2012年1月30日月曜日

ギルガメシュの竜退治と八俣大蛇退治




 《ギルガメシュの竜退治と八俣大蛇退治
 《ギルガメシュの竜退治と八俣大蛇退治

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 ウィキペディア百科事典によれば

 「ギルガメシュ(Gilgamesh、在位:紀元前2600年頃?)は、

 古代メソポタミア、シュメール初期王朝時代のウルク第1王朝の伝説的な王。

 数多くの神話や叙事詩に登場するこの王は実在の人物であったと考えられている。

 現代においても古代メソポタミアの王の中で最も名前の知られた王の一人であり、

 数多くのフィクション作品に彼の名が使用されている。」と書かれている。

 ※出典:Wikipedia:ギルガメシュ
     
 出雲地方は、その古代製鉄の我が国における最大の先進国であって、

 スサノオの尊が八俣大蛇を退治て、

 『天(アメ)の叢雲(むらくも)の剣』を手に入れたという伝承は、

 古代オリエントとの間の、うっかり見過ごせない重大な文化記録の積層を形成している。

 世界には、   スサノオの尊だけでなく、

 バビロンの   ギルガメシュ

 ギリシャの   ペルセウス

 インドの    クリシュナ

 インドネシヤの アジサカ

 北欧の     シグルト

 ドイツの    ジークフリート

 キリスト教諸国のセント・ジョージサン・ジョルジュ

 など、たくさんな竜退治伝説がある。

 (加治木義博著『日本人のルーツ』保育社・カラー・ブックス=1983年。参照)

 この『日本人のルーツ』でも指摘しておいたが、これらの伝説の主人公の名などが、

 互いに方言関係のように関連しあっていて、無関係でないことがすぐわかるので、

 スサノオの尊だけを切り離して考えることはできない。

 ドイツの<ジークフリート>などは、

 むしろ逆に日本から向こうへ伝わった可能性が濃いことは前にもお話ししたが、

 ここで全体の共通牲につきお話しすることにしよう。

 まず<ギルガメシュ>の<ギルガ>はで、

 <ジョージ>と同じだとすぐわかる。

 もそのままで<ジーグ>だから、

 ドイツ読みなら<ジークフリート>の前半分だとわかる。

 その<ジークフリート>を縮めて北欧語化すると<シグルト>になる<。

 Georgeを2分してを<グ>、を<リ>にして清音化すると<クリ>、

 これに<ギルガメシュ>の語尾「シュ」を付けると<クリシュ>になる。

 <アジサカ>と<スサノオ>だけが合わないが、それには次のような理由があるからである。

 <スサノオ>は既に解明済みの通り、

 今はイラン領になっている<スーサ>の古名「スサ」の王という日本語名であるから、

 ギルガメシュ伝説が伝わっただけの、架空の人物ではない。

 スサ出身の王またはその王統を継いだ王が、

 日本に来て体験した<神託>どおりの事件を賛嘆して、

 倒した敵を竜にたとえた比喩でなければ、

 総ては幼稚な怪物退治のお伽話になってしまう。

 それでは無意味だから、

 実在した「スサの王」の史実の記録として、後世に伝えたのである。

 上記で比較した伝説とは根本的に性質の違う現実に起こった史実を、

 「ギルガメシュの竜退治に、なぞらえた記録だ」と言うのが、

 最も正しい表現である。

 アジサカはインドネシヤ語には類例のない名である。

 ところが日本には、そのままの名の人物が『記・紀』に登場している。

 それは阿遅鉏高日子根で、これが<アレクサンドロス>への当て字であることは、

 既によく御存知の名乗りである。

 この鉏の字は我が国の古音では<サカ>とも読む。

 だからインドネシヤのこの伝説は、日本から伝えたものであることは疑いない。

 するとこの<スサノオ>は、幾人もいる<スサノオ>のうち、どの<スサノオ>か、

 その実体が、この名によって明らかになる可能性が見えてくる。

 オリエントとの交流は一方通行ではなくて、

 文化をもった人々の往来が激しかったという証拠にもなる。

 も少し詳しく考察してみよう。

 もう一度、簡単に繰り返すと、

 <ジークフリート>は、邪馬国の<邪>、狗奴国の<狗>、夫余国の<夫余>に人をつけた

 屋久島から高句麗までの王だった垂仁天皇の名乗りに合う

 「邪狗夫余人」を、<ジャクフリヒト>と発音したものによく合い、

 その妻・<クリムヒルト>も高麗国日霎人・<クリマヒルト>と書くと、

 高句麗の姫または女王という意味になって、その結婚は不思議ではない。

 だからこの伝説は日本のものが、ドイツや北欧へ伝えられたもので、

 その時期はハンガリーやハンブルクが生まれた

 「フン人=八幡人=ハン」の欧州侵入によって移植された、

 我が国からモンゴル、そして欧州へと運ばれた伝説であって、

 オリエントから直接移ったものではない。

 それは<ヒトラー>は<日虎>・<ミユラー>は<三浦>・<ザイツ>は<財津>と

 いった複数の元日本姓が、ドイツに現実に存在することもまた、

 この移転、移住が事実であることを証言している。

 遠隔地のドイツにそれが実在する以上、

 はるかに近いインドネシヤに阿遅鉏高日子根の名があっても少しも奇妙ではない。

 そこには今も<アレクサンドロス>を名乗る族長も現存しているのである。

 『記・紀』の阿遅鉏高日子根は天の稚彦(若日子)の死後、登場する。

 <稚彦>は卑弥呼の夫・ソナカ王子・仲哀天皇で、

 卑弥呼政権が倒れたあとに出現した天皇は垂仁天皇である。

 彼は八俣大蛇の特徴をもつ卑弥呼政権を倒した<スサノオ>、その人なのだ。

2012年1月29日日曜日

桶と樽




 《桶と樽
 桶と樽

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 「桶と樽の重要性」 

 日本にある大抵のものは、

 すべて海外で簡単に見つかる、

 というような気持ちになってしまうと思う。

 だから甘粛省甘南地区卓尼(チョニ)県の

 写真:少女(天秤棒水桶)の写真にも、

 それほど驚かれなかったのではあるまいか。

 「桶」や「樽」というのは、

 近年のプラスチックや金属全盛時代にはいって、

 だいぶ姿が少なくなったが、

 それでも珍しいというほどではない。

 だれでもが知っている木製器具である。

 そのルーツは?と問えば、

 たいていの人が「中国」と答える。

 それはどちらも漢字名だからである。

 しかし、

 実は中国には唐代になるまで

 「桶」も「樽」もなかったのである。

 それはむしろヨーロッパ文明だといっていい。

 ヨーロッパにワインの樽が転がっている時、

 中国人はそんな器具があることさえ知らなかった。

 では桶という文字は後世になってから作られたのかというとそうではない。

 有名な『史記』に「斗桶権衡」という言葉が出てくる。

 だからあるにはあったが、意味がちがっていたのである。

 斗も桶も桝のことで日本の「オケ」に当たるものではない。

 樽の方も中国では銅または陶器で作った

 「尊」という大コップがあっただけで、

 たとえば日本の酒樽に当たるものは、

 すべて焼き物の甕か壷であった。

 しかし、日本では焼物の方が大変な貴重品で、

 農業用の肥桶や家庭の水桶は、

 ごく一般的なものであった。

 それは中国以外の土地から農業と共にやって来たのである。

 「誤解を生む大国名」

 中国に桶がなかったというと、

 それではチョニにもなかった、

 ということになってしまう。

 チョニは中国の甘粛省の町の一つだからである。

 だがこれは正確ではない。

 チョニは古代は中国に属していなかったのである。

 こうしたことはインドについてもいえるし、

 タイやラオスでも同じである。

 国というのは大きくなったり、

 小さくなったり、生まれたり消えたりする。

 元の時代の中国はヨーロッパの一部までとどいていたのであり、

 今の北部タイは近世までは別のラオス人の国であった。

 そして、太平洋戦争前と後で、

 世界地図がどんなに変わったかは常識である。

 それまでフランス領インドシナといっていた地域が

 ベトナム、ラオス、カンボジアになり、

 オランダ領インドシナといっていた地域が、

 インドネシアとして独立したのである。

 いうまでもなく広大な地域をさす中国とかインドとかいう名で、

 ルーツを示すのは誤解のもとである。

 インドには840におよぶ方言があるといわれる。

 その中には

 色の白いアーリア系から、

 黒いドラビダ系、

 黄色のモンゴロイド系、

 小人のアンダマン黒人などまで含まれているし、

 中国にも漢民族以外に

 満州系や

 蒙古系、

 イラン系といった大族があり、

 多数の少数民族を含んでいる。

 それがまた間断なく移動している。

 だから漠然とした表現の北方人とか南方人とかはもちろん、

 インド人、中国人といった表現も正しい答えをくるわせる。

 学問上はもっと精密な表現が必要である。

 "チョニは中国の甘粛省


 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『桶』

 『樽』

 『斗』

 『桝』

 『尊』青銅器

 『甕』

 『壺』

 『天秤棒』

 『ワイン』

 『史記』

 『甘粛省甘南(Gannan)地区卓尼県(Zhuoni)』チョネ県

 『甘南チベット族自治州』

 『甘粛省・甘南チベット族自治州ランムー寺の晒仏祭』

 『チベット』

 『ラマ教』チベット仏教

 『アーリア人』

 『ドラヴィダ人』ドラビダ人

 『モンゴロイド』

 『アンダマン諸島』

2012年1月28日土曜日

結婚披露宴で「なぜ謡:高砂か!」



 《結婚披露宴で「なぜ謡:高砂か!」
 結婚披露宴で「なぜ謡:高砂か!」

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 『高砂』の起源と読み方

 日本式の結婚式には欠くことのできないものに

 『高砂(たかさご)』という謡曲があります。

 そこでも翁と嫗が

 「高砂の尉(じょう)と姥(うば)」と呼ばれて出てきます。

 『竹取物語』と『高砂』。

 この二つの関係を調べてみましょう。

 謡曲『高砂』は世阿弥(ぜあみ)という名で知られている

 観世元清

 (足利義満らに仕えた観世流二代目=1443<?数説あり>年没)の作で、

 始めは『相生(あいおい)』という名でしたが、

 いつか謡い出しの「高砂」の方が

 題名として有名になったものです。

 その、あらすじは、

 肥後(熊本県)の住人の一人の神官が、

 高砂の浦で老人夫婦に出会って、

 高砂の松と住吉(すみのえ)の松とが、

 なぜ相生の松といわれるのか、その由来を教えられます。

 そこで神官は、その有名な

 「高砂や、この浦船に帆をあげて……」という謡の通りに

 高砂の浦から船出して、

 住吉の湊に「早や、住吉に着きにけり」と到着すると、

 前の老人が住吉明神になって現われ、

 美しい月光を浴びながら太平の世を祝う舞を舞って、

 次第に消えていく。

 という大層、夢幻的で優雅なものです。

 今、高砂の尉と姥として飾られている人形や絵は、

 この能の装束(しょうぞく)を写したものが多いために、

 日本人の思考はこの謡曲で中断してしまって、

 全て世阿弥の想像の産物だと思いこみ、

 それ以上の追究をやめていたきらいがありました。

 しかし詳細に、

 この謡曲『高砂』のモチーフを分析してみますと、

 世阿弥は創作者ではなく、

 彼は古くから伝わっていた伝承を、

 香り高い文芸作品に仕立てあげた

 「脚色者」だったという事実がはっきりします。

 この「高砂」は現在の兵庫県高砂市のことだと思われていますが、

 伝承が生まれた当時の高砂は、

 『桃太郎≡竹取物語』の老夫婦がいた

 「タカの国」でなければなりません。

 「タカの国」と「タカ砂」とを比較してみると、

 砂を「サゴ」と読んだのでは答えは出ないが、

 「スナ」と読んでみると、何と、ぴったり一致するのです。

 日本の古語の特徴の一つに「ス」と「ツ」の区別がなかったことがあります。

 だから古代には「スナ」と「ツナ」は同じ言葉だったのです。

 また「ナ」は国のことですから、「ス国」と「ツ国」、は同じです。

 これを「高の国」と比較しますと、

 助詞「の」に当たる古語は「津=ツ」ですから、

 「ス国=ツ国=津国」と、謎がほぐれてきます。

 高砂とは「高津国(タカズナ)」という発音に対する

 別の当て字だったのです。

 この「高津国」は仁徳天皇の皇居が

 「高津の宮」と呼ばれたことと関係があります。

 その宮は大阪市にあったとされますが、

 大阪には「住吉」もあります。

 ところが高津の宮は上町台地という高台にあって、

 そこから住吉へは船では行けません。

 だから大阪の地名は後世に南九州から

 幾つもがセットになって大阪へ、一緒に移動してきたものです。

 だから「高砂」はなくて「高津」しかないのです。

 もちろん兵庫の高砂も大阪と同じく移動した遺跡なのです。


 『高砂』はなぜ目出度いのか?

 ここでその謡曲『高砂』の主題は何か?

 考えてみましょう。

 それはもとの名が相生だった通り、

 高砂の松と住吉の松とが、「相生」であるということが中心になっています。

 「相生」とは一体、何のことでしょう?

 「相」という字にはいろんな意味がありますが、

 この場合は「相手」とか「相身互い」とかいう、

 相対する状態をいっています。

 だから相生とは

 「同じ場所に相対して生えた(松)」という意味です。

 ところが実際には、

 その松は、高砂と住吉にわかれて別々に生えていた。

 だからこそ肥後の神官は

 「なぜ別々に生えているのに相生の松というのか……?」と疑い、

 老夫婦は、その疑問に答えたのです。

 その答えは、非常に目出度いとされるほどですから、

 「別れ」という悲劇を吹き飛ばす内容をもっていなくてはなりません。

 それは、今は別れ別れになっていても、

 もとは一つ、心も何時までも一つだから、

 それで「相生」の松というのだ、という以外にありません。

 それはまた、その老夫婦の身の上でもあって、

 二人は「松の化身」でもあることがそれとなく暗示されています。

 しかしそれだけでは実のところ、

 なにが「非常に目出度い」のか、まだよくわからないと思います。

 『高砂』は、離ればなれになっても、

 白髪の老人になっても、なお愛情は変わらないことを

 「相生」という言葉に掛けて、

 「あい(愛)」と「おい(老い)」の美しさ、

 悲しさを歌ったもので、

 厳密にいえば、そこには「目出たい」という要素はありません。

 前に見た通り、この老夫妻が目出たいとされる理由は、

 「娘が玉の輿に乗って筑紫の女王」になり、

 両親もまた、それぞれ

 「沖縄と奄美大島の王と女王」として、

 白髪の老人になるまで、末永く栄えたという点以外には見つかりません。

 ところが世阿弥の『高砂』では、かんじんのこの部分が抜けています。

 だから何が目出度いのかさっぱりわからない。

 わからないのに世間ではこの『高砂』を目出度いものとしてきました。

 それは当時の人々がもとの話をよく知っていたという証拠なのです。

 だから世阿弥は周知のことを

 今さら詳しく物語る必要はないと思っていたのです。

 絵:高砂(たかさご)

 伝統工芸「和紙押絵」継承者:加治木花象作「高砂」屏風による。

 足もとには従来の州浜(すはま)の代わりに沖縄と奄美大島の地図を措き加えて、

 <オキナ>と<オウナ>の語源が平に見えるようにしてあります。

 「住吉」の名の語源

 嫗を特定している「住吉」とは奄美大島でなければなりません。

 しかしなぜそれを「住吉」と名づけたのでしょうか……?

 奄美大島の地名を調べてみますと

 「住用村=スミヨーそん)」という村があります。

 「村」の代わりに「之国」をつけると

 「住用之国=スミヨシ国」になるので住吉はこれに対する当て字です。

 では「スミヨー」は何を意味するのでしょう?

 古代日本語には<ス>と<ツ>の区別がなかったことをお話ししましたが、

 これを「スミ」にあてはめてみますと「ツミ」になります。

 「ツミ」は『記・紀』に「津見」「積」「祇」という当て字で出てきます。

 ワタツミ=綿津見・海津見の神、

 オオヤマツミ=大山積・大山祇の神、などと書かれていて、

 それは山幸彦が訪れた海神国を始め、

 日本神話の神名、ことに海神の首長クラスについていますので、

 海人の王を意味する敬称だとされています。

 そうだとすれば「津見」は文字どおり

 「津=港・海」を「見る=監視する。支配する」

 という意味の官名だということです。

 次は「ヨー」ですが、

 古代の「ジョ」が後世「ヨ」に変わったことを先にお話ししました。

 だから「ヨー」は古くは「ジョー」と発音された音なのです。

 壹與の與が「ジョー」に対する当て字で、

 「嬢・女王」を意味することも、すでに確認しました。

 以上を考えあわせますと

 「スミヨー」は

 「津見の女王=海・港を支配する女王」という名になります。

 これは「住吉の大神」が古来「海の守護神」として、

 漁業や船舶関係者に崇拝されている事実と完全に表しますので、

 住用は間違いなく住吉の語源だったのです。

 「住用」が「住吉」になったのは、

 南九州語の「良う」は大阪語の「良し」ですから、

 神として祭られた場所によって変化したのです。

 でも「嫗」自身は奄美大島の支配者として、

 「海=ワタ、津=ツ、女王(メ)=ミ」と呼ばれて、

 住用を都として住んでいたのです。

 これで赫夜姫(かぐやひめ) だけでなく

 『竹取物語』に登場する人々の全貌がわかりました。

 これはあなたにとっては、思いがけないものだったかも知れません。

 中には私(加治木義博)の分析は「我田引水」過ぎる、

 と批判的な方もおいでになると思います。

 しかし、それはページ数が限られているために

 多くの説明をやむなく削って省略したからなのです。

 もっと詳しい充実した証拠をお読みになりたい熱心な方は、

 どうぞ私の他の著書をお読みください。


 『コメント』

 「高砂」の言葉から、地名を探索しました。

 TBさせて頂きます。

 笑覧ください!!   2007/6/28(木) 午後 10:47

 結婚を9月に控え、披露宴で手配をした

 「高砂」について調べていて

 このHPにたどり着きました。

 いろいろと他の説明を読んだ後でしたので、

 ここでもやーっとかかっていた雲が晴れた感じがします。

 ありがとうございました。

 2007/8/8(水) 午後 11:21 [ ゆか ]


 「高砂」地名 === (たかさご)の読みしかない!!

 と思っていました・・・2007/6/28(木) 午後 10:48


 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『謡曲』
 『高砂 (能)』
 『高砂市』高砂の浦
 『結婚式』
 『結婚披露宴』
 『竹取物語』
 『かぐや姫』赫夜姫(かぐやひめ)
 『桃太郎』
 『世阿弥』
 『足利義満』
 『相生の松』
 『砂』
 『高津宮』
 『上町台地』
 『住吉』
 『住吉大社』
 『住用村』
 『記・紀』
 『ワタツミ』綿津見・海津見の神
 『オオヤマツミ』大山積・大山祇の神
 『山幸彦と海幸彦』
 『日本神話』
 『奄美大島』

2012年1月27日金曜日

四神と五彩圏・5



 《四神と五彩圏

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 『こうして「天皇」が生まれた』

 陰陽寮の仕事は、

 建築や行事の方位の吉凶。

 行軍、旅行の方角と吉凶。

 季節と暦の管理。

 風水害の予知、予防。

 病気の予防と治療。

 基地の吉凶など、

 広範なものだが、

 最後のものを「風水」と呼ぶのは結局、

 墓地が人家の風上にあっては臭気でたまらないし、

 洪水で流されても困るというので、

 風向きや水路を判定するところからきた名にすぎないが、

 こうした心くばりがあの諸葛孔明の知謀のもとだったし、

 ハイテク機器としての鏡の利用も改良も、

 同じ科学精神の産物だったのである。

 孔明は蜀の人だったが、

 そこは今の成都を中心にした地域で、

 日本人そっくりの人々が大量にいる地域

 (『コフン』参照)である。

 諸葛という二字姓も中国人よりは

 日本人に近いことに注目すべきであろう。

 それよりも重要なのは、

 道教の護符が「鏡・剣・玉」だということである。

 玉は曲玉ではなく宝珠だが、

 曲玉は道教の「太極図」そのものである。

 まだ仮定だが「徐福が日本に来ていた」とするなら、

 縄文後期の石製曲玉は彼らの太極信仰の遺物だった可能性がある。

 そして道教は日月のほかに星を崇める。

 北極星を太上老君と呼んで天上最高の神としているのもそれだから、

 日の天照大神、

 月の月読みのミコトしかない日本は無関係と考える方もあると思うが、

 高松塚古墳の天井には二十八宿の星座がきちんと描かれていた。

 そんな知識は古代の方士、

 唐代の道士、

 平安時代の陰陽博士しか知らないことで、

 壁画を描いた当時の絵描きが知っていた知識ではない。

 そして古代の道教では同じ北極星を「天皇大帝」と呼んでいたのだ。

 「天皇」が中国語であるということはいうまでもないが、

 中国では皇帝という呼び名しか使わない。

 あるのは唯一のこの「天皇大帝」だけなのである。

 これも日本で、

 わざわざ「天皇」という称号を採用したのがなぜだったかを、

 はっきり物語っている。

 それは「三角縁神獣鏡」とも

 『五彩圏』とも、切っても 切れないインド~アーリア系の

 「シンドゥ=古形道教」の大王だったからである。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『四神』

 『天皇』

 『陰陽道』

 『陰陽道』

 『風水』

 『諸葛孔明』諸葛亮

 『蜀』

 『成都』

 『道教』

 『曲玉』

 『宝珠』

 『太極図』

 『徐福』

 『北極星』

 『太上老君』

 『天照大神』

 『ツクヨミ』

 『高松塚古墳』

 『二十八宿』

 『天皇大帝』

 『天皇』

 『皇帝』

 『三角縁神獣鏡』

 『シンドゥ=古形道教』ヒンドゥー教=『道教』


 西域の「イリ」は沖縄語の国名

 インド~アーリア系だというのは、

 それが狭い小範囲のものではなかったからである。

 『ヒミコ』とこの本で、

 彼女と壹與が金髪だったことをお話ししたが、

 その人々が大集団を作っていた地域は今も祁連(きりん)と

 呼ばれている山脈の北、

 楼蘭の西、新疆自治区に当たる地域から、

 旧ソ連のキルギス共和国の一部で、

 いわゆる西域の最西端である。

 そこに漢代に「伊列・伊黎(イリ)」と書かれた国があった。

 これは西を「イリ」と発音する沖縄語と完全に一致する。
 
 その東にあったのが

 ヒミコの遠い故郷だったと話した「烏孫(ウーソン)」である。

 「鳥(ウー)」も本土五の「オオ=青」で東だ。

 その南には「大月氏国」があるが、

 これは「大月(ウカツ)」で「大和津=赤」に合う。

 その烏孫の真ん中が、

 『コフン』でサムライそっくりの人々の青銅像をご覧にいれた、

 あの「滇=テン国」だったのだ。

 ギリシャ人を意味するキリン山脈やキルギス国は「黄」でもある。

 洒落じゃないか「キリ」がないくらい大量の証拠が見つかる。

 この本は学術書ではないので、

 発見したことの中から適当なものだけを選んでお話ししている。
 
 あげた証拠は発見量の1パーセントにも満たないが、

 それでも十分、ご理解いただけたと思っている。

 それはどんなに角度を変えて検討してみても、

 すべての答えが一致して、
 
 結論が全部一つに結びつき、

 決して変わらないからである。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『四神』

 『アーリア人』

 『祁連山脈』

 『楼蘭』

 『新疆ウイグル自治区』

 『キルギス』

 『イリ川』伊列・伊黎(イリ)
h 『イリ地方』伊列・伊黎(イリ)

 『月氏』

 『テン (中国史)』


 『大化改新が発生した本当の環境』

 これで「大化改新」のあった

 「倭国」とはどんな国だったかが明瞭にわかった。

 従来まったく外国だと信じこまされていた朝鮮半島の国々も、

 みな統一

 「五彩圏」連邦内の地方自治体のようなものだったのであり、

 倭国とは「東の都」といった意味だったのである。

 また過去の三角縁神獣鏡説が支援した

 「邪馬台・畿内説」とは、

 神武天皇以後の歴代天皇が

 紀元前後から奈良に中央政権をもっていたという説で、

 「北方騎馬民族説」とは、

 その神武系天皇家が、

 北方から侵入してきた外国軍によって征服されて滅亡し、

 国民は今に至るまでその

 「外国人征服者の子孫である別の天皇家」に

 支配されているのだという説である。

 だが「五彩圏の発見」によって、

 それはどちらも間違った空想に

 過ぎなかったことが完全に立証された。

 鏡は畿内に中央政権があった証拠ではなく、

 政変や古墳の変化も五彩圏を構成した

 人々の間の内政問題で、

 外国による侵略や滅亡の証拠ではなかったのである。

 だがこれと対照的に

 「大化改新」は過去の説のような

 「倭国内だけの有力者排除」ではない。

 規模も意味も実態もすべてがまれにみる大変動だったのである。

 神武以来、奈良に朝廷があったという、

 ありもしない錯覚のままの、

 在来の大化改新観のままでは、

 日本の歴史は野蛮な明治の教科書から少しも進歩しない。

 次巻の、その意外な「真相」にご期待いただきたい。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『四神』

 『大化の改新』

 『三角縁神獣鏡』

 『邪馬台国』

 『騎馬民族征服王朝説』

 
 『倭人(ウワイト)ワジン関連年表』
 
 紀元前(BCE)

 (※BCE=共通紀元以前。

 「BC=キリスト以前」は学術上は不適当) 

 18世紀 バビロニア第一王朝滅びる。
      カリエン人(和人)の大移住始まる。

 1523 中国に殷人の商帝国興る。
      その繁栄は宝貝貨幣によって支えられていた。

 10世紀 中国。殷・商帝国滅亡。周帝国に変わる。
      伝説では老子はこのころの人とされる。

  770 東周建国する。

 7世紀後半北インドに第1次マガダ国ほか16大王国生まれる。

  660 『日本書紀』はこの年を神武天皇の即位年とするが、
      それはこのマガダ国の誕生と
      重なるから、なんらかの記録があったものと考えられる。

  440 マガダ国、ガンジス河流域統一。

  322 チャンドラグプタ、新・マガダ国建国(マウルヤ王朝)。

  268 マガダ国アショカ王即位。

  244 アショカ王による仏典結集。
      東西南北へ仏教宣布団を派遣。
      東はソナカ宣布団が
      開拓して、ミャンマーから、
      後にインド・シナ半島、インドネシア各島に及び、
      台湾から沖縄、そして九州に達した。
      このころ日本列島に水稲、弥生土器が作られ始め、
      本州西部に銅鐸文化が広がる。
      インド以北はミジマ宣布団が開拓する。


  221 秦の始皇帝、中国を統一、即位。

  219 徐福、ホーライ島へ出発。
      このころ台湾がホーライと呼ばれている。

  210 徐福、またホーライへ出発。
      秦の始皇帝、死ぬ。

  160 地中海人種の月氏(ユェチ)、
      シヤケ族の国土を占領、シヤケ族の移動始まる。

  150 シヤケ人、インド北部、ネパールへ侵入。

  145 司馬遷(シマセン)生まれる。

  140 地中海人種の烏孫(ウーソン)」人、
      月氏の国土を占領、月氏の移動始まる。
      漢の武帝即位。

  121 漢の武帝、金人を手に入れて大神とする。

   86 司馬遷死ぬ。

   70 月氏、烏孫の敦煌周辺を占領、仏教圏生まれる。
      烏孫の移動始まる。
      烏孫人の一部は長江を下って、旧[呉]地域などに移住。

   53 烏孫国大乱。

   40 この年までに高句麗建国。


 紀元後(CE)(※CE=共通紀元)

   26 後漢の建武二年。委奴(いな)国、
      後漢・光武帝に朝賀し印綬を受ける。

   45 後漢の伏波将軍・馬援(マエン)、
      烏丸(ウカン)を攻めて敗走。

   49 烏丸の81君長ら漢に帰化、周辺守備につく。

   57 後漢の建武中元二年、委奴国、後漢・孝明帝・荘に朝賀。

  109 後漢の永初三年。
      烏丸、鮮卑と漢を攻めて敗け、親漢都尉にされる。

  168 後漢の孝桓帝死に、孝霊帝即位。
      このころ初代卑弥呼、連邦女王に共立される。
      これが『記・紀』の神功皇后の初期の記事に一致し、
      葛城襲津彦も登場する。
      このころが佐賀県基肄(きい)地方が
      黄色の国で伊都(いつ)国が都だった時代。
      弥生時代後期。南鮮に馬韓・辰韓・弁辰の古三韓あり。
      三国とも日本語名の小国で構成。

  234 諸葛孔明、死ぬ。

  237 魏の景初元年、烏丸の冠婁敦(カフロウドン)、魏の幽州刺史、
      毌丘倹(カンキュウケン)に降伏。

  238 呉の赤烏元年。
      (赤烏の年号が入った三角縁神獣鏡が出土している)

  239 魏の景初三年、倭人連邦女王・卑弥呼、
      魏の帯方郡に使者・難升米らを派遣。
      この年号が入った三角縁神獣鏡
      (大阪府和泉市の黄金山古墳から出土)がある。

  240 魏の正始元年、帯方郡使・建中校尉・梯儁、
      卑弥呼に合い、鏡などを届ける。


  244 魏の正始五年、魏の幽州刺史・毌丘倹は高句麗を攻め、
      首都の[丸都]陥落。
      高句麗山上王位宮は北鮮より敗走、行方不明になる。
      このころ粛真(シュクシン)国がある。
      新羅始祖・赫居世
      (邪馬壹国女王[壹與]と諸条件が一致)、沖縄で即位。

  247 魏の正始八年、狗奴国男王・卑称弓呼素、邪馬臺を攻撃。
      老卑弥呼死ぬ。
      これが神武天皇の東征記事の一部になる。

  247 壹與(次の卑弥呼・日葉酢媛)を立てて内乱治まる。
      邪馬臺政権消え、
      邪馬壹国誕生。
      筆頭官「伊支馬」は山上王位宮で
      『記・紀』の神武天皇と垂仁天皇に一致。
      鹿児島県川辺郡(灌奴部(かんなべ))の知覧に
      古代新羅「鶏林(ちりん)」が都する。
      その後、福岡が白日別(しらひわけ)と呼ばれ、
      『三国史記』[新羅本紀]の
      「斯盧(しろ)」時代に一致する。

  304 前趙・成漢、建国。
      これより439年までを五胡十六国時代という。

  366 敦煌(トンコウ)の莫高窟(モコウク)を作り始める。

  407 大夏、建国。

  413 東晋・義熊(ギギ)九年。倭王・賛あり。

  438 倭王・讃死に弟・珎立つ。

  443 倭王・済、宋に遣使。

  449 柔然(ジュジン)、北魏と戦い大敗して大移動する。

  451 倭王・興、宋に遣使。

  452 蠕蠕王・吐賀真、北魏に敗れて逃亡する。

  465 和平五年。蠕蠕王・吐賀真死ぬ。

  465 ?倭王・興死に、弟・武立つ。

  478 倭王・武、宋に遣使、上表する。

  502 梁の高祖即位し、倭王・武を征東将軍にする。

  520 蠕蠕の醜奴(シュウド)可干、母に殺される。
      6世紀の中ごろ、柔然(蠕蠕)の
      アヴアール族、ドイツ北部を支配する。

  581 隋、建国。

  608 隋・大業三年、隋の文林郎・斐清、俀国へくる。
      日本の推古一六年。

  628 隋滅び、唐建国。

  645 三蔵法師、インドから唐へ帰国。

  645 大化改新。

  660 阿倍比羅夫、粛真を討つ。
      唐と新羅の連合軍、百済を攻める。

  663 白村江の敗戦で百済滅ぶ。

  670 倭国、国号を「日本国」に変える。

  672 壬申の乱。弘文天皇殺され、天武天皇即位。

  681 浄御原令(きょみはらりょう)=律令制定。
      このとき陰陽寮を設置したとされる。


  764 淡海三船、天皇の漢風諡号を作る。

  950 このころから陰陽博士をおき、
      安倍と賀茂の二家をこれに当てる。

 1271 中国・元、建国。

 1368 中国・元滅び、明、建国。

 1441 島津忠国、琉球を所領に加えられるが統治せず放置しておく。

 1500 琉球・八重山の英雄ウヤキ・アカハチ、
      琉球王朝に反抗して死ぬ。

 1609 島津氏、徳川家康が対明貿易の拠点にするため、
      督促されて琉球統治開始。

 1616 女真のヌルハチ、中国・満州地区に金(後金)国を建国。

 1636 後金国、清シン(チン)と改名する。

 1661 中国・明、清に滅ぼされて、清朝始まる。


 
 『我が国の四神とは全然ちがう古代中国の方角意識』

 戦前は元旦に「四方拝」を行なう習慣が普及していたが、

 その四方の神の正体は、

 <青竜>・<白虎>・<朱雀>・<玄武>という「四神」である。

 在来の学者は、

 その「四神は中国の文化を輸入したものだ」と、

 さも権威ありげに教えてきた。

 だが中国には我が国の<神道>はない。

 近いものは<神仙>を崇拝した<道教>だけだ。

 その道教の「四神」も隋唐以後になると我が国のものと同じになるが、

 それ以前の方角思想は、我が国のものとは根本的に違っていた。

 その証拠は、
 
 漢の建国史で最も有名な一場面である<項羽>と<劉邦>の

 「鴻門の会」に出てくる。

 常勝将軍の<項羽>はづかづかと席に入ってくるなり、

 西の椅子にどっかと座る。

 <劉邦>は南の席に案内された。

 これは何を意味したか?。

 西の席は東に向き日の出の方角を見る最も縁起の良い最高の席である。

 これは南面する北の席も同じく明るい太陽に対面する意味があったので、

 天皇は南面し、

 最下位の武臣は北面して座るので

 『北面の武士』という特殊な呼び名も生まれたが、

 これは後世の我が国でのこと、

 中国では西が最高の地位を意味していたのだ。

 だから<劉邦>は臣下の座る席に座らされた。

 それも暗く寒々とした北を正面に見る最低の席、だったのである。

 この極端な差別が<項羽>の四面楚歌=悲惨な最期を招いた。

 古代の中国人はこんなに「方角に強い差別意識をもっていた」。

 これが中国本来の<方位信仰>なのである。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『四神』

 『四方拝』

 『青竜』

 『白虎』

 『朱雀』

 『玄武』

 『神道』

 『神仙』仙人

 『道教』

 『鴻門の会』

 『北面の武士』

 『四面楚歌』

 『方位神』


 『隋代には中国にも入っていた我が国の四神』

 これに対して我が国の<四神>は、東西南北にはどの方向も、

 特に尊いとか下座(しもざ)だという差別はない。

 最も尊いのは、中心の「黄」の位置だけなのである。

 ところが中国にも、

 隋代になると東西南北に

 <青竜>・<白虎>・<朱雀>・<玄武>を配置した鏡がある。

 唐代に書かれた小説の『古鏡記』に、

 はっきりと

 「中央の紐(ちゅう=摘(つま)み)には

  麒麟(キリン)が、

  その四方には亀・竜・鳳(おおとり)・虎が

  鋳出されている」と書いてある。

 これで初めて五彩圏の中央の「キ」に、

 「キリン」の「麒」が当てられたことがわかるのである。

 隋唐の支配者たちは中国の先住民ではない。

 <高句麗>という国名とカリエン人の<貝貨交易>と、

 <倭迹迹日百襲姫>と書かれた

 <卑弥呼>たちの「孝霊天皇系譜」で明らかなように、

 朝鮮半島北端の<高句麗>地方は、

 3000年前から沖縄系の人々の居住地だったが、

 それから分かれた「鮮卑」と呼ばれた人々が、

 今の中国東北区から中国に入って、

 <五胡十六国>時代に中国を征服して、

 隋唐時代をっくったのである。

 それは7世紀の初頭以後だから、

 <卑弥呼>時代からははるかに後世である。

 その<卑弥呼>時代以前の中国鏡には、

 <四神>を描いたものなど1面もない。

 さらに考えると

 <項羽>と<劉邦>の<方角思想>は

 「上下階級思想」で、

 敵対支配関係なのに対して、

 我が国の「四方拝」は、

 順序はあるが四方を平等に尊崇する和(なご)やかなものである。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『四神』

 『隋』

 『唐』

 『中国文学・唐代』古鏡記

 『麒麟(キリン)』
 『青竜』
 『竜』

 『白虎』
 『虎』

 『朱雀』
 『鳳』

 『玄武』
 『亀』

 『高句麗』カリエン
 『倭迹迹日百襲媛命』

 『卑弥呼』
 『孝霊天皇』

 『鮮卑』

 『五胡十六国時代』

 『鴻門の会』

 『項羽と劉邦』

 『四方拝』

 『方位神』



 『四神思想は絶対に中国のものではない』

 うっかりしていると、我が国の<四神>の<中央の黄>は、

 <麒麟>の<麒>が語源のように見えるのだが、

 それは何でもかでも古代文化は中国から入ったという、

 根本的に誤った先入観しか、もっていないからで、

 も少し精密に世界史を読みさえすれば、

 我が国の建国以前の世界の先進国は、

 北の中国ではなく、エジプトからバビロンまで、

 すべて西に集中していることがわかる。

 ギリシャとインドは紀元前4世紀には、

 <アレクサンドロス>の東征で一体といっていいほど固く結びついていたし、

 <釈迦>はそれ以前に人類最高の哲学を生んたが、
 
 その母体は西に海をへだてただけの

 <シュメル>(現在のイラク)大文明があったことは、

 その須弥山(シュミせん)(シュメルを象欲したもの)崇拝でよくわかるし、

 インドと中東・西欧は大規模な往来と混血を繰り返していた。

 その証拠に<インド-アーリヤ語>は、

 遠く北欧の隅々にまで行き渡っている。

 また<五彩圏>の<中央の黄>は、<黄泉の黄>でもあったことは、

 <ペルセポネ>の<黄泉戸喫>(よもつへぐい)の説話で、

 古代ギリシャの法律であり、

 その執行者=王を意味する<キ>でもあることがわかるとお話しした。

 この<五彩圏>の色の名の<キ>も、

 <王>を意味する<キ>(君のキ)も、

 ともに日本語なのだから、

 中国語の<麒麟>の<麒>ではない。

 また周囲に配置された<四神>の色名も、

 全て日本語で読んでこそ意味が通じるが、

 中国語の発音では何の意味もなく、

 見つけることもできない。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『四神』

 『麒麟(キリン)』

 『エジプト』

 『バビロン』

 『ギリシャ』

 『インド』
 『アレクサンドロス』

 『釈迦』

 『シュメル』シュメール

 『インド・ヨーロッパ語族』

 『黄泉』

 『ペルセポネー』ペルセポネ

 『須弥山』


 『日本国の色名はデウカリオンの一族から』

 しかしその色名の発音が、ギリシャ語となら共通であること、

 また四方に色の名をつける習慣も、

 共にギリシャ文化の特徴だったことも御存知である。

 それは古代ギリシャの遺跡に今も使われている。

 <アルバニヤ>という国名は、

 <アルビノ>というラテン語で「白の国」だとすぐわかる。

 その首都名の<チラナ>も、

 鹿児島の<開聞>(シラキッ)と<知覧>とに一致する。

 その<白>が<シラキウス>時代には、

 <黒>は<クロアチヤ>、

 <赤>は<アカイヤ>、

 <青>は<アイオリヤ>だった。

 この<シラ>、<クロ>、<アカ>、<アイ>の発音が、

 日本語と共通であることは小学生でもわかる。

 語源は、

 <黒>は<クロノス>、

 <白>はシレノスだったが、

 残りの日本語の色名は、

 ギリシャ神話の大洪水の主役・

 <デウカリオン>の子孫の名から出ている。

 <デウカリオン>は<ピュラー>と結婚して、

 ギリシャを<ヘレニヤ>と呼ばせた絶世の美女、

 あのトロイの<ヘレン>を生んだ。

 彼女は<オルセイス>と結婚して

 <ドロス>と<クストス>と<アイオロス>を生み、

 <ドロス>は自分の国民を<ドリス>と呼んだ。

 <四神>とは無関係だが、

 これが<ミドリ>(緑)の語源になった。

 <クストス>は<クレウサ>と

 結婚して<アカイオス>と<イオン>を生んだ。

 <アカイオス>は<アカイヤ>(赤)を、

 <イオン>は<イオニヤ>を治めた。

 この<イオニヤ>がパーリ語で<ヨーナ>に訛ったから、

 沖縄では<与那国>になってしまった。

 <アイオロス>は<テッサリア>を治めたので、

 国名を改めて<アイオリス>(藍)と呼んだ。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『四神』

 『ギリシア神話』

 『デウカリオーン』デウカリオン

 『アルバニア』アルバニヤ

 『アルビノ』

 『知覧町』

 『クロアチア』クロアチヤ

 『アカイア人』

 『アイオリス』アイオリヤ

 『クロノス』

 『シーレーノス』シレノス

 『イリオス』トロイ

 『ドロス』

 『アイオロス』

 『ドリス』

 『クレウーサ』クレウサ

 『ヘレーン』ヘレン

 『テッサリア』

 『アイオロス』

 『藍』

 『与那国島』

 『パーリ語』


 橙色も「色」という言葉もギリシャから

 ついでに日本語の<橙色>(ダイダイいろ)

 という変わった色の名は、

 どこからきたかもお話ししておこう。

 これは<斧>や<車>や<帆>を

 発明したギリシャ筆頭の大技術家<ダイダロス>が、

 ミノス大王の王妃・<パシバェ>のために作った

 牝牛(めうし)像からきている。

 この牝牛は輝く<橙色の眼>をもっていた。

 だから、その眼にそっくりな<柑橘>を

 <ダイダロスの眼>(メ⇒ミ)⇒実と呼び、

 それが南九州で<デデ>と縮まって変わったものが、

 本土語で<ダイダイ>になったものなのである。

 さらに、ついでにお話しすると、

 可愛い<キューピー>は英語、ラテン語の<クピド>、

 ギリシャ語の<エロス>だが、

 彼は恋の仲立ちをする「色ごと師」である。

 恋愛や恋人を我が国で「色(いろ)」と呼ぶのは、

 この<エロス>が大隅で

 「イロ」と発音が変わったからで、

 それは色情を離れて、

 すべての色の日本語発音

 「イロ」としても使われることになったのである。

 だから<イロ>というものへの認識と、

 その色の名は、ギリシャ人が日本にやってこなければ、

 生まれるはずのない言語だったことがわかる。

 これで日本の色名が

 ギリシャ生まれだということは疑う余地がなく、

 それがいつ、どう使われたか、経過まで明確になった。

 だから四神は

 中国ではなくギリシャ生まれの日本育ちで、

 中国へは逆に日本から、

 <鮮卑人>=<隋唐人>が

 <五胡十六国時代>にもって行ったのだと、

 細部まで詳細におわかり戴けたと思う。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『四神』

 『ギリシア神話』

 『橙色』

 『柑橘』

 『ダイダロス』
 『斧』
 『車』
 『帆』

 『ミノス』ミーノース

 『キューピー』『』

 『ラテン語』

 『エロース』エロス

 『鮮卑』

 『隋』
 『唐』

 『五胡十六国時代』


 『チナ・キノに合うギリシャ地名・テノス』

 だが、まだ完全に解決したわけではない。

 それは最も重要な位置を占めている

 <中央の黄>がギリシャにないことだ。

 そこで見つかったのは<橙色>であって<黄>ではない。

 あらゆる可能性を考えて出た結論は、

 この答は沖縄語が<キ>を<チ>と

 発音すること以外にないということである。

 そこで「沖縄」と新井白石が当て字した

 国名の<ウチナー>を考えてみると、

 <ウ>は<大>という美称として省くと、

 <チナ>が本来の国名として後に残る。

 これは<チヌ>・<チン>・<ツナ>・<キノ>と変化しながら、

 <倭王・珍>を経て現代まで、

 我が国の建国史を貫いて「中央」を意味し、

 最後には「畿内」に至る「キ」の本体として

 実在が確かめられた「巨大な文化財」なのである。

 だから<チナ>は「黄国(キナ)」である。

 ではなぜそれが「国家の中央」を意味するのであろうか?。

 古代ギリシャの名詞を調べてみると、

 これに該当するように見えるものが1つ見つかった。

 地名の<テノス>である。

 これは沖縄では<チヌシ>になるから

 「地主」という領土の所有者を意味する当て字に合う。

 これに助詞の「ン」を挟むと、<チンヌシ>=<テンヌシ>=天主、

 テンヌーシ=<天の御主>=<天の大人(うし)>⇒

 <天皇氏>という当て字もすぐ生まれる。

 しかしこの<テノス>は単なる地名に過ぎず、

 天皇を意味するような何物ももっていない。

 これでは

 「他人のソラ似」「コジつけ」と軽蔑されても文句はいえない。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『四神』

 

2012年1月26日木曜日

四神と五彩圏・4



 《四神と五彩圏

 『参照ブログ』

 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 古代史ブログ講座
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 ひねもす徒然なるままに  

 『大間違いの過去の国語学』 

 その人々が台湾から北上したことに疑いはないと思うが、

 まだ「五彩圏は奈良から南へ南下したのかも知れない」

 と疑う方もありそうである。

 ついこの間まで、鹿児島語や沖縄語は、

 「近畿の言葉が地方へ伝わっていくうちに変化したものだ」

 という説を国語学者が大まじめに主張していたのだ。

 その証拠は「方言」という呼び方だ。

 方言とは「地方の言葉」という意味だが、

 地方というのは「中央」があって、

 それから遠ざかる地域のことだ。

 日本では方言とは

 「中央の言葉である標準語から次第に変化した、地方の言葉」

 という意味なのである。

 しかし、あなたはそれが事実とは正反対で、

 どんなに間違っているか、よくおわかりである。

 沖縄で生まれたり、

 もっと遠くからやってきたりした言葉や名前が、

 次第に近畿地方に移動していった真相をよくご存じである。

 だが過去の国語学者は、全然事実を知らず考える能力ももたなかった。

 まるで逆のことを無理やり学生におぽえさせて給料をとっていたのである。

 「五彩圏」は、

 どちらからどちらへ移動したかという問題も、

 これと無関係ではない。

 答えは古代地名がどんな形で移動しているかを見ればわかる。

 3世紀に『魏書倭人(ウワイト)章』が記録した30の国名が、

 小さな沖縄に原型を残していることは、

 『ジンム』で詳しく検討した。

 それが九州全域に広がったときがヒミコ~壹與時代だったが、

 ヒミコが死んだ直後にも、

 「遠絶の地で詳細はわからない」というほどの

 「旁国」のなかでもとくに極南界にある「奴国」が、

 北上して福岡県南部に移動した事実も、もうご存じである。

 この旁国は

 「遠絶の地で詳細はわからない」というのだから、

 伊都よりもずっと南でないと、北は帯方郡に近いし、

 それは帯方郡使らが通ってきた途中の国々で、

 郡使自身がすでに説明したあとだから話が合わない。

 どんなにみても「奴国」は、

 はるか南の海の彼方から九州の北部へ

 「北上して」移動してきたのである。

 『参照』

 HIMIKO(黄金の女王卑弥呼):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
 
 JINMU(卑弥呼を攻めた神武天皇):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ

 KOFUN(誰が巨大古墳を造ったのか):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ

 WAJIN(建国前夜の巨大連邦発見):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
 
 TAIKA(虚構の大化改新と日本政権誕生):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
 
 YAMATO(謎の天孫降臨と大和朝廷の秘密):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
 
 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『国語学』日本語

 『台湾』

 『奈良』

 『方言』

 『標準語』

 『沖縄語』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E8%AA%9E

 『薩隅方言』

 『奴国』

 『帯方郡』


 北上し東進した「五彩圏」

 この地名の移動は、

 これまでも五彩圏のところで例をあげてお話ししたように、

 実際に点と同じ文字の地名、

 または同じだとわかる発音や当て字の地名を残している。

 それは次の図ように、

 『魏書倭人(ウワイト)章』の国名が、

 後世の大きくなった国名と一致するまでに拡大している。

 3世紀には詳細もわからなかった小さな国が、

 少なくとも10世紀の『倭名類聚鈔』までに、

 現在なら府県ほどの、江戸時代の国のサイズにまで発展しているのである。

 これでどちらからどちらへ移動したかは、決定的にわかる。

 そんな大きな国が、3世紀より前にあって、

 それが次第に小さくなりながら南下することなど、

 想像することもできないからである。

 なぜなら「国」というのは土地ではなくて

 「国民」なのだから、

 大国の大国民が移動して町村ていどの面積の小さい国に住むことは、

 物理的に不可能だからである。

 そして人間社会活動は、時とともに次第に複雑になり、

 規模が拡大して、縮小することはできなくなる。

 たとえば田畑一つ考えても、小さく縮めることは不可能である。

 だが、子供が増え人口が増加して、新たな田畑が増えるのは「自然」である。

 この逆の場合は自滅するしかない。

 かりに移動したとしても、ほかの国に吸収されてしまって、

 そこを自分の国名に変えることなんかできるわけがない。

 歴史記録と地名とをより精密に比較し分析すれば、

 どの国は、いつ、どこまで、

 なぜ、移動したかといったことが、年代別に特定できるのである。

 学問上はそうした「編年」も必要だが、ここではどこから

 、どこへ移動したかさえ確認できれば十分だ。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『地名』
 
 『国名』

 『倭名類聚鈔』

 『編年』

 『旧国名一覧』


 「奈良朝までの国名地図」

 令制国一覧
 
  1 大隅
 
  2 薩摩
 
  3 日向
 
  4 肥後
 
  5 豊後
 
  6 筑後
 
  7 肥前
 
  8 豊前
 
  9 筑前
 
  10  土佐
 
  11 伊予
 
 12 周防
 
  13 長門
 
  14 阿波
 
  15 讃岐
 
  16 安芸
 
 17 石見
 
  18 備後
 
  19 備中
 
 20 備前
 
 21 出雲
 
 22 紀伊
 
 23 淡路

 24 播磨
 
 25 美作
 
 26 因幡
 
 27 伯耆
 
 28 大和
 
 29 和泉

 30 河内
 
 31 摂津
 
 32 丹波
 
 33 但馬
 
 34 丹後
 
 35 伊勢
 
 36 伊賀
 
 37 近江
 
 38 山城
 
 39 若狭

 40 壱岐
 
 41 対馬
 
 42 琉球
 
 43 隠岐
 
 44 佐渡
 
 45 越後
 
 46 越中

 47 能登 

 48 加賀 

 49 越前 

 50 陸奥

 51 陸中 

 52 陸前

 53 羽後

 54 羽前
 
 55 磐城
 
 56 岩代 

 57 下野 

 58 上野
 
 59 信濃

 60 飛騨
 
 61 美濃 

 62 常陸 

 63 下総 

 64 上総 

 65 安房 

 66 武蔵 

 67 相模
 
 68 甲斐 

 69 伊豆 

 70 駿河

 71 遠江
 
 72 三河

 73 尾張
 
 74 志摩 


 75 渡島 

 76 後志 

 77 胆振 

 78 石狩 

 79 天塩
 
 80 北見 

 81 日高
 
 82 十勝
 
 83 釧路
 
 84 根室

 85 千島 

 86 樺太

 87 蝦夷


 『邪馬壹国誕生時の五彩圏配置』

 その一番わかりやすい例を、

 あなたがよくご存じの

 『魏書倭人(ウワイト)章』の国名でご覧にいれよう。

 その中にある「支惟国」は誰が考えても「キイ国=貴国」である。

 これは女王国以南の旁国の中に入っていて

 「遠絶で詳しくわからない」ところにあった。

 しかし先にみたように佐賀市付近の

 「キイ郡=基肄郡」はこれとまったく同じ発音をもっている。

 私たちはすでに、

 ヒミコ政権が倒されて邪馬壹国が生まれた直後に、

 伊都国の隣りに南から奴国が移動した事実を知っている。

 先に霧島が地元では「キイシマ」と発音されることもお話しした。

 この三つのキイ国も同じように移動してきたものの、

 元の地名と後の地名だと考えることができる。

 そして「黄=基肄」の場合の「白=平戸」も知っている。

 これは長崎県にある。

 その名からわかることは、

 「ナガ」は「奴(な)ガ国」の一部だということである。

 古代には「前」を「サキ」と読むから「奴ガ前=ナガサキ」になる。

 長崎は「肥前=日の前の国」であり、

 平戸は「ヒラト=日羅門」で「日の国の入口の港」という意味である。

 この日の国は、旁国ではマレー語で

 「ハリ(日)国=巴利国」と当て字されていて、

 同じように移動してきたことが簡単にわかる。

 では対照的な東の大分はどうなるだろう?

 そこは「豊後大分」である。

 豊後は「不呼国」であることはわかっているから、

 これも旁国が同じように移動してきたことがわかる。

 ついでにお話しすると、

 その大分もオオイタと発音するのは後世のことで、

 もとはやはり旁国の一つ「烏(ウ)奴国」である。

 この「烏」の当て字は、

 奄美大島の「大=沖縄語でウフ」に対する当て字だから、

 大分も「大=ウ」「分=フン」で、

 やはり「ウフの(ン)国」に対する北九州式当て字なのである。

 それが「オオ」の発音で「青=倭」を意味したのだ。

 これで「黄=基肄」を中心にした東西線は、

 それ以前のヒミコ政権時代には

 南の旁国の中にあった五つの国が、

 邪馬壹国の誕生と同時にまず

 「奴国」と「不弥国」が九州北部の中央に移動し、

 それと同時か、あまり時間差のない時期に、

 他の「支惟国」と「巴利国」と「不呼国」とが、

 それと平行して南から移動したという事実が、

 地名ではつきり読みとれたのである。

 以上で「黄=基肄」を中心にした東西線は、

 ヒミコ戦争の戦後に生まれたことが確認できた。

 歴史記録と地名とをより精密に比較し分析すれば、

 どの国は、いつ、どこまで、なぜ、移動したかといったことが、

 年代別に特定できる、という事実が、よくご理解いただけたと思う。

 こんなに見事に歴史の復元ができるのは、

 私の復元した邪馬壹国の位置が正確だという証明なのである。

 他の邪馬台国説では、これは絶対に不可能なのだ。

 北九州説では二つの奴国の説明もできないし、

 大和説では途中にある多数の

 「東西線」全部の説明がつかないだけでなく、

 こうした旁国の位置関係のような、

 ありとあらゆる証拠が、どれもこれも食い違う。

 こうしたことのすべてが、五彩圏の移動の状態は、

 本シリーズの主題である建国の歴史が、

 私がこれまでお話ししてきたとおりだったと証明する。

 過去の

 「紀元前後に神武天皇が、奈良に攻めこんで、

  それ以来奈良にヤマト政権が存在した」という

 「間違った皇国史観」が何一つ合理性がなく

 「真実ではない」と、徹底的に雄弁に立証しているからである。

 なぜなら、ご存じのとおり五彩圏が奈良に届いたのは、

 仁徳天皇より後、倭王・武=允恭・雄略天皇のときだからである。

 それは五王の名乗りも、天皇たちの名乗りも、

 その他の地名・国名なども、

 すべてが異口同音に声をそろえて証言しているのだから、

 その全部をくつがえすだけの証拠と証明がそろわないかぎり、

 この結論をわずかでも変えることはできない。

 これで五彩圏が、北上し、東進したことが確認できた。

 その時代もまたはっきりわかった。

 その主義が誰々であったかもわかった。

 私たち日本人の出発点を、どこにとるかは自由だが、

 これまでに3千年を超える歴史がわかった。

 なにも紀元ごろなどと遠慮することはないのだ。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『魏志倭人(ウワイト)伝』

 『卑弥呼』

 『基肄郡』

 『伊都国』

 『奴国』

 『霧島』

 『平戸』

 『奄美大島』

 『皇国史観』

 『神武天皇』

 『倭の五王』

 『仁徳天皇』

 『雄略天皇』


 『五彩圏の移動で同じ土地の名前が変わった』

 『ヒミコ』の初めのほうで、

 「日本にやってきた『角のある王子』の物語」というのを、

 中心にお話ししたが、その主人公は幾つもの名前と幾つもの国籍をもっていた。

 なぜなら名前が変わるたびにその国籍が違っていたが、話の内容や、

 そのやってきた時が同じなので、それが同じ人物だとわかったからである。

 その国籍は、

 「意富加羅=オオカラ」

 「任那=ミマナ」

 「新羅」の三つだった。

 これは奇妙なことで、

 とくにそのソナカという人物は「仲哀天皇」だったのだから、

 決して捨てておけない謎だが、

 従来は「どうせ古代の記録はたいしたものではないのさ」と、
 
 誰も真剣に研究した者はいない。

 だがここまでくると、その謎は簡単に解ける。

 それは同じ土地が、

 「五彩圏」が移動したので次つぎに名前が変わったためだったのである。

 だからその国名によって、それがどれからどれへ変わったかがわかる。

 北へ、そして東へと移動したのだから、

 それは初め北「大カラ=黒」で、

 つぎに東「青=オオが国(ラ)」になり、

 つぎに西になって白「新羅」に変わった。

 では「任那」はどういうことか?

  と一つ謎が残る。

 これはミマナと読むからわからないのであって、

 文字どおりに「ニンナ」と読むと

 沖縄語では

 ニワトリ(鶏)を「ミヤドイ」と発音し、

 ニラメッコ(睨みっこ)を「ミームーク」と発音するから、

 「ニはミ」になる。

 ニンナは「ミンナ」になるのである。

 「南の国」は「ミンナン国」という発音がある。

 だから同じ土地が北・東・西・南と呼び名が変わった。

 従来は任那といえば朝鮮半島南部にあった

 小国だということに固定していたが、

 それは単なる「南」を意味する「発音」に過ぎなかった。

 だからそれは五彩圏の移動にともなって、

 幾つもの地点がそう呼ばれた一時的な地名だったのである。

 南九州では、宮崎県南那珂郡の三股(みまた)が東南の位置にある。

 それは「南那珂郡=ミンナカ郡」で「ミンナが国」であるし、

 三股も「ミマナ=ミマダ=ミマタ」と変化した

 訛りの跡が読みとれるからである。

 つぎは西北に北上して

 「水俣(みなまた)病」で有名な熊本県の水俣市にいく。

 これも「ミマタ」に対する当て字だとわかるからである。

 こうした地名は、近くに移動した場合、

 まったく同じ発音ではまぎらわしくて不便で、

 いろいろな間違いが起こる。

 そこで出来るだけ「工夫して」発音を変えていく。

 だから発音が違うからダメだとか、

 無関係だとか思うのは、思慮不足なのである。

 変わっているからこそ、

 もとは同じだったと考えて研究すると、

 本当のことが見つかる。

 この例はまた、ソナカ当時にすでに

 「五彩圏が実在した」ことと、

 それが「移動していた」ことを証明している。

 こうして動かない証拠を次第にそろえていくのである。

 『参照』

 HIMIKO(黄金の女王卑弥呼):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
 
 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『アメノヒボコ』

 『任那』

 『新羅』

 『仲哀天皇』

 『南那珂郡』

 『三股町』

 『水俣市』  
 

 『ウワイ女王国を先頭に東進した』

 このソナカがアショカ王の命を受けて

 東方布教を進めた大王の名であることは、

 本シリーズの読者にはもう申しあげるまでもないと思う。

 その出発は紀元前の240年代で、

 ヒミコの事件が記録されたのが、

 奇しくも紀元後の240年代であることに、

 何か不思議な因縁を感じる。
 
 そのあいだ5世紀。

 それはビルマやタイ、インドシナ半島の各地を経て、

 インドネシアに至り、途中の各地を仏教圏に変えながら東進し、

 ついに台湾から沖縄を経由して九州に入った。

 そしてその経過地に

 「ジャムブ・ディパ=ジャバ(爪哇・闍婆)・邪馬臺」と

 「タイ=泰・臺・俀」などの国名を残した。

 だからその五彩圏はインド起源なのだ。

 それが四神の起源と重なることは先にお話ししたが、

 それはすべての物事を

 「四」を基数にするインド文明の産物であることは、

 すぐおわかりになると思う。

 そのインドで最も有名な「四」に、

 その悲惨なカースト制度(階級制度)がある。

 それは当然「四つ」に分けられて

 「四姓」という階級を形づくっていた。

 その種姓は下から

  スーダラ=シュウドラ(不可触賎民(アンタッチヤブル))、

  ヴァィシヤ     (庶民・商工業階級)、

  クシャトリヤ    (武士・王族階級)、

  ブラフマン     (天仙=聖職階級)の

 四つで、

 赤・黒・黄・白がその象徴色であった。

 これでわかるように、「青」がない。

 ところが日本の五彩圏には、その青がある。

 この違いは何によるものであろうか?

 それは青が「倭(オオ=ウワイ)」であることでわかる。

 それは女性仏教徒という

 「カースト」を超越したもの、

 悲惨な階級制度を拭い去った

 「救い」の教えの実践者だったのである。

 ソナカはその女性布教団を東の先頭に立てて進んだ。

 これが東が青であり、

 「倭(ウワイ)」という文字を

 中国人が当て字したものだったのである。

 彼女たちはギリシャ系の美女を生き仏として崇めた。

 それが東南アジアから太平洋にいまだに残る

 女性上位の国々のルーツなのである。

 それはギリシャ人たちからみれば

 「アマゾネス」であり、

 「アテナ」であった。

 それが後にシンドゥ化した沖縄でも、

 なお「嘉手納」という名を残した。

 それはシンドゥの女神

 「シュリ」の名も「首里」として残したが、

 それらは中国系支配者に変わった後も、

 一つにして「天妃」として廟に祭られた。

 そして「アマゾネス」という言葉も、

 「天津(アマヅ)乙女子(オニョス)」という当て字として

 日本に残ったのである。

 またギリシャ+サカ人の兜の形は

 ソナカ仏教の僧帽としでラマ教に残り、

 日本の烏帽子やハワイの王冠にも跡を残している。

 日本神話は天照大神が武装してスサノオと争った話を伝え、

 『記・紀』は神功皇后が男装して三韓を討った話を載せ、

 『魏書倭人(ウワイト)章』はヒミコや壹與が戦った記録を残した。

 すべて女戦士アマゾネスであり、

 武装した女神パラス・アテナの所行である。

 こうして

 東に倭(アオ)、

 北に韓(クロ)、

 西に新羅(シロ)、

 南に大和(アカ)を配した

 一大五彩圏連邦が、

 次第に支配圏を広げていったのである。

 『参照』

 HIMIKO(黄金の女王卑弥呼):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
 
 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『アショーカ王』

 『四神』

 『カースト制度』

 『シュードラ』

 『ヴァイシャ』

 『クシャトリヤ』

 『ブラフマン』

 『アマゾネス』

 『アテナ』


 『南国でなければ邪馬臺ではない』

 だからこの五彩圏の移動は、

 その連邦が、ヒミコの死によって滅ぶことなく、

 やはり継続していたことを物語っている。

 ただ支配権が、

 仏教徒中心から、シンドゥ教徒中心に移っただけにみえる。

 その実質はともかく、

 連邦はクーデター後も崩壊することなく継続していた。

 では「邪馬臺国」はなくなったのか?

 「邪馬臺」とはこれまで繰り返しお話ししてきたように、

 聖山スメラ山の南にある素晴らしい土地を意味する美称だった。

 「ジャムブ」は

 スメラ山の四方に生えた巨大な宇宙樹の名の一つで

 南の国に生えているから
 
 「ジャムブの国=ディパ」なのである。

 東は「カダムバ」

 西は「ピッパラ」

 北は「ヴァタ」という。

 「邪馬臺」とは「南国」ということなのだ。

 ヒミコ時代に九州を訪れた魏の帯方郡使二人の内、

 後の張政だけが「邪馬壹国」という国名を書き残し、

 最初の帯方郡使梯儁は何も書いていない。

 だから「邪馬臺国」と書かれていた可能性は全然ない。

 ただ後世の他の中国『正史』が

 「邪馬臺国」と書いているだけである。
 
 しかしそれは

 ジャムブ・ディパヘの当て字としては適当だから、

 まるっきりデタラメではない。

 でもそれはあくまで「南国」という意味なのであって国名ではない。

 その「邪馬臺国」という名そのものが、

 どこからみても南国と呼べない奈良や京都では

 絶対にないという証拠なのである。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『卑弥呼』

 『仏教』

 『ヒンドゥー教』シンドゥ教


 『五彩圏の中心にいた大王』

 「王」という漢字は、

 中国で「ワン」と発音することはよくご存じだと思う。

 それはペキン語だが、ペキン語はもと和人たちの言葉が、

 六朝時代以来、中国の政権を取った胡人たちによって、

 また最後の王朝だった清(チン)朝政府によって、

 中国に浸透した発音だったとお話しした。

 だから古代の和人がもっていた発音がどんなものかは、

 それらによってよくわかる。

 和人が、王を「ワン」と発音していたことがわかると、

 私たちは五彩圏の移動とともに、

 もう一つの重要な情報を受け取ることができる。

 それはまず「タイワン」は「大王」でもあるということである。

 台湾で生まれた「大和ン」の語源はこれだったのではないだろうか?

 それだとすると四国にあった、

 あの「俀王国=ダイオウコク」は

 やはり「大王国」だったのであり、

 言葉は土着するから、四国では「ダイオウ」と発音された。

 そしてそれが、台湾で生まれた

 「大和(ダイワ)ン」の文字を伴っていたために、

 <マ>を<バ>と発音し、<ワ>を<ハ>と発音する沖縄系の人よって

 「タイハン」と読まれたために、

 後に「大坂(タイハン)」と当て字されたのが今の大阪で、

 「大和」の文字がそのまま残った奈良では、

 なぜか、それが「ヤマト」などという、

 漢字の発音とはまったく無関係な地名、

 ないし国名として今に残った、ということになる。

 もちろんそれは途中に、

 奄美大島の大和村(やまとそん)をはじめ、

 鹿児島県の山門院(やまといん)、

 福岡県の 山門郡といった関連地名を各地に残した。

 この内のどれとどれが本来の「大和」で、

 どれが別系統の「ヤマト」で、

 どれが大和がヤマトと読まれるようになった

 後の「ヤマト」かは徹底的な研究が必要だが、

 それらが台湾と奈良を結ぶ

 「五彩圏の移動」によるものであることは、

 すでによくわかっている。

 そしてそれが「タカ」や「ウカン」と読まれたものが、

 高や烏桓などという新しい集団名を生み出していった。

 しかしそれはどこまでいっても同族であることに変わりはない。

 それは『魏書倭人(ウワイト)章』のある

 『魏志東夷伝』の「東夷」と、

 筑紫への別の当て字「東胡」とが

 日本語では、どんな関係があるかを、調べてみればすぐ証明される。

 「夷」と「胡」は「イとコ=イトコ=従兄弟」なのだ。

 日本語が、どういう時代に、

 どういう言葉を生み出していったかを調べていくと、

 こうした事実に大量にぶつかる。

 またその関係もその言葉が教えている。

 東夷は「トオイ=遠い」で少し遠い従兄弟のようなものであり、

 東胡は「ツング=次ぐ・直(す)ぐ」の兄弟だというのである。

 この関係の遠近が事実であることは、

 九州が今も筑紫の名や、

 菊地の名を残していることで、十分うなずかれる。

 こんなふうに「遺物」はなにも目に見える物体だけではない。

 土を掘って出てきたものだけを「文化財」だと

 思っている人があるが、

 数万人の考古学者にできなかったことが今、

 こうし て明らかにできた事実が、

 目に見えない文化財の力の、

 そのなによりの証拠なのである。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『大王』

 『王』

 『六朝』

 『北京語』

 『清朝』

 『台湾』

 『奄美大島』
 『大和村』
 
 『山門郡』

 『大和』

 『烏桓』

 『夷』

 『筑紫』

 『東胡』

 『いとこ』従兄弟

 『考古学』
 『文化財』
 『遺物』

 『事実』

 『証拠』


 『弥生人の故郷、台湾の現代の甕棺葬』

 だからといって、これまで考古学者が、

 汗とホコリにまみれて積み重ねてきた業績も貴重なのである。

 たとえば吉野ヶ里(り)など、北部九州にたくさんあり、

 南九州にも見られる弥生時代後期の葬制である甕棺墓は、

 台湾の屏東(ペイトウ)あたりの広東人が

 今も行なっている葬制である。

 そして日本でも種子島では最近まで、

 やはり甕棺葬であった。

 その方式はいったん土葬した遺骸を後で掘りだして、

 きれいに洗骨したものを台湾では元どおりに糸でつなぎあわせて葬る。

 このいったん土葬したものを後に掘りだして改葬する方式は、

 日本の古式の「かりもがり=殯」であるが、

 のち次第に埋めずに安置して守る中国方式が定着した。

 これは古墳造営に時間がかかるために、

 その間の盗掘などから貴人の遺体や供え物を守るためである。

 沖縄で目立つ葬制の「亀墓(かめばか)」は、

 南中国系の一般的な墓の様式である。

 同じものは東南アジアのいたるところで見られる。

 華僑たちの墓なのだ。

 だから沖縄人全部が中国人の子孫というのではない。

 それは中世以後の歴史がよくわかっているからである。

 私たちがこの本で問題にしているのは、

 それよりはるか前の古代、

 日本建国前史の時代なのだ。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『弥生人』

 『台湾』

 『弥生時代の墓制』

 『甕棺墓』

 『甕』

 『考古学』

 『吉野ヶ里遺跡』

 『屏東県』

 『広東語』

 『種子島』

 『土葬』

 『かりもがり=殯』

 『華僑』



 『五彩圏は陰陽道の産物ではない』

 その沖縄・台湾から出発した『五彩圏』は、

 後世の平安時代に盛んに信じられた例の

 陰陽道(おんみようどう)(『コフン』参照)の、

 陰陽五行説の産物のように、一見、みえるかも知れない。

 しかし厳密には別物なので、

 誤解のないようにここで明らかにしておこう。

 中国の唐政権は

 高祖・李淵(リエン)が、隋を乗っ取って建てた国だが、

 同じ李姓の老子=李耳(リジ)の子孫だと名乗っていたので、

 『老子(道徳経)』を至上の聖書として

 「道教」を信仰していただけでなく、

 それを大いに宣伝し、施政の根本方針にしていた。
 
 後の玄宗皇帝の時代になって、

 三蔵法師がインドへ取経に行って

 小説『西遊記』のモデルになったことがあまりにも有名なために、

 唐は仏教国だったと誤解されているが、

 それはただ制限がなかっただけで、
 
 皇帝は熱烈な道教信者であり、そのために全国的に

 「神仙」と「陰陽五行」の信者がおり、

 それは近隣の国々や、日本のような遠い友好国にも大きく影響した。

 当時の日本政権は、唐を宗主国同様に尊敬し、都をそのままにまね、

 国家の大本である法制まで唐の律令体制どおりに施行した国だったから、

 当然その陰陽五行も重要な政治技術として採用した。

 今でいう省庁の一つにあたる陰陽寮(おんみょうりょう)が設置されて、

 国家行事の吉凶を判断し、施策を左右する重要な役所の一つになった。

 その長官を「陰陽博士」と呼び、

 安倍氏と賀茂氏とが当てられた。

 そのアベ氏がもと俀王家で、それ以前に天文、気象、測量に詳しく、

 それを国家経営の基盤にしていたことは

 『コフン』でもお話ししたとおりである。

 陰陽博士とは、

 今でいえば

 気象庁長官と総務庁長官と文化庁長官と厚生大臣とを兼ねたような、

 当時としては非常に重要な地位の官僚だったわけである。

 その古い知識に新しい技術を加味して、

 舶来のベールを着せたのが「陰陽道」だったのだ。

 だから正確にいえば、

 むしろアベ(安倍、阿部)氏のほうが

 「本家」だったともいえるのだが、

 『五彩圏』は古いほうの、

 あの徐福ら「方士」に伝わったシンドゥ教の産物で、

 陰陽道のほうが後の輸入品なのだということを、

 はっきり区別しておいていただきたい。

 『参照』

 KOFUN(誰が巨大古墳を造ったのか):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
 
 陰陽道
 
 五彩圏
 h
 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『陰陽道』

 『陰陽五行思想』

 『唐』

 『隋』

 『高祖・李淵』

 『老子=李耳』

 『老子道徳経』

 『道教』

 『玄宗 (唐)』

 『三蔵法師』

 『西遊記』

 『神仙』

 『陰陽寮』

 『陰陽博士』

 『安倍氏』

 『賀茂氏』

 『徐福』

 『ヒンドゥー教』シンドゥ教