2012年1月23日月曜日
四神と五彩圏・1
《四神と五彩圏》
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ウワイト(倭人):大学講義録
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『四神のルーツはシンドゥ教』
五彩圏は、いうまでもなく方角(方位)の
「四神の色の知識」がなくては生まれない。
それは先にお話ししたようにインドの宗教文明の産物であるが、
日本では間違って
四神というのは中国生まれだと思いこんでいる人がいるので、
もう少し詳しくお話ししておこう。
宇宙を支配する大神ビシユヌーは、
銀河やオリオン座大星雲(銀河宇宙)を
思わせる巨大な七つの頭の竜
「アナンタ」(『ヒミコ』参照)に乗っている。
そしてベッドには「シェーシャ竜」を使う。
彼は太陽神だから竜も東から出てくる。
竜は
インド語のシャカ、
ネパール語のシヤケ、
ギリシャ語のスキュタイ、
そして中国・日本語のサカ人に特有のトーテムなのである。
仏教を守護する八大竜王や、豊玉姫や、スサノオの大蛇退治も、
ジークフリートの竜退治も皆これがもとになっている。
南の朱雀がビシュヌーの旅行用の航空機・
金翅紗鳥=カローラ・ガルーダから変わったことは、
つい今しがた説明したが、同じように
西の白虎も中国で誤解されたもので、
本当は中国にはいないがインドにいるライオンが、
ビシュヌーそのものの変身
「人獅子」として崇拝されているものなのである。
このことは中国製といわれる3~4世紀の銅鏡の鏡背図を見ればわかる。
それは虎ではなくインドの人獅子の顔をもっている。
中国の四神の北の「玄武」は、亀と蛇の二本だてになっている。
これが中国の四神はインド起源であることを、
つぎのようにいちばんよく物語っている。
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『四神』
『ヒンドゥー教』シンドゥ教
『ヴィシュヌ』ビシユヌー
『銀河』
『オリオン座』
『アナンタ』
『シェーシャ』
『竜』東
『トーテム』
『八大竜王』
『豊玉姫』
『スサノオ』
『ジークフリート』
『朱雀』南
『ガルダ』金翅紗鳥=カローラ・ガルーダ
『白虎』西
『ライオン』
『銅鏡』
『虎』
『玄武』北
『亀』
『蛇』
『十字架は方位を測る道具だった』
インドの古代叙事詩「マハー・バーラタ」の中に
ビシュヌーが神々に「不死の甘露(かんろ)」を造る方法として、
「乳海」を撹拌する方法を教え、それが実行された話がある。
神々はマンダラ山を引っこ抜いて撹拌棒にし、
それにパースキ竜を巻きつけて網(つな)にし、
ビシュヌーの化身である巨大な亀「クルマ」を
軸受(じくうけ)に使って、
マンダラ山を回して海水を回転させるのである。
だから亀の上に蛇がいてワンセットになっている
中国の玄武(げんぶ)は、この亀と竜が原型なのだ。
なぜそれが「北で黒」かというと、
回る世界の中心は「北極星」だし、クルマも黒い化身だが、
ビシュヌーの化身の内の一つクリシュナという神も、
その名でわかるとおり、
やはり「黒」ということで黒い肌をしており、
「夜・闇」を意味している。
太陽の通る東・南・西は明る通らない北は寒く暗い世界である。
こうした考えが重なって黒が北を象徴するのである。
そしてさらに重要なのは、
「玄武」は、
この「玄=黒」と
「武(たけ)=高(たか)=高(こう)族」との組み合せとみると、
朝鮮半島北端の「高句麗」に一致する。
中国人には意味不明の「武」は、私たちにはよくわかる。
「武」を「タケ=高」と発音するのは、日本語の中の「鹿児島語」なのだ。
これに関連しておもしろいのは、
いま世界で使われている救世主=クリストという言葉である。
以上のインド語の知識があれば「クリ」は黒だとわかる。
それが1人を導いて救う専門家を指すことを考えると、
日本語の専門家という意味の
「玄人=クロウト」という言葉と、
非常に共通していることがわかる。
クリは「玄=黒」で、スト=「人=ヒト・シト」と、
意味も、発音も共通になるからである。
もう一つついでにお話しすると、
そのクリスト教の象徴である十字架は、
太古に考案されたときは東西南北を表すものだったが、
人知が進んで、方角が星や太陽の位置で測れることがわかると、
それらの天体を測る「天測法」が発達し、
それとともにその十字架の道具は日月星の角度を測るのにも、
方角を測るのにも使える実に便利な道具になった。
上下左右を少しずつ長さを変えた十字型に作った杖は、
迷わず安全に旅行できる守り神になった。
旅と貿易の守り神ヘルメスやマーキュリーが手にもつ
羽の生えた杖「カディキュウス」は、
この十字杖の神話化したものなのだ。
だからすべての旅行者にとって、
それを使いこなせる者は
「導く者」、指導者である。
十字形は人々を導く者の象徴になった。
その原型の十字杖が後世イエスの処刑に使われた
十字架だということに変化して、
クリスチャンの信仰対象に化けてしまった。
そしてそれだけが現在まで残ったために、
本来の意味はわからなくなってしまっているが、
今一般に信じられているのは誤解で、
事実と違った部分があることがわかると思う。
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『十字架』
『マハーバーラタ』マハー・バーラタ
『ヴィシュヌ』ビシユヌー
『甘露』
『乳海攪拌』
『マンダラ』曼荼羅
『玄武』北
『亀』
『蛇』
『北極星』
『クリシュナ』
『高句麗』
『救世主』
『ヘルメス』ヘルメース
『マーキュリー』
『キリスト教徒』
『ギリシャの女神アテナと嘉手納は同じ発音』
十字と同じく「四神」もまた四方を指し示す目印である。
日本では京都の御所(ごしょ)の門と
街路がその名で呼ばれでいたのでよく知られている。
南の正面の門が朱雀門(すざくもん)で、
それから真南へ九条にあった
羅城門(らじようもん)までの大通りを朱雀大路(おおじ)といった。
これは平安京のものが残ったのだが、
平安京は中国の唐の都をそっくりまねたもので、
その「朱雀」などの名もまる写しである。
中国では始皇帝のころインド系の宗教が流行しはじめ、
それ以前からあった道教と合体して仙人が主役になるが、
仙人(リシ=ヒジリ)はインドのシバ(ヤマ)派の聖人のことである。
のちの邪馬壹国の和人たちが信仰したシンドゥ教もこの一派で、
中国の山東半島の「方士」だった徐福らとは、
貝貿易で知らぬ仲ではなかった。
しかし始皇帝は殷人の系統である商人を嫌い、ことごとに弾圧したので、
和人が中国に顔を出すことはできず、
宗教仲間の方士たちが代わって仕事をすすめてきた。
その「方士」という名でもわかるとおり、
彼らは天文、方位、気象に明るい学者集団だった。
彼らは始皇帝に天地の神を祭らせ、道路整備をさせて、
その知識を高く売りつけただけでなく、
始皇帝の不死の夢をかきたてて「蓬莱」へ
脱出することを計画し、ついに成功した。
それは暴君始皇帝がやがて、
学者仲間を皆殺しにすることを予知していたからである。
四神というのは、このころに彼らが中国に広めたものだったのだ。
この四神は現代の日本では、
奈良の高松塚古墳が発掘されて、
その壁画にあったことから一般に有名になり、
次第にポピュラーになったが、
それ以前は前漢からの青銅鏡背面中央のツマミの回りに、
四方に描かれているものが、歴史関係者に知られていた程度である。
この四神が描かれている銅鏡の「製造年代」を調べてみると、
漢代以前のものはない。
その大半は、もうご存じの五胡十六国時代、六朝ごろのものである。
中国は漢人の勢力が衰えて、「胡」人が大量に中国に移住、
群雄割拠して複数の王朝が乱立していた当時である。
胡人は和人と同じシンドゥ教徒だったから、
ビシュヌーを中国式に表現した
東王父と西王母を聖なる守り神として、
鏡に彫りつけて礼拝の対象にしていたのである。
ビシュヌーが太陽神で東の象徴だったことを思い出していただきたい。
西王母は『山海経』に、
髪の毛を振り乱した怪物で、
西の神山・崑崙(こんろん)にいると書いてあるが、
鏡の絵をみるとそのとおりに描かれている。
漢鏡の虎の絵はずいぶんちがうもので、むしろ人獅子のほうに近い。
ビシュヌーの妻は「シュリ」という。
この名が琉球の首都だった「首里」と同じ発音であることに注意がいる。
沖縄には代々の統治者が、
それぞれ自分たちの信仰する女神を祭った遺跡があって、
それが地名として残っている。
ギリシャ人は女神アテナを祭っていた。
それが「阿手納(アテナ)」と書かれ、
のちに「可手納(カテナ)」と発音されて、
今では「嘉手納(カテナ)」になって残っている。
同じことは阿直岐(アチキ)と
可直岐(カチキ)・加治木(カチキ)の間にもみられる。
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『アテナ』アテーナー
『嘉手納町』
『四神』
『京都御所』
『朱雀門』
『羅城門』
『平安京』
『始皇帝』
『道教』
『仙人』
『シヴァ』シバ(ヤマ)
『シンドゥ教』ヒンドゥー教
『山東半島』
『徐福』方士
『蓬莱』
『高松塚古墳』
『五胡十六国時代』
『六朝』
『胡』
『ヴィシュヌ』ビシユヌー
『東王父』西王母
『山海経』
『崑崙』
『シュリ』
『首里』
『琉球』
『沖縄』
『阿直岐』
『加治木町』
『三角縁神獣鏡の移動コースこそ「五彩圏」』
これで謎の三角縁神獣鏡の祖形の産地はわかった。
それはいま日本で「三角縁神獣鏡」と定義しているものが、
平均20センチもあるのにくらべると、
みなひと回り小さいし、その大きさに相応して、
画面も簡単になっている。
しかしその目的である、
周縁部がやはり鉄囲山(てついせん)であるという
表現になっていることは、
その断面が「山をかたどつた」立派な三角形であることですぐわかり、
三角縁神獣鏡と同じ思想、同じ用途、同じ構造、同系の
使用者たちをもっていたことがわかる。
だからそれは「サイズ」とか「画像」の違いていどの少差を別にして、
大きく生物学の分類法を応用して分類すれば、
それは
「神獣鏡綱(こう)」の
「神獣鏡目(もく)」の
「三角縁神獣鏡科(か)」の
「三角縁神獣鏡属(ぞく)」の
「小三角縁神獣鏡」という
「種(しゅ)」になる。
今の考古学は、
こうした生物学の分類法にくらべて、
分類法が非常に遅れている。
そのためその親戚関係を見失ってしまって、
謎が解けない原因になっているのである。
これではせっかく
三角縁神獣銃の祖形を見つけても
「これは違う」でお終いである。
この祖形の問題で最も重要なことは、
その祖形の一つ、私(加治木義博)のもつ鉄製方位鏡が、
鹿児島県に移動して方位鏡として活躍したあと、
現代まで伝世されてきたことだ。
それは鉄鏡だったために埋葬すれば錆びて
消滅することを知っていたためか。
あるいは、だからこそ保存して後世に伝えるために、
わざと鉄製にしたのか。
それとも銅の得られなかった
無銅器地帯の鹿児島では鉄以外に造る材料がなかったのか。
あるいは台湾ですでに
鉄製の小三角縁神獣鏡が造られていたのか。
この答えは私たちの言語復原史学会員らの、
ゆっくり時間をかけた今後の調査結果を待つほかない。
しかしこの鉄の小三角縁神獣方位鏡のその移動こそ、
五彩圏の記念すべき最初の移動そのものだった。
そしてそれは、あの『ヒミコ』でお話しした
「ソナカ」と「ヒメコソ」との移動とぴったり同じになる。
三角縁神獣鏡の祖形として、この鏡が造られた時期は、
ヒメコソが台湾に最初の太陽感精神話を残した時期と一致し、
それが南九州へ移動したあと、
ヒミコ女王として君臨した時期とも一致する。
彼女は鏡を愛した。
それは彼女が鏡を知っていたからであり、その用途にも精通していた。
それが「日の神」の祭主であり、天照大神の資格でもあった。
だからこそ、よりよく輝く中国製の銅の鏡を欲しがったとしたら、
この鉄の鏡こそ、台湾で造られた最も初期のものということになる。
それは明らかに方位鏡として造られた希有(けう)のものである。
ヒミコの鏡に最も近い多くの条件を満たした
鏡がここに現実に実在するのである。
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『三角縁神獣鏡』
『考古学』
『生物学』
『分類』
『天照大神』
『台湾』
『卑弥呼』
「黄金国」女王の資格は金髪
台湾から九州本土への移動は、
ヒミコとソナカが開拓したものだった。
それは天照大神神話の中にも痕跡を残している。
しかしヒミコは仲哀天皇の死という悲劇に遭遇した後、
ソナカ教団を率いて倭人(ウワイト)連邦に君臨した。
その連邦は発展して台湾から高句麗に及ぶ五彩圏を構成した。
彼女はその中心として中央の「キノ国=キン国」 にいた。
魏の帯方郡から、
その注文の中国製鋼鏡を、
帯方郡使・梯儁が運んできて彼女と会ったのは、
その「キン国=後の基肄の(キ ン)郡=当時の伊都国」だった。
こうみてくると、
「キン国」とは、
「黄の(キン)国」である前に
「金(キン)国」、
すなわち宗祖アショカ王が
初代ソナカに命じた目的地
「スパルナ・プーミー(金地=金国)」だったことがわかる。
そしてなぜ、その女王が、
「光華明彩=金髪」でなければならなかったかもわかる。
黄金の国の女王=太陽の化身は、
「光り輝いていることが、至上命令」だったのだ。
だから彼女の後を継いだ「壹與」が、
あいついだ動乱をしずめて女王の座についたのもまた、
やはり彼女も金髪だったからだとみると、なぜ彼女がヒミコの「宗女」として、
反対派を押さえる説得力があったかという理由がわかる。
それは理屈でも、利害でも、政治力でも、ましてや武力でもなかった。
それで治まったことが、それが無上の信仰だったことを示している。
景初三年鏡とともに眠っていた和泉黄金塚古墳の主は女性だった。
それが「黄金塚」と呼ばれてきた理由も「黄金の女王」以外に考えられない。
黄金製の副葬品などなかったからである。
こうしたことのすべてが、
五彩圏の中央を占めた「キノ=チヌ」は、
本来「金」だったことを物語っている。
そしてそれは「金翅鳥=カロウラ=ガル-ダ」の国が
「鳳来(ほうらい)島=台湾」だったという信仰に結びつき、
それが「朱雀(すざく)=丹鳳(ぽう)」として「四神」の南になり、
「赤」が南の象徴色になった起源でもある。
この四神と五彩圏の方位思想は、
中国南部から沿岸部に広まり、
山東半島で一大宗教として花ひらいた。
それが「方士し徐福らに代表される「道教」だった。
しかしそれは老荘思想の後継者を称しているが、
インドの仙人を理想とする「シンドゥ教」の一派である。
それは山東半島から遼東を経由して高句麗にはいり、
その国教になっていた。
高句麗王だった位宮は、ヒミコを倒したあと、
壹與を立てて女王にしたが、
その宗教の内容はアショカ仏教ではなく、
この「シンドゥ=神道」に変わつてしまった。
それには「天皇」という神がいる。
のちの日本政権がアショカ仏教の
「大王=マハ・ラジヤ」を廃して、
この「天皇」の名を最高位の称号に選んだのも、
あのヒミコ政権崩壊のとき、
すでに芽生えていたことだったのである。
それは「天=ティン=チヌ=キン=金」だったことを、
記憶しておいてただきたい。
なぜなら、その「天皇」という称号が、
「大王」に取って変わったのが、
「大化改新」なのだからである。
その主役がそれとどんな「かかわり」があるか?
今から考えてみて、
次巻の正解が出るまで、
この一大歴史クイズを楽しんでいただきたい。
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『黄金国』スワンナプーム
『台湾』
『高句麗』
『天照大神』
『基肄郡』
『卑弥呼』
『壹與』台与
『仲哀天皇』
『アショーカ王』アソカ王=阿育王
『魏志倭人(ウワイト)伝』
『ガルダ』金翅鳥
『朱雀』
『四神』
『山東半島』
『遼東半島』
『天皇』
『大王』
『アショーカ王』
『大化改新』
『色の名と古代国名の一致』
その地域の人々と日本とのつながりを示すのは、
楼蘭の原名「Kroraina」である。
これは「クロライナ」というのがもとの発音だが、
これは「クロラ=黒国」、
「イナ=イン=インド」で、
日本語の「黒=クロ」とも、
日本の「委奴=猪名=伊那=稲」という国名、
地名とも発音が一致する。
もともと日本語のクロという言葉はインド語で、
烏=カラスの「カラ」もその方言である。
この地域にはそのカラのついた地名「カラホト」があり、
モンゴルには古い都の「カラコルム」など数多く分布している。
これはまた
「シロ=白=斯盧=新羅」と
「カラ=黒=加羅=韓」、
「クロ=句盧=狗奴=高句麗=高麗。
「キ=黄=木=紀」。
「アオ=青=オオ=倭=大=淡=阿波」。
「アカ=赤=阿加=オカ=大日=大和=タカ=高・竹・宝」
といった古代国名とも固く結びついている。
しかしこれは偶然だと思う人があるにちがいない、
が、果たして偶然なのだろうか?
タイ国の学術調査の際、同行の学習院大学・吉野裕子教授に、
この話をしたら
「それは陰陽五行(ごぎょう)思想なのよ!」と、
日本神話の中にみられる
五行思想の数々について指摘され、話に花が咲いたことがある。
その思想では、ご存じの四方を表す四神(ししん)の
「青は青竜で東」
「白は白虎で西」
「黒は玄武(げんぶ)で北」
「赤は朱雀(すざく)で南」プラス
「黄は大地で中央」
を意味している。
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『楼蘭』Kroraina
『モンゴル』
『カラコルム』
『吉野裕子』
『陰陽五行思想』
『四神(ししん)』
『四方にピッタリ一致する地名が現存』
色名に合う国々をそのとおり四方に配置してみると、
東は倭か阿波、
西は新羅、
北は高句麗、
南はタカか大日本で高の国か鹿児島という配置になる。
するとこの視点の中央・黄はどこになるのだろうか?
今のような正確な地図が当時あるはずもないから、
古代人のおよその方向感覚でこれをみると、
北と南とは問題ないから、新羅が西にある地域を探せばいい。
これが後の朝鮮半島の新羅なら、
それを西と感じるには、
本州を相当東へ行かねばならない。
少なくとも奈良以北だから、
新羅が朝鮮半島に渡ったのは奈良が倭国になった後で、
東の青を阿波=徳島とすると合わない。
だから阿波と対応する新羅なら白日と呼ばれた
福岡県が最も白の国にふさわしい。
ここだと緯度もピッタリ、阿波=徳島県が真東になる。
この場合は南の
「高の国」は「高津=コウチ=高知県」ということになる。
では北の黒の国はどこか?
この配置にピッタリの位置に
「呉=クレ=句盧・高麗」が現存している。
結局この視点は間違いなく四国の中で、
それも高知の北、呉の南、徳島の西、福岡の東にある
地域ということになる。
これは誰が考えても愛媛県以外にはない。
とすればこの国名配置が生まれたのは、
宇和島が首都であった愛媛俀国時代だということになる。
これは重大なことである。
これまでは「外国だった」として誰一人疑ったことのない
「新羅」や「高麗」も一つの政権下にあった。
だからそれらの名は陰陽五行思想の色の配置に基づいて
「統一して命名された地域名」であって、
「独立した国名ではなかった」のである。
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『高句麗』
『新羅』
『朝鮮半島』
『宇和島』
『愛媛統一政権が実在した確かな証拠』
しかし当時の中央は「俀(だい)」であって
「キ」ではなかったはずだ。
それにあう木の国・紀の国は和歌山県である。
また吉備を「キヒ」と読んでみてもこれも岡山県である。
どちらも愛媛ではない。
これはどうなっているのだろう……。
これは「俀が」
7世紀初めの国名なのであって、
それ以前は別の名をもっていたと考えるほかない。
それは『コフン』でお話ししたように、
俀国の言葉は沖縄語であったことを考えると、
沖縄は「ウティナ」「ウチナ」と発音する名への当て字で、
それは「大(ウ)・チ・国」だから
「大(だい)の国」で臺(だい)国でもある。
だから「俀国」と当て字したのも当然だし、
「ゥオーの国=倭国」でもあったが、
「大(ウ)・チヌ」であって
「太秦=大(う)・茅沼(ちぬ)」を意味した国でもあった。
その「茅沼」の名はのちに倭王・珍のときに大阪府南部に移ったが、
その前には沖縄発音の「チ」は本土発音では「キ」になる原則どおりに、
その南の地方に「キの国」(今の和歌山県)として先ず移動拡大していた。
だから愛媛は最初から
「ティヌ」「チヌ」「キノ」国=黄の国だったのである。
だからそれは「地の」「大地=黄」の国だった。
その「ティ」という発音に「大・臺」と当て字されたため、
それを「オー」と読む人が「倭」としたり、
「ダイ」と読んで隋使の斐清に
「俀(ダイ)」と当て字させることになったりした。
愛媛が首都だったことは『古事記』の「国生み」の部分に
四国全体を
「伊予之二名島(いよのふたなじま)」と呼んでいることでも、
はっきり証明されている。
さらに細かく宇和島市の地名を検証すると、
市の中央に城山をはさんで「丸の内」町がある。
この「内」という地名は、
邪馬臺国の故地・鹿児島県の隼人町にある
鹿児島神宮の所在地の地名であり、
それが「宇治」と同じもので、
伊勢神宮をはじめ邪馬臺の移動を示す土地に
必ず分布していることは、
『ヒミコ』など本シリーズでも、たびたびお話ししてきた。
これは沖縄の「ウチナ」から現在の東京の丸の内に至る、
皇居の所在を示す一連の「内」の一つで、
「内裏(だいり)・大内山」といった
皇室用語とつながった重要な歴史地名遺物なのだ。
またこの伊予を代表する
古代豪族・越智(おち)氏も、
このウチ・オチの名乗りそのものである。
丸の内の「丸」は、
後世に城内の建物を「何の丸」と
呼んだ時代以後のものとしてしまうと、
古代とは何の関係もなくなるが、古音は「ワニ」だから、
唐代以後にこの政権を「倭人(ワニ)」とみてつけた場合もありうるし、
「カン」という発音を考えると、
これは壹與が神道の祖であることを重視して、
壹與当時に、
彼女を「神または上(かみ)」とした名残りということになる。
「五彩圏」
「吉備」
倉吉 竹野
↑ ↑
新見←津山→作東 北緯35°線 作東←西脇→大津
↓ ↓
岡山 明石
「愛媛俀国時代」
呉
↑
福岡←愛媛(松山)→徳島
↓
高知
宇和島
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『紀伊国』
『吉備国』
『倭の五王』
『裴世清』
『隋書倭国伝(冒頭)』
『隋書卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國』
『隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 倭國』
『三國史記 卷第二十七 百済本紀第五 武王』
『『古事記』の「島生み」』
『宇和島』
『伊勢神宮』
『皇居』内裏(だいり)・大内山
『越智氏』
『丸』曲輪
『壹與』台与
『神道』
『お上』
『神』
『新羅の完全独立は478年以後』
従来はこの愛媛の「俀(だい)国」と、
別の「倭(ウワイ)国」の二国をはっきり区別できた学者がいなかった。
それは邪馬壹(やまいち)国と邪馬臺(やまだい)国との区別もつかず、
ましてやその二つの国が対立して戦ったことも、
その結果がどうなったかも全然わからず、
ただ「○○○こそ邪馬台国なのだ!」という
単純、幼稚な空想説を主張するだけの能力しかなかったからである。
しかし私たちは、
過去に誰も明らかにしたことのない真相を発見し続けてきた。
そして今、
その「俀国」が倭、阿波、新羅、大和、高麗といった
国々の名を作り出した事実を新たに発見した。
それらの国の名は宗主国の四方に配置された地域国を、
「東西南北」を示す色の名で表現したものだったのだ。
その中に「白日別=新羅」が入っていることは重大なのだ。
なぜなら邪馬壹国の
女王・壹與がその新羅の初代・赫(ハク)居世王だったことは、
もう動かない事実になっているからである。
中央政府を「ウチヌ=大(ウ)・黄(チヌ)の」国と呼び、
西を「シロ=斯盧(シロ)=白日」と呼ぶこのシステムは、
最初に統一して名をつけるのでなければ、
あとで国を寄せ集めても五つもの国名はうまくそろわないし、
うまく並ぶものでもない。
それらの国名は最初からワンセットにして作られたものである。
だから新羅はあとで組み入れられたものでは絶対にないのである。
新羅は戦争に負けて倭国の俀(だい)国になった独立国ではなく、
初めから「西の地方」という意味でつけられた名前だったのだ。
では、そんな地名のつけ方はほかに例がないだろうか?
大阪市はいつからか、同じような地名をもっていた。
東成(ひがしなり)、
西成(にしなり)、
南(みなみ)、
北(きた)という区(く)があるが、
これは大阪市になってからではない。
なぜならその「ナリ」は「済」と書いても
「ナリ」と読めるからで、
それは本来「百済」の東西という意味の
古代の地域名だとわかるからである。
だから新羅も最初はただ「西」を意味するだけの地名で、
白日別は愛媛からみた場合だった。
「新羅」はシンラであってシラギとは読めない。
むしろ「シラ日(ジツ)」のほうが、ずっと「シラギ」に近い。
『三国史記』は、
新羅を生まれながらの完全独立国とみて歴史を編集しているが、
事実は最初はある国の一部分の地名だったものが、
やがて後世になってから独立したのだとわかる。
それはいつか?
倭の五王が歴代にわたって記録しているように、
新羅は倭に属していたのであり、
最後の倭王・武が上表した
478年までは、
間違いなくその状態が続いていた。
新羅の完全独立はどんなに早くても、
5世紀以後だったのである。
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『宗主国』
『百済』
『新羅』
『東成』東済
『西成』西済
『国生み』白日別
『愛媛』
『三国史記』
『倭の五王』
『宋書倭国伝(全文)』
『梁書倭伝(部分)』
『『梁書』帝紀(抜粋)』
『梁書卷五十四 列傳第四十八 諸夷 東夷 倭人』
『倭・倭人関連の中国文献』
『俀国は邪馬壹国の後身』
だからこれまで新羅は邪馬壹国の後身だ、
とだけいってきたが、
ここまでくるとさらにより詳しく真相がみえてきた。
壹與は新羅の始祖であっただけでなく、
本当は「俀国」を中心とする五カ国全部の始祖だったのだ。
ではなぜ「俀国」が中心なのか?
それは先にお話しした
『古事記』の[国生み]の四国を
「伊予の二名島という」が証明している。
壹與が統一政権の女王で、
東は徳島から西は福岡まで、
北は呉から南は高知までを傘下にいれていたとすれば、
当然、四国全体は彼女の支配下にあった。
それが「伊予之二名島」だというのだから、
その「伊予(いよ)」は「壹與(いよ)」のことでなければならない。
「イチ、ニ、サン」を「イー、ニー、サン」と発音するのは
四国だけでなく、関西に広く分布する方言である。
だから壹與を「イヨ」と発音する者がいても少しも不思議ではない。
では「二名島」とは何をいうのだろう?
これは方角を表す色の名ではない。
それなら少なくとも四ついるからだ。
四国全体を意味する二つの名?
それは四方の国々よりも一段、上の国名でなければならない。
それは何か?
「俀(だい)国」がその一つだから、残る一つは「倭国」である。
それは色の名も兼ねたが「ゥオー=淡」の国、
「阿波」で、それもまた四国を代表していた、
とすれば初めて「二つ名のある島」が実感になる。
邪馬壹国は南九州から北上して福岡まで傘下に収めただけでなく、
さらに東に進んで、中国地方から四国まで統一していたのだ。
その人々は東西南北の国名を陰陽五行の色の名で統一していた。
だから新羅の前身である「斯盧国=白日別」が存在したのである。
そのシロ国王の名には
「尼師今(にしきん)」という称号がついている。
これは「西の王(き)の」という日本語である。
白は西の色だから「シラギ」そのものが、日本語の名だったのだ。
写真:「学習院大学・吉野裕子教授と私(加治木義博)(タイ国ドンムアン空港にて)」
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『新羅』
『隋書』邪馬壹国→俀国
『国学网站 — 原典宝库』
『壹與』『赫居世居西干』
『島産み』『古事記』の[国生み]
『国生み』
『伊予国』
『愛媛』
『阿波国』
『陰陽五行思想』
『朝鮮の君主一覧・新羅』
『吉野裕子』
『加治木義博』
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