《
四神と五彩圏》
『参照ブログ』
ウワイト(倭人):大学講義録
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ひねもす徒然なるままに
『
大間違いの過去の国語学』
その人々が台湾から北上したことに疑いはないと思うが、
まだ「五彩圏は奈良から南へ南下したのかも知れない」
と疑う方もありそうである。
ついこの間まで、鹿児島語や沖縄語は、
「近畿の言葉が地方へ伝わっていくうちに変化したものだ」
という説を国語学者が大まじめに主張していたのだ。
その証拠は「方言」という呼び方だ。
方言とは「地方の言葉」という意味だが、
地方というのは「中央」があって、
それから遠ざかる地域のことだ。
日本では方言とは
「中央の言葉である標準語から次第に変化した、地方の言葉」
という意味なのである。
しかし、あなたはそれが事実とは正反対で、
どんなに間違っているか、よくおわかりである。
沖縄で生まれたり、
もっと遠くからやってきたりした言葉や名前が、
次第に近畿地方に移動していった真相をよくご存じである。
だが過去の国語学者は、全然事実を知らず考える能力ももたなかった。
まるで逆のことを無理やり学生におぽえさせて給料をとっていたのである。
「五彩圏」は、
どちらからどちらへ移動したかという問題も、
これと無関係ではない。
答えは古代地名がどんな形で移動しているかを見ればわかる。
3世紀に『魏書倭人(ウワイト)章』が記録した30の国名が、
小さな沖縄に原型を残していることは、
『ジンム』で詳しく検討した。
それが九州全域に広がったときがヒミコ~壹與時代だったが、
ヒミコが死んだ直後にも、
「遠絶の地で詳細はわからない」というほどの
「旁国」のなかでもとくに極南界にある「奴国」が、
北上して福岡県南部に移動した事実も、もうご存じである。
この旁国は
「遠絶の地で詳細はわからない」というのだから、
伊都よりもずっと南でないと、北は帯方郡に近いし、
それは帯方郡使らが通ってきた途中の国々で、
郡使自身がすでに説明したあとだから話が合わない。
どんなにみても「奴国」は、
はるか南の海の彼方から九州の北部へ
「北上して」移動してきたのである。
『参照』
HIMIKO(黄金の女王卑弥呼):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
JINMU(卑弥呼を攻めた神武天皇):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
KOFUN(誰が巨大古墳を造ったのか):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
WAJIN(建国前夜の巨大連邦発見):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
TAIKA(虚構の大化改新と日本政権誕生):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
YAMATO(謎の天孫降臨と大和朝廷の秘密):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『国語学』日本語
『台湾』
『奈良』
『方言』
『標準語』
『沖縄語』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E8%AA%9E
『薩隅方言』
『奴国』
『帯方郡』
北上し東進した「五彩圏」
この地名の移動は、
これまでも五彩圏のところで例をあげてお話ししたように、
実際に点と同じ文字の地名、
または同じだとわかる発音や当て字の地名を残している。
それは次の図ように、
『魏書倭人(ウワイト)章』の国名が、
後世の大きくなった国名と一致するまでに拡大している。
3世紀には詳細もわからなかった小さな国が、
少なくとも10世紀の『倭名類聚鈔』までに、
現在なら府県ほどの、江戸時代の国のサイズにまで発展しているのである。
これでどちらからどちらへ移動したかは、決定的にわかる。
そんな大きな国が、3世紀より前にあって、
それが次第に小さくなりながら南下することなど、
想像することもできないからである。
なぜなら「国」というのは土地ではなくて
「国民」なのだから、
大国の大国民が移動して町村ていどの面積の小さい国に住むことは、
物理的に不可能だからである。
そして人間社会活動は、時とともに次第に複雑になり、
規模が拡大して、縮小することはできなくなる。
たとえば田畑一つ考えても、小さく縮めることは不可能である。
だが、子供が増え人口が増加して、新たな田畑が増えるのは「自然」である。
この逆の場合は自滅するしかない。
かりに移動したとしても、ほかの国に吸収されてしまって、
そこを自分の国名に変えることなんかできるわけがない。
歴史記録と地名とをより精密に比較し分析すれば、
どの国は、いつ、どこまで、
なぜ、移動したかといったことが、年代別に特定できるのである。
学問上はそうした「編年」も必要だが、ここではどこから
、どこへ移動したかさえ確認できれば十分だ。
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『地名』
『国名』
『倭名類聚鈔』
『編年』
『旧国名一覧』
「奈良朝までの国名地図」
令制国一覧
1
大隅
2
薩摩
3
日向
4
肥後
5
豊後
6
筑後
7
肥前
8
豊前
9
筑前
10
土佐
11
伊予
12
周防
13
長門
14
阿波
15
讃岐
16
安芸
17
石見
18
備後
19
備中
20
備前
21
出雲
22
紀伊
23
淡路
24
播磨
25
美作
26
因幡
27
伯耆
28
大和
29
和泉
30
河内
31
摂津
32
丹波
33
但馬
34
丹後
35
伊勢
36
伊賀
37
近江
38
山城
39
若狭
40
壱岐
41
対馬
42
琉球
43
隠岐
44
佐渡
45
越後
46
越中
47
能登
48
加賀
49
越前
50
陸奥
51
陸中
52
陸前
53
羽後
54
羽前
55
磐城
56
岩代
57
下野
58
上野
59
信濃
60
飛騨
61
美濃
62
常陸
63
下総
64
上総
65
安房
66
武蔵
67
相模
68
甲斐
69
伊豆
70
駿河
71
遠江
72
三河
73
尾張
74
志摩
75
渡島
76
後志
77
胆振
78
石狩
79
天塩
80
北見
81
日高
82
十勝
83
釧路
84
根室
85
千島
86
樺太
87
蝦夷
『邪馬壹国誕生時の五彩圏配置』
その一番わかりやすい例を、
あなたがよくご存じの
『魏書倭人(ウワイト)章』の国名でご覧にいれよう。
その中にある「支惟国」は誰が考えても「キイ国=貴国」である。
これは女王国以南の旁国の中に入っていて
「遠絶で詳しくわからない」ところにあった。
しかし先にみたように佐賀市付近の
「キイ郡=基肄郡」はこれとまったく同じ発音をもっている。
私たちはすでに、
ヒミコ政権が倒されて邪馬壹国が生まれた直後に、
伊都国の隣りに南から奴国が移動した事実を知っている。
先に霧島が地元では「キイシマ」と発音されることもお話しした。
この三つのキイ国も同じように移動してきたものの、
元の地名と後の地名だと考えることができる。
そして「黄=基肄」の場合の「白=平戸」も知っている。
これは長崎県にある。
その名からわかることは、
「ナガ」は「奴(な)ガ国」の一部だということである。
古代には「前」を「サキ」と読むから「奴ガ前=ナガサキ」になる。
長崎は「肥前=日の前の国」であり、
平戸は「ヒラト=日羅門」で「日の国の入口の港」という意味である。
この日の国は、旁国ではマレー語で
「ハリ(日)国=巴利国」と当て字されていて、
同じように移動してきたことが簡単にわかる。
では対照的な東の大分はどうなるだろう?
そこは「豊後大分」である。
豊後は「不呼国」であることはわかっているから、
これも旁国が同じように移動してきたことがわかる。
ついでにお話しすると、
その大分もオオイタと発音するのは後世のことで、
もとはやはり旁国の一つ「烏(ウ)奴国」である。
この「烏」の当て字は、
奄美大島の「大=沖縄語でウフ」に対する当て字だから、
大分も「大=ウ」「分=フン」で、
やはり「ウフの(ン)国」に対する北九州式当て字なのである。
それが「オオ」の発音で「青=倭」を意味したのだ。
これで「黄=基肄」を中心にした東西線は、
それ以前のヒミコ政権時代には
南の旁国の中にあった五つの国が、
邪馬壹国の誕生と同時にまず
「奴国」と「不弥国」が九州北部の中央に移動し、
それと同時か、あまり時間差のない時期に、
他の「支惟国」と「巴利国」と「不呼国」とが、
それと平行して南から移動したという事実が、
地名ではつきり読みとれたのである。
以上で「黄=基肄」を中心にした東西線は、
ヒミコ戦争の戦後に生まれたことが確認できた。
歴史記録と地名とをより精密に比較し分析すれば、
どの国は、いつ、どこまで、なぜ、移動したかといったことが、
年代別に特定できる、という事実が、よくご理解いただけたと思う。
こんなに見事に歴史の復元ができるのは、
私の復元した邪馬壹国の位置が正確だという証明なのである。
他の邪馬台国説では、これは絶対に不可能なのだ。
北九州説では二つの奴国の説明もできないし、
大和説では途中にある多数の
「東西線」全部の説明がつかないだけでなく、
こうした旁国の位置関係のような、
ありとあらゆる証拠が、どれもこれも食い違う。
こうしたことのすべてが、五彩圏の移動の状態は、
本シリーズの主題である建国の歴史が、
私がこれまでお話ししてきたとおりだったと証明する。
過去の
「紀元前後に神武天皇が、奈良に攻めこんで、
それ以来奈良にヤマト政権が存在した」という
「間違った皇国史観」が何一つ合理性がなく
「真実ではない」と、徹底的に雄弁に立証しているからである。
なぜなら、ご存じのとおり五彩圏が奈良に届いたのは、
仁徳天皇より後、倭王・武=允恭・雄略天皇のときだからである。
それは五王の名乗りも、天皇たちの名乗りも、
その他の地名・国名なども、
すべてが異口同音に声をそろえて証言しているのだから、
その全部をくつがえすだけの証拠と証明がそろわないかぎり、
この結論をわずかでも変えることはできない。
これで五彩圏が、北上し、東進したことが確認できた。
その時代もまたはっきりわかった。
その主義が誰々であったかもわかった。
私たち日本人の出発点を、どこにとるかは自由だが、
これまでに3千年を超える歴史がわかった。
なにも紀元ごろなどと遠慮することはないのだ。
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『魏志倭人(ウワイト)伝』
『卑弥呼』
『基肄郡』
『伊都国』
『奴国』
『霧島』
『平戸』
『奄美大島』
『皇国史観』
『神武天皇』
『倭の五王』
『仁徳天皇』
『雄略天皇』
『五彩圏の移動で同じ土地の名前が変わった』
『ヒミコ』の初めのほうで、
「日本にやってきた『角のある王子』の物語」というのを、
中心にお話ししたが、その主人公は幾つもの名前と幾つもの国籍をもっていた。
なぜなら名前が変わるたびにその国籍が違っていたが、話の内容や、
そのやってきた時が同じなので、それが同じ人物だとわかったからである。
その国籍は、
「意富加羅=オオカラ」
「任那=ミマナ」
「新羅」の三つだった。
これは奇妙なことで、
とくにそのソナカという人物は「仲哀天皇」だったのだから、
決して捨てておけない謎だが、
従来は「どうせ古代の記録はたいしたものではないのさ」と、
誰も真剣に研究した者はいない。
だがここまでくると、その謎は簡単に解ける。
それは同じ土地が、
「五彩圏」が移動したので次つぎに名前が変わったためだったのである。
だからその国名によって、それがどれからどれへ変わったかがわかる。
北へ、そして東へと移動したのだから、
それは初め北「大カラ=黒」で、
つぎに東「青=オオが国(ラ)」になり、
つぎに西になって白「新羅」に変わった。
では「任那」はどういうことか?
と一つ謎が残る。
これはミマナと読むからわからないのであって、
文字どおりに「ニンナ」と読むと
沖縄語では
ニワトリ(鶏)を「ミヤドイ」と発音し、
ニラメッコ(睨みっこ)を「ミームーク」と発音するから、
「ニはミ」になる。
ニンナは「ミンナ」になるのである。
「南の国」は「ミンナン国」という発音がある。
だから同じ土地が北・東・西・南と呼び名が変わった。
従来は任那といえば朝鮮半島南部にあった
小国だということに固定していたが、
それは単なる「南」を意味する「発音」に過ぎなかった。
だからそれは五彩圏の移動にともなって、
幾つもの地点がそう呼ばれた一時的な地名だったのである。
南九州では、宮崎県南那珂郡の三股(みまた)が東南の位置にある。
それは「南那珂郡=ミンナカ郡」で「ミンナが国」であるし、
三股も「ミマナ=ミマダ=ミマタ」と変化した
訛りの跡が読みとれるからである。
つぎは西北に北上して
「水俣(みなまた)病」で有名な熊本県の水俣市にいく。
これも「ミマタ」に対する当て字だとわかるからである。
こうした地名は、近くに移動した場合、
まったく同じ発音ではまぎらわしくて不便で、
いろいろな間違いが起こる。
そこで出来るだけ「工夫して」発音を変えていく。
だから発音が違うからダメだとか、
無関係だとか思うのは、思慮不足なのである。
変わっているからこそ、
もとは同じだったと考えて研究すると、
本当のことが見つかる。
この例はまた、ソナカ当時にすでに
「五彩圏が実在した」ことと、
それが「移動していた」ことを証明している。
こうして動かない証拠を次第にそろえていくのである。
『参照』
HIMIKO(黄金の女王卑弥呼):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『アメノヒボコ』
『任那』
『新羅』
『仲哀天皇』
『南那珂郡』
『三股町』
『水俣市』
『ウワイ女王国を先頭に東進した』
このソナカがアショカ王の命を受けて
東方布教を進めた大王の名であることは、
本シリーズの読者にはもう申しあげるまでもないと思う。
その出発は紀元前の240年代で、
ヒミコの事件が記録されたのが、
奇しくも紀元後の240年代であることに、
何か不思議な因縁を感じる。
そのあいだ5世紀。
それはビルマやタイ、インドシナ半島の各地を経て、
インドネシアに至り、途中の各地を仏教圏に変えながら東進し、
ついに台湾から沖縄を経由して九州に入った。
そしてその経過地に
「ジャムブ・ディパ=ジャバ(爪哇・闍婆)・邪馬臺」と
「タイ=泰・臺・俀」などの国名を残した。
だからその五彩圏はインド起源なのだ。
それが四神の起源と重なることは先にお話ししたが、
それはすべての物事を
「四」を基数にするインド文明の産物であることは、
すぐおわかりになると思う。
そのインドで最も有名な「四」に、
その悲惨なカースト制度(階級制度)がある。
それは当然「四つ」に分けられて
「四姓」という階級を形づくっていた。
その種姓は下から
スーダラ=シュウドラ(不可触賎民(アンタッチヤブル))、
ヴァィシヤ (庶民・商工業階級)、
クシャトリヤ (武士・王族階級)、
ブラフマン (天仙=聖職階級)の
四つで、
赤・黒・黄・白がその象徴色であった。
これでわかるように、「青」がない。
ところが日本の五彩圏には、その青がある。
この違いは何によるものであろうか?
それは青が「倭(オオ=ウワイ)」であることでわかる。
それは女性仏教徒という
「カースト」を超越したもの、
悲惨な階級制度を拭い去った
「救い」の教えの実践者だったのである。
ソナカはその女性布教団を東の先頭に立てて進んだ。
これが東が青であり、
「倭(ウワイ)」という文字を
中国人が当て字したものだったのである。
彼女たちはギリシャ系の美女を生き仏として崇めた。
それが東南アジアから太平洋にいまだに残る
女性上位の国々のルーツなのである。
それはギリシャ人たちからみれば
「アマゾネス」であり、
「アテナ」であった。
それが後にシンドゥ化した沖縄でも、
なお「嘉手納」という名を残した。
それはシンドゥの女神
「シュリ」の名も「首里」として残したが、
それらは中国系支配者に変わった後も、
一つにして「天妃」として廟に祭られた。
そして「アマゾネス」という言葉も、
「天津(アマヅ)乙女子(オニョス)」という当て字として
日本に残ったのである。
またギリシャ+サカ人の兜の形は
ソナカ仏教の僧帽としでラマ教に残り、
日本の烏帽子やハワイの王冠にも跡を残している。
日本神話は天照大神が武装してスサノオと争った話を伝え、
『記・紀』は神功皇后が男装して三韓を討った話を載せ、
『魏書倭人(ウワイト)章』はヒミコや壹與が戦った記録を残した。
すべて女戦士アマゾネスであり、
武装した女神パラス・アテナの所行である。
こうして
東に倭(アオ)、
北に韓(クロ)、
西に新羅(シロ)、
南に大和(アカ)を配した
一大五彩圏連邦が、
次第に支配圏を広げていったのである。
『参照』
HIMIKO(黄金の女王卑弥呼):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『アショーカ王』
『四神』
『カースト制度』
『シュードラ』
『ヴァイシャ』
『クシャトリヤ』
『ブラフマン』
『アマゾネス』
『アテナ』
『南国でなければ邪馬臺ではない』
だからこの五彩圏の移動は、
その連邦が、ヒミコの死によって滅ぶことなく、
やはり継続していたことを物語っている。
ただ支配権が、
仏教徒中心から、シンドゥ教徒中心に移っただけにみえる。
その実質はともかく、
連邦はクーデター後も崩壊することなく継続していた。
では「邪馬臺国」はなくなったのか?
「邪馬臺」とはこれまで繰り返しお話ししてきたように、
聖山スメラ山の南にある素晴らしい土地を意味する美称だった。
「ジャムブ」は
スメラ山の四方に生えた巨大な宇宙樹の名の一つで
南の国に生えているから
「ジャムブの国=ディパ」なのである。
東は「カダムバ」
西は「ピッパラ」
北は「ヴァタ」という。
「邪馬臺」とは「南国」ということなのだ。
ヒミコ時代に九州を訪れた魏の帯方郡使二人の内、
後の張政だけが「邪馬壹国」という国名を書き残し、
最初の帯方郡使梯儁は何も書いていない。
だから「邪馬臺国」と書かれていた可能性は全然ない。
ただ後世の他の中国『正史』が
「邪馬臺国」と書いているだけである。
しかしそれは
ジャムブ・ディパヘの当て字としては適当だから、
まるっきりデタラメではない。
でもそれはあくまで「南国」という意味なのであって国名ではない。
その「邪馬臺国」という名そのものが、
どこからみても南国と呼べない奈良や京都では
絶対にないという証拠なのである。
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『卑弥呼』
『仏教』
『ヒンドゥー教』シンドゥ教
『五彩圏の中心にいた大王』
「王」という漢字は、
中国で「ワン」と発音することはよくご存じだと思う。
それはペキン語だが、ペキン語はもと和人たちの言葉が、
六朝時代以来、中国の政権を取った胡人たちによって、
また最後の王朝だった清(チン)朝政府によって、
中国に浸透した発音だったとお話しした。
だから古代の和人がもっていた発音がどんなものかは、
それらによってよくわかる。
和人が、王を「ワン」と発音していたことがわかると、
私たちは五彩圏の移動とともに、
もう一つの重要な情報を受け取ることができる。
それはまず「タイワン」は「大王」でもあるということである。
台湾で生まれた「大和ン」の語源はこれだったのではないだろうか?
それだとすると四国にあった、
あの「俀王国=ダイオウコク」は
やはり「大王国」だったのであり、
言葉は土着するから、四国では「ダイオウ」と発音された。
そしてそれが、台湾で生まれた
「大和(ダイワ)ン」の文字を伴っていたために、
<マ>を<バ>と発音し、<ワ>を<ハ>と発音する沖縄系の人よって
「タイハン」と読まれたために、
後に「大坂(タイハン)」と当て字されたのが今の大阪で、
「大和」の文字がそのまま残った奈良では、
なぜか、それが「ヤマト」などという、
漢字の発音とはまったく無関係な地名、
ないし国名として今に残った、ということになる。
もちろんそれは途中に、
奄美大島の大和村(やまとそん)をはじめ、
鹿児島県の山門院(やまといん)、
福岡県の 山門郡といった関連地名を各地に残した。
この内のどれとどれが本来の「大和」で、
どれが別系統の「ヤマト」で、
どれが大和がヤマトと読まれるようになった
後の「ヤマト」かは徹底的な研究が必要だが、
それらが台湾と奈良を結ぶ
「五彩圏の移動」によるものであることは、
すでによくわかっている。
そしてそれが「タカ」や「ウカン」と読まれたものが、
高や烏桓などという新しい集団名を生み出していった。
しかしそれはどこまでいっても同族であることに変わりはない。
それは『魏書倭人(ウワイト)章』のある
『魏志東夷伝』の「東夷」と、
筑紫への別の当て字「東胡」とが
日本語では、どんな関係があるかを、調べてみればすぐ証明される。
「夷」と「胡」は「イとコ=イトコ=従兄弟」なのだ。
日本語が、どういう時代に、
どういう言葉を生み出していったかを調べていくと、
こうした事実に大量にぶつかる。
またその関係もその言葉が教えている。
東夷は「トオイ=遠い」で少し遠い従兄弟のようなものであり、
東胡は「ツング=次ぐ・直(す)ぐ」の兄弟だというのである。
この関係の遠近が事実であることは、
九州が今も筑紫の名や、
菊地の名を残していることで、十分うなずかれる。
こんなふうに「遺物」はなにも目に見える物体だけではない。
土を掘って出てきたものだけを「文化財」だと
思っている人があるが、
数万人の考古学者にできなかったことが今、
こうし て明らかにできた事実が、
目に見えない文化財の力の、
そのなによりの証拠なのである。
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『大王』
『王』
『六朝』
『北京語』
『清朝』
『台湾』
『奄美大島』
『大和村』
『山門郡』
『大和』
『烏桓』
『夷』
『筑紫』
『東胡』
『いとこ』従兄弟
『考古学』
『文化財』
『遺物』
『事実』
『証拠』
『弥生人の故郷、台湾の現代の甕棺葬』
だからといって、これまで考古学者が、
汗とホコリにまみれて積み重ねてきた業績も貴重なのである。
たとえば吉野ヶ里(り)など、北部九州にたくさんあり、
南九州にも見られる弥生時代後期の葬制である甕棺墓は、
台湾の屏東(ペイトウ)あたりの広東人が
今も行なっている葬制である。
そして日本でも種子島では最近まで、
やはり甕棺葬であった。
その方式はいったん土葬した遺骸を後で掘りだして、
きれいに洗骨したものを台湾では元どおりに糸でつなぎあわせて葬る。
このいったん土葬したものを後に掘りだして改葬する方式は、
日本の古式の「かりもがり=殯」であるが、
のち次第に埋めずに安置して守る中国方式が定着した。
これは古墳造営に時間がかかるために、
その間の盗掘などから貴人の遺体や供え物を守るためである。
沖縄で目立つ葬制の「亀墓(かめばか)」は、
南中国系の一般的な墓の様式である。
同じものは東南アジアのいたるところで見られる。
華僑たちの墓なのだ。
だから沖縄人全部が中国人の子孫というのではない。
それは中世以後の歴史がよくわかっているからである。
私たちがこの本で問題にしているのは、
それよりはるか前の古代、
日本建国前史の時代なのだ。
『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『弥生人』
『台湾』
『弥生時代の墓制』
『甕棺墓』
『甕』
『考古学』
『吉野ヶ里遺跡』
『屏東県』
『広東語』
『種子島』
『土葬』
『かりもがり=殯』
『華僑』
『五彩圏は陰陽道の産物ではない』
その沖縄・台湾から出発した『五彩圏』は、
後世の平安時代に盛んに信じられた例の
陰陽道(おんみようどう)(『コフン』参照)の、
陰陽五行説の産物のように、一見、みえるかも知れない。
しかし厳密には別物なので、
誤解のないようにここで明らかにしておこう。
中国の唐政権は
高祖・李淵(リエン)が、隋を乗っ取って建てた国だが、
同じ李姓の老子=李耳(リジ)の子孫だと名乗っていたので、
『老子(道徳経)』を至上の聖書として
「道教」を信仰していただけでなく、
それを大いに宣伝し、施政の根本方針にしていた。
後の玄宗皇帝の時代になって、
三蔵法師がインドへ取経に行って
小説『西遊記』のモデルになったことがあまりにも有名なために、
唐は仏教国だったと誤解されているが、
それはただ制限がなかっただけで、
皇帝は熱烈な道教信者であり、そのために全国的に
「神仙」と「陰陽五行」の信者がおり、
それは近隣の国々や、日本のような遠い友好国にも大きく影響した。
当時の日本政権は、唐を宗主国同様に尊敬し、都をそのままにまね、
国家の大本である法制まで唐の律令体制どおりに施行した国だったから、
当然その陰陽五行も重要な政治技術として採用した。
今でいう省庁の一つにあたる陰陽寮(おんみょうりょう)が設置されて、
国家行事の吉凶を判断し、施策を左右する重要な役所の一つになった。
その長官を「陰陽博士」と呼び、
安倍氏と賀茂氏とが当てられた。
そのアベ氏がもと俀王家で、それ以前に天文、気象、測量に詳しく、
それを国家経営の基盤にしていたことは
『コフン』でもお話ししたとおりである。
陰陽博士とは、
今でいえば
気象庁長官と総務庁長官と文化庁長官と厚生大臣とを兼ねたような、
当時としては非常に重要な地位の官僚だったわけである。
その古い知識に新しい技術を加味して、
舶来のベールを着せたのが「陰陽道」だったのだ。
だから正確にいえば、
むしろアベ(安倍、阿部)氏のほうが
「本家」だったともいえるのだが、
『五彩圏』は古いほうの、
あの徐福ら「方士」に伝わったシンドゥ教の産物で、
陰陽道のほうが後の輸入品なのだということを、
はっきり区別しておいていただきたい。
『参照』
KOFUN(誰が巨大古墳を造ったのか):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
陰陽道
五彩圏
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『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『陰陽道』
『陰陽五行思想』
『唐』
『隋』
『高祖・李淵』
『老子=李耳』
『老子道徳経』
『道教』
『玄宗 (唐)』
『三蔵法師』
『西遊記』
『神仙』
『陰陽寮』
『陰陽博士』
『安倍氏』
『賀茂氏』
『徐福』
『ヒンドゥー教』シンドゥ教