2012年3月27日火曜日

天智天皇は何者か?



 《天智天皇は何者か?
 「天智天皇は何者か?

ウィキペディア百科事典によれば「天智天皇(てんちてんのう/てんじてんのう。男性。推古34年(626年)- 天智天皇10年12月3日(672年1月10日))は、第38代に数えられる天皇。国風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと/あまつみことさきわけのみこと)。青年期の名を中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/なかのおおえのみこ)、幼名を葛城皇子という。」と書かれている。

 出典:Wikipedia:天智天皇
    
 蘇我氏を倒した主人公「天智天皇」とは、どういう人物であったか、

 その名の分析から始めてみよう。

 この天皇は、大化改新当時は、「中つ大兄の皇子」として登場する。

 この「中」は、これまで考えられていたような「上・中・下」という、

 兄弟の順序を表わす名ではない。

 「上つ大兄」も「下つ大兄」もいないからである。

 ではこの「ナカ」は何を意味しているのであろう?。

 「ナカ」という名で思い当るのは、の皇子が一番大切にし、

 助けあった人物も「中臣の鎌子(ナカトミのカマコ)」という

 「ナカ」の名乗りをもっていることである。

 これは天皇の場合と同じく、その所属国の名乗りととみると、

 皇子は「ナカ」の国の皇子で、

 鎌子は「ナカ」の国の臣だという名乗りになる。

 中つ大兄時代以前には「ナカ」の名乗りに合う都市は

 「長柄と中津」以外には近畿にはない。

 だが九州にはピッタリの国がある。

 中つ大兄の皇子が皇太子として重要な働きをした、

 と記録に残る

 斉明天皇紀の七年三月

 『天皇は「娜の大津」へ着き、磐瀬の行宮に滞在して、

  そこを「長津」と改名した。』という

 現在の福岡市、

 今、那珂川という川の名に名残りを残している「那珂の国」である。

 大分県の中津市は諸条件が合わない。

 斉明天皇は間なく朝倉の宮(福岡県朝倉郡)で死に、

 「中つ大兄の皇子」は皇太子として「長津の宮」で6年間を過ごす。

 その名乗りが「那珂津大兄」であったのは当然である。

 その名は支配者を意味する福岡地方の領主「那珂の王」である。

 もちろん福岡は北に新羅、西北に百済のある「日本」の一部であって、

 絶対に「倭国」ではない。

 となると彼が「倭国」の

 舒明、斉明両天皇の子であるというのは、ウソなのであろうか?。

 舒明天皇の和風諡号は「息長足日広額」である。

 息長は「ソナカ」。

 足日は「ソカ」。

 蘇我の一族であることは一目瞭然である。

 その父は「押坂彦人」=「オーサカ彦人」で、

 これも倭国の大領地「大坂」の王という名乗りをもつ。

 その子が敵国だった日本国の「那珂の王」だったとはとても考えられない。

 では一体、中つ大兄の皇子=天智天皇とは何者なのか?。

 『日本書紀』の答は何と以外にも「韓人」なのである。

 ※出典:加治木義博「言語復原史学会・邪馬壹国大移動:32頁」

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 

 『My ブログ』
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         

 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

0 件のコメント:

コメントを投稿