそれは邪馬壹国になってからの領土なのだろうか?
『ヒミコ』以下の本シリーズの読者はもうよくご存じのとおり、
ヒミコはその近くの伊是名(いぜな)島で生まれた。
また彼女を倒した元高句麗王・位宮=垂仁天皇も、
狗奴国男王としてこの地域の勢力を結集して戦った。
だからヒミコ時代はそこは狗奴国であって「不属女王」と書いてある。
明らかに邪馬壹国になってから所属したというより、
そこが彼らの本国だったのであるから、
辺鄙なところではあっても切り捨てられない地域だったのだ。
これで邪馬壹国成立の直後、
それまで滞在していた帯方郡使の張政が、
なぜわざわざ「投馬国」を書き足したのか、
その理由がはっきりわかる。
これまではそんなことは誰ひとり取りあげもしなければ、
想像もしなかった。
「邪馬台国」はどこだったか?
というばかりだった。
だから狗邪韓国が倭国連邦の中の一国だと明言した学者もいない。
しかし邪馬壹国の最高支配者・伊支馬(いちま)は
元高句麗王・位宮だったのだから、
朝鮮半島の最北端を治めていたのだ。
南端の狗邪韓国を切りはなす必要なんか少しもない。
それ以上にこの北を意味する「カラ」は、
辰韓・馬韓・弁韓の三韓全域を指している可能性がある。
それも伊支馬時代の前、ヒミコ時代に、
それらの地域国家のすべてが、
日本語の国名をもっていた事実を思い出していただくと、
その可能性はさらに大きくふくらむ。
もう一度「ジンム」を読みかえしていただければ幸いである。
これでいずれにせよ、
当時の九州と朝鮮半島が倭国連邦の中に入っていたことはわかった。
いわゆる「邪馬台国」問題の最重要焦点、
それは政権がどんなものだったのか?
ということだが、その一番重要な疑問点だった
「倭国連邦の範囲」が、
この東西南北の範囲を示す「色の名の国名」で解決した。
それにはまだ奈良はおろか、
四国も入ってはいなかったのである。
『参考』
HIMIKO(黄金の女王卑弥呼):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/36888899.html
JINMU(卑弥呼を攻めた神武天皇):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/37383589.html
KOFUN(誰が巨大古墳を造ったのか):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/38089137.html
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『卑弥呼』
『伊是名島』
『高句麗』
『垂仁天皇』位宮
『狗奴国』
『帯方郡』
『邪馬台国』
『朝鮮半島』
『三韓』
『辰韓』
『馬韓』
『弁韓』
『国とは共同生活を営む人々の総和である』
ここではつきりしたことがもう一つある。
それはヒミコ時代といっても、
彼女が女王になる前と後と、
その前期、後期、敗戦後とみてくると、
「国のサイズ」がどんどん変わるということである。
別に戦乱の時代でなくても、
人々は天災や人災などによって離合集散を繰り返す。
だからそのサイズも位置も一定していないものなのだ。
それは最近のソ連の崩壊や
それ以後の世界情勢を見ていればイヤでもわかる。
子供にもわかることなのである。
この「わかりきったこと」が、
歴史を考える上では第一の基礎なのである。
「国とは国境で固く閉ざされた不動不変のものではない。
位置も大きさも変わる」。
位置や大きさというのは土地のことだから、
土地は国そのものではない。
ではなにが国なんだろう?
正しい答えは「国民」である。
国民とは
「一つの国の中に集って生活している集団のこと」
なのだ。
国民というものは、何度もいうように、
同族でも同じ言葉でも同じ宗教でもない。
その時々の事情で寄り集まり仲間になって共同社会を営む人々である。
もちろん「民族」なんかではないことは、
もうよくご存じのことなのだ。
だから「土地が国だったのではない」。
「民あっての国」なのである。
これは国境で固められた現代でも変わることはない。
どんな超大国でも、
その国力は国民の力の総和なのであって、
どんなに埋蔵物資が豊富でも、
それを活かす国民がいなければ、そんなものはゼロに等しい。
このことがわかっている人には、
在来の学者が
「新羅・百済」は朝鮮半島だけにあった国だとして、
いろんな「説」を並べているのが、
どんなに幼稚なことだったか……もうよくおわかりになったと思う。
「国」は土地に固定したものではない。
どんどん移動するのである。
だから新羅や百済が、
どの時代に、どこに、どんなサイズでいた、
という移動と変化をはっきり知っていないで、
新羅といえば
「ただ一か所の朝鮮半島・新羅」だけしか知らずにいて、
何でもかでも
「新羅から来た文化」だとか、
「渡来人」だとか、
「前方後円墳は朝鮮半島から来たのか」などと、
朝鮮半島も、
新羅も百済も高句麗も、
時代をかまわず、
頭から外国として差別しているのが、
どんなに事実とかけはなれていることか。
もっといえば、
いまだに
「邪馬台国は奈良だ」とか
「それは大和朝廷だ」と言っている者も、
国とは土地のことだという妄想が
固定してしまった不治の重症錯覚患者なのである。
国民がなくては国ではない。
この当たり前のこと、
それも一番かんじんなことが理解できないで、
その誤りを判断も修正もできないのは知性人ではないし、
正しい知識を教えられるはずもない。
それでは古代のことを論じたり書いたりする資格がない。
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『国』
『国家』
『国民』
『土地』
『国境』
『国力』
『言葉』
『宗教』
『民族』
『大隈地方にあった黄の国』
話を「色の名の国」にもどそう。
では倭(ウワイ)国連邦がどうなっていたか?
それはいつから? どこから?
どんなふうに始まっているのだろう。
一足跳びでなくもうひとつ前の段階をみてみよう。
南の「大和=アカ」を同じ宝島に置いて、
南九州に黄の国を求めると、
鹿児島県大隅地方にそれが見つかる。
『続日本紀』に、
天平勝宝元年(749)八月
「曽の県主・岐の直(あたえ)・志自羽志(しじはし)」と
「加祢保左(かねほさ)」の二人を
外従五位の下(げ)に昇格する、という記事がある。
曽は「襲」で大隅のことだ。
10世紀に書かれた日本最古の百科事典
『倭名類聚鈔』には、
日本全国の国々の郡(こおり)や郷(ごう)の名が載っている。
それでみると、岐という郷は大隅の国の中にある。
この「岐」という字は
『日本書紀』の「一書」には神の名として出ている。
伊弉諾(イサナキ)・伊弉冉(イサナミ)の二神が
国生み中にイサナミのミコトが死ぬ。
イサナキのミコトは死者の国
「黄泉(よみ)」へ死んだ妻を訪ねていく。
すると妻は暗やみの中で、
「私はもう死の国の食べ物を食べてしまったので
見ないで帰ってください」という。
しかし夫は見ずにいられず、
櫛を燃して妻の痛ましい姿を見てしまう。
妻は怒って8人の恐ろしい女鬼に夫をつかまえさせようとする。
夫は剣を抜き、手当たりしだいに物を投げつけて逃げる。
そして大きな岩で坂道をふさいで、
そこまで追ってきた妻と問答をしたあと、
「ここからは来るな」といってもっていた杖を道に投げる。
その杖が「岐の神」なのだ。
これはギリシャ神話の
「オルフイコイ=オルフエウス神譚(しんたん)」の変型したもので、
この杖はヘルメスがもっているカディキウス=航海用の天測儀なので、
『古事記』では「船戸の神」と当て字しているが、
中国では船乗り集団を
「船戸(せんこ)」と呼んだから、それをそのまま使ったのである。
この杖が「舵取り用の木=機」であることを考えると
「カジキ」で、
それがギリシャ語のカディキウスと通じており、
私(加治木義博)の姓にもなっている
大隅・姶良(あいら)郡の「加治木」という地名とも、
大魚のカジキとも同じ発音であることはすぐわかると思う。
加治木町には
『加治木故老物語』という古記録があって、
「加治木は昔、天狗の面で有名な猿田彦の神が領主だったが、
船で沖へ出たまま帰らず、船の舵だけが流れ戻ってきた。
それが不思議にも芽をふいてクスの巨木になったので
「カジキ」という地名になった」とある。
そのあとの領主は
「阿知岐(あちき)=阿知の使主(おみ)」で、
『記・紀』では応神以下歴代の天皇に仕えた。
この人物の名にも「岐」の字が入っているので、
問題の「岐」郷というのはこの辺り一帯だとされている。
この町は大相撲の寺尾関の故郷でもある。
彼のアレクサンドロス大王タイプの容貌と天狗の顔など、
以上の話が互いにどれくらい強く結びつくか、
応神天皇の皇居であった鹿児島神宮が隣町にあることなど、
楽しくお考えになってみて戴きたい。
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『大隅国』
『宝島 (鹿児島県)』『宝島』『国土地理院・宝島』
『元号一覧 (日本)』
『天平勝宝』
『続日本紀』
『日本の位階制度』
『日本の外位制』
『和名類聚抄』
『郡』
『郷』
『日本書紀』
『本文と一書』
『黄泉』『日本書紀』1書第六の注には「或所謂泉津平阪 不復別有處所 但臨死氣絕之際 是之謂歟」とある。
『岐の神』
『ギリシア神話』
『ヘルメース』
『加治木町』
『サルタヒコ』
『姶良郡』鹿児島県
『応神天皇』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%B9%E5%A4%A7%E7%8E%8B
『アレクサンドロス3世』アレクサンドロス大王
『鹿児島神宮』
『隼人町』霧島市
『倭王・済だった反正天皇に結びつく青竜の国・種子島』
以上で「岐=黄」という地名が
古代に実在したことはおわかりいただけた。
今度はわかりやすい北からお話を進めていこう。
その加治木から真北に「栗野(くりの)町」がある。
クリ=句麗=黒。
ほぼ南にある桜島には「赤水(あかみず)」がある。
しかしこの島は
天平宝字八年(764)に
海中噴火で三つの島ができたという記録があるので、
この赤水はそれ以後の地名である可能性もある。
また西の白に当たる
知覧(ちらん)または
枚聞(ひらきき)より北にあるので偶然か、
後世のものとして赤水を除外すると、
それより南には先にお話しした
「宝島」か奄美「大島」しかない。
赤水を南とすると、西のシロに当たるのは今の川内市の「高城」である。
これは今「タキ」と発音するが、
「タカシロ」とも読める。
この高城は東シナ海に面しているが、
それと対照的に太平洋に面してビロウ樹で有名な「青島」がある。
この菱形は東西が長いが、十字形はきれいだし、
その名も説明がいらない点を考えると、
この目的でつけた地名だったのである。
また南を遠い大島にとる長いほうの南北線をみると、
西はわずかでも南の「開聞岳=シラキキ岳」がある。
このときは東も少しズレて種子島になる。この島は多くの意味をもっている。
まず少し東西が傾くズレだが、これは海面では地名のつけようもないので、
その次にある東の陸地といえば、
この島しかないのだから仕方がないということにもなるが、
また日の昇る方角を東とみた場合、
この島は大隅半島南端からはたしかに東の位置にある。
つぎはそれが、どう「青」に合うかだ。
この島は『日本書紀』では「多褹」と書いてある。
これは「オオジ=タジ」と読める。オオは青だ。
またここは豊玉(ほつま)姫の国で、
姫が天孫の子を産むとき「竜」になった姿を天孫に見られた話が、
その『日本書紀』の一書にある。
だから「青+竜」、やはり青竜の島とされていたのである。
さらにこの「多褹」を「タジー」と発音すると、
反正天皇の名乗りである「タジヒ」と同じになる。
この反正天皇は倭王・済で百済王だった。
百済はホヅミ。
百は「ホ」。
豊(ホ)・宝(ホ)・火(ホ)・穂(ホ)といった
この島にまつわる話の主役の名は結局、
その豊玉(ホツマ)から百済(ホヅミ)まで
一連の当て字によって、反正天皇と幾重にも結びつく。
『古事記』の[仁徳天皇記]では
反正天皇の名のタジヒには「蝮」の字が当ててある。
これは毒蛇のマムシのことである。
「やはり恐ろしい爬虫類で、
この名にも「竜」のイメージが残っている。
また中国の西域に接して
「タージー=大食」という
アショカ仏教の栄えた国があり、
日本の仏教は百済から伝わったというのと思いあわされる。
「食」は鹿児島語で
「カン」だから「大食」は「ウカン=鳥桓」である。
反正天皇がどういう出身かよくわかる。
「倭(青)の移動コース・倭の五王時代」
播磨 奈良
阿波(徳島)→淡路→大阪→大和
大和高田 桜井
堺
茅沼
和歌山
紀伊
栗野 韓国見岳
↑ ↑
高城←姶良→ ←加治木→青島
↓
赤水
錦江湾
↓
大和村
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『倭の五王』
『反正天皇』
『青竜』
『種子島』
『桜島』
『加治木町』
『知覧町』
『枚聞神社』
『宝島 (鹿児島県)』
『奄美大島』
『川内市』
『東シナ海』
『太平洋』
『青島 (宮崎県)』
『ビロウ』
『開聞岳』
『大隅半島』
『日本書紀』
『薩摩国』多褹
『豊玉(ほつま)姫』トヨタマヒメ
『古事記』
『仁徳天皇』
『蝮』マムシ
『百済』
『アショーカ王』
『台湾に伝わる「天照大神=始皇帝の三女」伝承』
この二重の十字形がヒミコたちのふるさとであることは、
ひと目でおわかりになると思う。
彼女が魏の侵攻にそなえて、
隼人町に連邦政府を移したのは、
そこが本来の領地だったからで、どこでもよかったわけではない。
あのスピーディーな大移動も、移動先がよく知った土地で、
もともと本領地だったからこそ実行できたのだ。
そこは魏が侵攻してきても、さらに南へ海を越えて、
より安全な沖縄へ避難できる絶対に安全な場所のはずだったのである。
しかし位宮はその裏をかいて、南を先に押さえてから逆に北へ攻めのぼった。
その結果、もろくも「ヒミコ政権=邪馬臺国」は陥落した。
これは[神武天皇紀]にある熊野迂回作戦。
南からの「ヤマト」攻めである。
その熊野は、この種子島の中央、東岸にある地名なのだ。
以上は『ヒミコ』『ジンム』で詳しくお話ししたことの補足である。
もう一つ、さらに南の大十字形のお話をして、しめくくりにしよう。
それは北の黒を鹿児島県の姶良(あいら)郡にとるものである。
この郡は「アイラ」と読んでいるが、
古代には「カラ」とも呼ばれていたことは、
この郡を見おろす霧島の最高峰が
韓国見岳(からくにみだけ)という名であることでわかると、
本シリーズで前に説明したが、なぜそう読めるかというと、
合羽(カッパ)、合志郡(カッシ郡=熊本県)の例でわかるとおり、
「姶」も<カ>の音をもっているからである。
姶良郡を黒にした場合の中心「キノ国」は沖縄である。
そこは<ウチナ>で「ウ=大」「チナ=キン」だから黄の国。
そしてその語源はソナカの「スパルナブーミー=金国」
(『ヒミコ』参照)なのだ。
これでなぜこの「五彩圏」の中心が「キノ国」なのかがわかったのである。
東の青の国も「オオ」の島=大島(奄美)と、
説明不要の名で現存している。では西はどうなるか?
沖縄の西には東シナ海しかない。
しかしその「シナ」が「シロ」なのである。
韓国の「盧」元大統領は「ロ」と書いて「ノ」と発音する姓だった。
この正反対の姓が鹿児島にある。
「新納」と書いて「ニイロ」と読む。
「ノ」を「ロ」と読むのである。
この読み方をする人々には「シナ」は「シラ」なのである。
これは中国そのものを指しているのだ。
「シナ」や「チャイナ」の語源は
中国最初の大帝国・「秦(シン)」である。
沖縄(うちな)の語源も「ウチナ=大秦(うちな)」と無関係ではない。
『魏志辰韓伝』に、辰韓人は秦の難民だと自称している。
その言葉は秦語である。
「秦(しん)韓」と呼ぶ人々がいる、ことなをあげているが、
辰韓は「タツカラ」で「タカラ=宝」で、
高国人=高人=コウ人=鮫人=沖縄人なのだからである(『コフン』参照)。
そして「秦」の正しい発音は「シヌ」。
右の発音変化でNがRに変わると
「ヌはル」だから「シル」になるが、
「シル」は沖縄語の「白(しる)」の発音とまったく同じである。
私(加治木義博)は大阪万国博のころから台湾での調査を始めたが、
それは親友の陳朝和氏が初めて私の新聞記事を読み、
テレビで見たといって、
是非会って欲しいと訪ねてきたのがキッカケだった。
その後、20度を超える訪台で多くの知己ができたが、
その一人の黄登淵(コウトウエン)氏が
「天照大神は、徐福(ジョフク)に連れられて琉球へ渡った
秦(シン)の始皇帝の3女だ、というのが、
この辺りの古くからの民間伝承です」と教えてくれた。
その後、多くの地域で、
会う人ごとにそれをたずねてみたが異口同音に同じ答えがかえってきた。
私たちの共同研究では、
彼女が天照大神だという部分は別にして、
その伝承自体は次第に事実に近くなってきている。
『参照』
HIMIKO(黄金の女王卑弥呼):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/36888899.html
JINMU(卑弥呼を攻めた神武天皇):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/37383589.html
KOFUN(誰が巨大古墳を造ったのか):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/38089137.html
WAJIN(建国前夜の巨大連邦発見):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/38608113.html
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『台湾』
『秦』
『始皇帝』
『卑弥呼』
『魏』
『魏 (三国)』
『沖縄』
『種子島』
『姶良郡』
『韓国見岳』韓国岳
『合羽』
『合志郡』
『奄美大島』
『東シナ海』
『韓国』大韓民国
『新納氏』
『辰韓』
『日本万国博覧会』大阪万国博
『天照大神』
『徐福』
『伝承』
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