2012年1月25日水曜日

四神と五彩圏・3



四神と五彩圏

『参照ブログ』

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「大和」は台湾で最初に生まれた

だが西はこれで納得がいったが、

一番の難問題は沖縄より南には、

東シナ海よりも、もっと大きな大洋しかないということだ。

どこに赤の国があるのだろう?

それが本当に実在するのである!

といっても現代の精巧な地図でもそれは載っていない。

というより精巧な地図だから載っていないといったほうがいい。

というのは今の地図で正確に真南を捜しては見つからないのである。

古代人の方向感覚で南の国を考えると、沖縄の南の国は台湾である。

そこが間違いなく赤の国だったのである。

それは消えてしまった古代の名なんかではない。

私たちの発音する台湾の名を耳を澄まして聞いてみると、

その今の名前の「台湾」がそうだと証言しているのである。

そして別にヤヤコシイ読み替えも、発音変化も必要ない。

あなたがいつも口にしているその「タイワン」が、

そのままで答えになっているのである。

「タイワン」は

「タイワ・ン」「大和・の」に一致しているのである。

「大和」が「オカ=阿和=アカ」であることは、

すでにいくつもの例でご説明したとおり疑問点はない。

しかし外国の台湾がまさかと、まだ疑問にお思いの方は、

この本をまじめに読んでいない人なのだ。

この本ではゴビ砂漠はおろか、

タクラマカン砂漠の彼方まで、

私たちの仲間の世界だったとお話しし続けているのである。

それにくらべると台湾は、

与那国(よなくに)島から肉眼で見えるお隣りの島なのだ。

しかもその島は古代には小(しょう)琉球と呼ばれていた。

小さな沖縄のほうが大琉球だったのである。

だからこの「大和(たいわ)」はその時代につけられた

「赤」を意味した当て字だったのだ。

それを示すのは台湾の古名の一つに

「ホーライ=蓬莱」があることである。

これはもともとギリシャの春の妖精(ニンフ)のことなのだが、

中国人には「

鳳凰(ほうおう)が来る島=鳳来(ほうらい)島」

と解釈されていた時代がある。

それが今お話しした徐福の当時で、

ソナカ布教団の先頭が台湾へやってきたころなのだ。

中国ではそれを「神仙」だと信じて、

鏡などに大いに描き始めた。

それが南方を赤い鳥で表現することになった初めと考えると、

本来インドの四神の鳥はビシュヌー大神の乗り物である

金麹鳥(きんしちょう)で「金の鳥」だったのに、

なぜ中国で朱雀(すざく)になったかという謎が解ける。

朱雀というのは

中国で別名「丹鳳」という赤い鳳凰のこととなのである。


『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『台湾』
『小琉球』

『東シナ海』

『沖縄』

『ゴビ砂漠』
『タクラマカン砂漠』

『与那国島』

『蓬莱』

『ニンフ』ニュンペー

『鳳凰』

『徐福』

『四神』

『ヴィシュヌ』ビシュヌー大神
『ガルダ』金麹鳥(きんしちょう)

『朱雀』


初め大和はヤマトとは無関係だった

しかしたとえ台湾「タイワ・ン」に合う発音をもっていたとしても、

「大和」という文字があったとはかぎらない。

まだあやしいと思う人もあると思う。

そこで、間違いなく「大和」という文字が使われていたのだ、

という証拠をご覧にいれよう。

鹿児島県の奄美大島に大和村(やまとそん)がある。

学界では、私(加治木義博)がこの台湾の大和を発見するまでは、

その奄美の大和村が最南端の大和だとされてきた。

そしてそれは奈良の大和(やまと)をまねてつけた地名だとか、

いや大和(やまと)朝廷の役所があった遺跡だとか、

いや単にヤマトンチュウが住んでいたからだなどと、

さまざまな説がいわれてきた。

だがご存じだと思うが、

この辺りは江戸時代の初めまでは琉球国に属していて、

大和朝廷の役所があったことなんかない。

ではヤマトンチュウが住んだからか?

それもちがう。

なぜなら「大和」は今でこそ「ヤマト」と発音しているが、

それは絶対にヤマトとは読めない漢字だから、

かりにヤマト人が住みついたとしたら

「山門(やまと)」かなにか、

もっと別の「読める漢字」を使う必要があったからだ。

正確に琉球と日本の歴史を話せば、

1441年(嘉吉(かきつ)元年)

島津忠国が、

将軍職を追われて九州に逃げた

大覚寺(足利)義昭を討ち取った功績に対して、

将軍・足利義教(よしのり)が忠国に琉球を与えたが、

島津氏は現実には支配せず放置していた。

それに目をつけたのは、

秀吉の朝鮮侵略で断交していた明(ミン)との貿易を、

琉球経由で再開しようとした徳川家康だった。

その命で、

山口直友が島津氏に琉球支配を厳しく督促したので、

最初は琉球政府に日明貿易の仲介をさせようとしたが、

琉球政府は明の政策には逆らえないとして従わなかった。

そのため慶長十四年(1609)三月、

千三百人が七五隻(せき)の船に分乗して、

途中奄美大島などで戦いながら、

25日、古宇利(こうり)(高離)島に上陸したので、

琉球政府は27日講和を申し入れ、

四月一日那覇(なは)に入った島津軍に正式に無条件降伏し、

27日首里の王城を明け渡して戦わずに島津領の中に入った。

待っていた幕府は直ちに島津氏に琉球領知の黒印状を交付した。

だからそれ以前に大和(やまと)朝廷の支配などまったくありえなかったし、

ヤマトンチュウは敵で、

自分の村にヤマトという名をつける理由などはなかった。

琉球王朝初代の舜天(しゅんてん)王は源為朝だという伝説や、

鬼界ガ島に流された僧・俊寛(しゅんかん)も、

この大和村とはなんのかかわりもない。

私の一族や知友は大島にも多いので徹底して調べてもらったが、

これ以上のことはわからなかったし、

島津家文書など関係古文書もあまさず調べたが、

今までにこれを変えるような資料は見つかっていない。

だからこの大和は古代のもの、

台湾を起点に次第に北上する

「大和=タカ=ウワ=アカ」の二番目のものだったのだ。

台湾には文字は残らなかったが

「タイワ・ン」の発音だけが残った。

大和村では発音は残らなかったが、文字だけが残ったのである。

『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『台湾』
『小琉球』

『奄美大島』
『大和村』

『大和(やまと)朝廷』ヤマト王権

『薩摩藩』

『島津家文書』

『島津忠国』

『鬼界ガ島』鬼界ヶ島

『俊寛』

『源為朝』

『足利義昭』
『足利義教』

『古宇利島』(高離)島

『琉球王国』
『舜天』

『那覇』

『首里』

『日明貿易』

『征伐』
『文禄・慶長の役』


倭も高も日本も元は同族

無関係というのは日本生まれではないという意味で、

この大和は反対に、日本の古代のさまざまな名前が、

それから、いつ、どこでどんなふうに分かれて生まれたかを教えてくれる。

それは最初、もっと西のほうで、

ソナカ仏教布教団が「ウワイ」と呼ばれ始めたとき、

まずその発音が生まれた。

それは台湾まできて、

そこにいた琉球人によって

「ウ」は「大」、

「ワイ」は「和」と当て字されたのである。

これが「大和」という当て字の最初だ。

しかしこの文字は方言の違いなどでさまざまに読まれて、

「タイワ」「ダイワ」「タイカ」「タカ」「オオカ」「オカ」「ウカ」「アカ」

という別名のように呼ばれることになった。

同じ「大和」が相手によって異なった発音の名になったのである。

同じことは日本の名でも起こっている。

ニホン、ニッポン、ジャパン、リーペン、ジープン、ジャポネ、ヤポネ、ハポン。

文字とは関係なく発音だけでもこんなに変化するのである。

これで倭族と高族と岡族が同族で、

岡本から大日本(おかもと)という当て字が

生まれることもわかるから日本も同族。

大鹿、大賀、相賀と別の当て字が生まれていった筋道もわかる。

それが台湾をタイナロンと呼ばせ、

今も高砂(たかさご)と総称される人々や、

タイヤルと呼ばれる人々を残し、

タイワンという発音を残したが、

同時に日本を代表する国名としての大和も産み出したのである。

『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『台湾』

『台湾原住民』

『高砂』

『タイヤル族』

『漢民族』

『中華文化』


壮大な倭人(ウワイト)「五彩圏」の実在

しかしその色の名はまぎれもなく日本語で、

私たちと同じ言葉を話す人々がつけた名である。

それが日本を超えている部分ではカリなどと、

インド語のままの場合もあるが、

それもその土地の言葉が強く土着していたため、

そこでは日本語化しなかったためなのである。

この「言葉はその土地に土着する」という例の原則を知っていれば、

アオ、アカ、シロといった言葉で呼ぶこの方角を示す地名は、

日本語の通用した土地だけで生まれたものであって、

それ以外のところで生まれたのなら、

その土地の言葉で表現されたはずだとわかる。

それは古代日本人が、

自分たちの勢力範囲の頂点にある国々の名としてつけた国名である。

だからその五色の国名に囲まれた地域は、

当時の古代日本人=倭人(ウワイト)の政治圏だった。

だから私(加治木義博)は、

その「五色の国名に囲まれた地域」を

できるだけ短く表現するために、

「五彩圏」と呼ぶことにしている。

この「五彩圏」は台湾を南の赤にとると、

さらに壮大な広がりを持つようになる。

奈良に倭(オオ=青)の国が移ったときの黄は九州になるからである。

「キウシウ」という発音に注意して、

それがどういう意味をもっているか考えてみなければならない。

「黄+ウシウ」は「ウ=大」で後に「シウ」が残る。

これは「州」のままでいい。

「黄大(キウ)洲」「黄の大きな島」という意味になる。

このサイズに合う北の黒は高麗(こうらい)では少し近すぎる。

もっと北を捜すと、そこに「カラコルム」がある。

これは蒙古大帝国の首都だった。

その漢字の当て字は「和林」である。

林の字は中国では

「翰林(かんりん)=文筆人の集っているところ=学者の詰める役所」

「林立(りんりつ)=群れをつくつて並び立つ」

「林林(りんりん)=多く集まり、盛んなありさま」

といったふうに、

人がたくさん集って盛んなところを意味しているから、

「和林」とは「和人の大都市」という意味なのである。

モンゴル人は『ジンム』でお話ししたように、

もともと「和人=カリエン人」の中の

「潜る人=モングル人」だったのだから

「和人」と書かれるのは当たり前なのである。

彼らはその国の北にある湖で貝を採るため

そこへ移住した人たちの子孫である。

それは湖の名が記録し、立証している。

その名は日本語で「貝・猟る・湖=バイ・カル湖」という名だし、

その辺りは寒く凍(しば)れて滑(しべ)土地だというので、

日本語の東北訛りで

「シベリ国(ヤ)=シベリ・ヤ」と呼んだ。」

中国も「倭人(ウワイト)」とは無関係ではない。

奈良に倭国が栄えたころは

中国「五胡十六国時代」。

和人とその仲間が中国政界の主役だったのである。

「2つの大五彩圏」

シナ(支那)はキナで黄である。

新羅もシンはキンで黄である。


バイカル湖
カラフト(黒)
カラコルム(黒) 



高句麗(黒) 


シラムレン(白)  (白)シナ(キナ)  (白)新羅(黄)   倭オオ(青) 



大和アカ(赤)

『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『アカ』赤(色)
『アオ』青(色)
『シロ』白(色)
『クロ』黒(色)
『キ』黄(色)

『台湾』

『九州』

『高麗』

『モンゴル帝国』
『カラコルム』

『シベリア』
『バイカル湖』

『カラフト』樺太

『高句麗』

『シラムレン』道武帝

『シナ』支那

『新羅』

『五胡十六国時代』


北上し東進した壮大な「五彩圏」大移動

「烏帽子(えぼし)のルーツ」

左 ラマ僧帽 チベット・ラダックにて。

右 アテナの冠 
アテナ=紀元前4世紀の
アッチカ黒絵土器の「パリスの審判」の一部。
アテネ市立美術館蔵。

『考える「考古学」のスタート』

これで、五彩園の中だけで使われた

「三角縁神獣鏡」と呼ばれる鏡が、どんな性質のもので、

どこで生産されていたか、ということが、

あらましではあるがおわかりいただけたと思う。

こうした史実は、在来のような古鏡の背面図を「美術」としてみたり、

「信仰」を表していると説明するだけの学問が、

すでに遠い過去のものになったことを教えてくれる。

そんなものでは、とうてい歴史の解明というような難しい作業はできない。

それはその使用者の科学知識や、

経済状態、政治的立場、人生観、理想、願望、信仰、技術、戦術、

そしてなによりも、

そうした文化を生みだした文明の流れと交流といったものを、

ことごとく表現しているのである。

それらを見抜いて一つ一つ比較し、

分析できなければ

「考える」学問である「考古学」の「学者」とはいえない。

これはただ、一(いち)「三角縁神獣鏡」だけの問題ではない。

あなたはこれからは、

過去に発刊された学術書のすべてを、

こうした観点から採点しながらお読みになると思う。

そしてこの本を境に、

世界の考古学も、史学も、

画期的に大変化を遂げたのだとお気づきになるはずである。

『参照』

WAJIN(建国前夜の巨大連邦発見):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/38608113.html


『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『烏帽子』

『チベット』
『ラダック』
『チベット仏教』
『僧』

『アテナイ』
『パリスの審判』

『三角縁神獣鏡』

『考古学』


仏は「胡鬼」と呼ばれた

あなたは『牡丹灯籠』という怪談をご存じだと思う。

カラン、コロンという下駄の音を響かせながら、

絶世の美女が小さな少女に牡丹の花の形をした

灯籠を持たせて、夜になると訪ねてくるお話である。

あれは日本の話のようだが、原話は中国の明の初めに書かれた小説で、

『剪燈新話(せんとうしんわ)』

という本に入っている物語の一つである。

その本には『太虚司法伝(たいきよしほうでん)』

という物語もあるが、それに次のような部分がある。

ある男が戦火で野原になってしまった村の跡を通ると、

死骸の群れを食いあさる怪物に見つかって

追いかけられ破(や)れ寺に逃げこむ。

見ると大きな仏像の背面に人が入れるほどの

穴があいているので、夢中でそこへ逃げこむ。

すると仏像が喜んで

「腹がへって弱っていたら、ご馳走が自分で飛びこんできたわい!」

と太鼓腹を叩きながら立って歩き始めた。

ところが鴨居に頭をぶつけて後ろに倒れてバラバラに壊れてしまう。

胸をなでおろして立ちあがった男は、

「胡鬼め、ざまぁ見ろ!」

とその頭を蹴飛ばしたといったお話である。

話の中身はどうでもいいが、

問題なのは「仏」を「胡鬼」と呼んでいることである。

明代の中国人は仏教は胡人の宗教だと知っていたのである。

もちろん「胡鬼」というのは、軽蔑した表現である。

ことにこの話の場合は、

自分を食物あつかいした敵に対する怒りもあるから、

悪い言葉で毒づいたことも理解できる。

しかし事情はどうであれ、

当時、そんな名前が通用していた事実はわかる。

そして当時の中国での仏教に対する考え方と、

仏教の社会的地位がわかる言葉なのである。

それは同時に、

明に滅ぼされた「元」のモンゴル政権に対する憎しみも籠っている。

元は仏教の一つであるラマ教を国教にしていた。

そして村々にもラマ廟を建てた。

あなたもよくご存じの中国式の仏塔

(日本の五重の塔と違って非常に高く、レンガ積みの多角の塔)は、

その元代にいちばん多く建てられた。

だから「胡」というのはモンゴリアンを指している。

これまでお話ししてきたことが正しいことを、

この言葉は幾とおりにも証明しているのである。

「中国の仏塔」

アショカ〈阿育〉王寺仏塔。

中国漸江省にあるこの寺は、

アショカ王が世界に頒布した

8万4千の宝塔の一つを本尊にしている寺として有名だが、

この古塔はその前に建っている。

これは元の時代、

1364年に、それまで建っていた古代からの塔を壊して、

その跡にこの塔を4年がかりで建てたという記録が残っている。

中:中華人民共和国・広東市の「潮州仏塔」

14世紀の元の時代に再建。

右:中華人民共和国・上海市「龍華仏塔」

3世紀の塔の跡に1411年再建。

『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『胡』

『』

『鬼方』

『明』

『中国古典文学大系』剪燈新話(せんとうしんわ)

『元 (王朝)』
『モンゴル帝国』

『仏教』
『チベット仏教』ラマ教

『仏塔』ストゥーパ(stûpa)

『卒塔婆』

『アショーカ王』アショカ〈阿育〉王


史実を脚色して書かれた「悪王列伝」

「胡」の名が出たついでに、もう少しお話をしてみよう。

それは五胡十六国時代のエピソードである。

407年に建国して20年ほどで滅びた

大夏(たいか)の王・赫連勃勃(カクレンボボ)という男は

残忍無類なやつで、

部下が気にさわったといってはその場で斬り殺し、

愛想笑いをしたといっては唇を切りとり、

目つきが気にいらないといっては目をえぐりだし、

こうしたことを諌める心からの忠臣があれば、

その舌を切りとって殺した。

『剪燈新話』中の「緑衣人伝」にも

宋の賈平章(かへいしよう)が、

同じような残酷な仕打ちを日常の習慣はしていたことが書いてある。

人間の仕業だなどと思いたくない話ばかりだが、

人間は暴力で生殺与奪ができる立場になると、

ヒトラーや織田信長のように、

常識はずれな悪逆の限りをつくす下等な生物である。

だから、どんなことがあっても独裁権を与えてはならないのだ。

だがまた、どんなに立派な歴史家でも、

人間である以上、自分の特権をふるえるところでは、

やはり多少の手心を加えて、

自分の不満や復讐心を満足させようとすることはあるはずだ。

歴史家の中でも世界で一~二を争う

司馬遷(しません)は、

わずかなことで漢の武帝にひどい刑罰を受けたから、

武帝を恨んでいないはずはない。

『史記』を分析してみると、

武帝を秦の始皇帝におきかえて、

徴底的に悪王に仕立てていることがわかる。

この二人の皇帝がよく似たことをするのは、

武帝が始皇帝をまねたのではない。

司馬遷の復讐のための風刺なのである。

それは読む者が読めば武帝のことだとすぐわかる時代に

書かれたのである。

始皇帝が死を過度に恐れ不老不死を求めて、

結局、山東で毒を盛られて間もなく死ぬ。

あくどい手段で得た絶大な繁栄も水の泡というすべてが、

武帝への「当てつけ」なのである。

こうみてくると『日本書紀』の「悪王列伝」も、

あながちウソばかりで固めたとはいえなくなる。

火のないところに煙は立たない。

むしろそれを書くのを避けた

『古事記』のほうにウソがあるのかも知れない。

しかし私たちの目的はそんなことをセンサクすることではない。

どんな人々のあいだに何があったかが知りたかった。

そしてそれはもう完全に知識になった。

問題の「武」は、高と呼ばれ、狗と呼ばれた和人=カリエン人の仲間で、

それは『ヒミコ』『ジンム』『コフン』でお話した人々を意味したことが、

もう一度、ここで改めて確認できることになった。

なぜならそれらの「コウ」「ク」は、

中国人が「胡(コ)」と当て字した人々と同じ人々を指していたからである。

といってもそれは幾つものルーツをもつ人々の寄り集まった混血集団が、

またさまざまに分裂した人たちであって、

太古から「万世一系につながった純血の民族」なんかではなかった。

それは日本人の顔を注意して見るとよくわかる。

私たちの先祖が単一民族だなどと信じている者は、よほどのウカツ者なのである。

『参照』

HIMIKO(黄金の女王卑弥呼):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/36888899.html

JINMU(卑弥呼を攻めた神武天皇):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/37383589.html 

KOFUN(誰が巨大古墳を造ったのか):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/38089137.html

WAJIN(建国前夜の巨大連邦発見):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/38608113.html

TAIKA(虚構の大化改新と日本政権誕生):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/38975948.html

YAMATO(謎の天孫降臨と大和朝廷の秘密):『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/39941955.html


『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『胡』

『五胡十六国時代』

『大夏』

『中国古典文学大系』剪燈新話

『織田信長』

『司馬遷』

『武帝 (漢)』

『史記』

『始皇帝』

『日本書紀』

『古事記』


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