2012年1月22日日曜日

百済仏教とは



 《百済仏教とは

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 「盲点にあった源流」百済系日本人のルーツはどこか


 日本の仏教は百済から入り、

 百済へは中国から渡来したというが、

 それを具体的に示すものはなかった。

 チョニには能装束の他にも、

 日韓と共通の風俗が沢山ある。

 ことに仏教に関連して、

 一見奈良を思わせる多くの共通性が、

 他のどの地域にも見られない程大量にある。

 ここにあげなかったが高さ12mに及ぶ大仏までそろっている。

 チョニはチベットとモンゴルに

 隣接するので当然ラマ教であるが、

 どちらにも共通性をもたずに、

 かえって日韓の方に近いのである。

 百済仏教なるものの正体と、

 百済人の日本への帰化等の、

 謎を解明する鍵がチョニにはある。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『百済』
 『仏教』
 『甘粛省甘南(Gannan)地区卓尼県(Zhuoni)』チョネ県

 『甘南チベット族自治州』
 『甘粛省・甘南チベット族自治州ランムー寺の晒仏祭』
 『チベット』
 『モンゴル』
 『ラマ教』チベット仏教

 『能』



 『天孫降臨』の原型は逃亡コース

 『先代旧事本紀』

 [天孫本紀]

 「この尊、天神御祖の詔をおうけして、天の磐船に乗り、

 河内の国の河上の、哮(イカル)ガ峯に住まわれ、

 さらに遷(うつ)って大倭国の鳥見の白庭の山に住まわれた」。

 ここでは「天の磐…」は「天の磐船」という名の「船」になっている。

 ニギ速日は枚方戦争で敗れたとき、どうしたのであろうか?

 地図を見ると、その枚方から奈良へ入る

 「磐船街道」というのがある。

 だから天から「磐船に乗って」という非現実的な表現を、

 7世紀の史実として「磐船を通って」に変えてみると、

 彼は敗戦後、

 どうやら奈良へ逃げこんだらしいことが浮かび上がってくる。

 そうなると次の

 「河内の国の河上の、哮(イカル)ガ峯」も現実味を帯びてくる。

 枚方は河内の国で、

 その磐船街道を進んで交野(かたの)川沿いに

 「川上」の山地に入ると、

 すぐ左に「磐船神社」があり、

 約1キロメートルで奈良県に入る。

 奈良は8世紀の「大倭国」である。

 そしてあと約7キロで生駒市「富雄」に出る。

 これは「鳥見(とみ)王=豊日王」と一致する。

 そこからさらに約7キロのところに「斑鳩(イカルガ)」がある。

 これは「哮(イカル)ガ峯」の「イカルガ」と一致している。

 これをニギ速日が逃げたコースだとみると、

 明瞭に謎が解ける。

 斑鳩(いかるが)は山地にあるから

 「峯(ほう)」と書かれてもおかしくないが、

 これを同じ発音の「豊(ほう)」または

 「豊日(ホホ)」への変え字だと見ると

 「哮ガ峯」の原型は「斑鳩・豊」を

 「イカルガ・ホー」と発音したものだったことになる。

 あとには「白庭」しか残らないが、

 これも斑鳩にある古墳で有名な「藤の木」という地名を考えると、

 「藤=フジ」は百済(ホゼイ)の沖縄読み「フジ」に一致するから、

 「白(ハク)」は百(ハク)、

 「庭(てい)」は「デイ」と読むと

 「済=ゼイ」の関西訛りへの当て字になる。

 これは、百済倭国が斑鳩に移転したということを、

 敗北者には、

 そのまま百済と書けないので

 「白庭(はくでい)」と暗号化して書き残したとみるのが一番妥当である。

 またこれを「白=シラ=ヒラ」と読んでも同じ地域になる。

 それは斑鳩の隣りは

 「平群(へぐり)」で、

 これは「ヒラグン」と読めるからである。

 これは「日羅(ヒラ)国」で、

 日を「ホ」と発音すれば、百や豊と同じになる。

 これも「豊日(ホ)の国」を勝者の

 日本政権に気兼ねして、字を変えたもので、

 もとは「日ホ奴ダ羅ラ=国」であり、

 「ホ」を「フ」と発音する

 沖縄~大隅語では「フダラ」で、

 結局は百済と同じ地名だったのである。

 これは中国で後世に「普陀落」と当て字して、

 観世音菩薩の住んでいるところだとした地名で、

 『日本書紀』が記録した

 「百済仏教」とは何だったかを物語っている。


 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『天孫降臨』 

 『先代旧事本紀』

 『天孫本紀』

 『十種神宝』

 『磐船神社 (交野市』
 『磐船神社 (河南町)』
 『物部氏』

 『斑鳩宮』

 『清滝街道』磐船街道

 『ニギハヤヒ』

 『交野市』

 『富雄川』

 『藤ノ木古墳』

 『平群町』

 『普陀落』補陀落

 『観世音菩薩』観音菩薩



 ではいったい『日本書紀』の

 [欽明天皇紀]とは何だったのだろう。

 いうまでもなく欽明天皇は、

 先にお話した複数の国々のうちの、どの国かの王であって、

 当時、統一日本が存在しなかった以上、

 誤信されているような

 「統一日本の天皇」ではありえない。
 
 なぜなら倭国と日本が始めて一つになったのは

 彼の時代から遥かに後世の670年で、

 「天皇」という称号も天武天皇が考案して採用するまでは

 日本にはなかったからである。

 欽明天皇は、

 多くの国々に分かれていた時代の王たちのうち、

 主だった王を、

 統一日本の先祖として

 「寄せ集めて」

 「つなぎ合わせた」

 『天皇系譜』の中の一人なのだ。

 では彼は、そのうちのどの国の王だったのだろう?…。

 それは朝鮮の正史

 『三国史記』と『日本書紀』を照合してみるとすぐわかる。

 『三国史記』では彼と孫の王までの3代は

 [高句麗本紀]の中に出てくる。

 なぜそれがわかるかというと、

 この3代は一見しただけですぐわかる同じ名乗りを、

 双方の記録にもっているからである。

 その詳しいお話しは長すぎるので次回にお話しするが、

 だから『日本書紀』が書いている

 「仏教が百済から来た」というのは、

 百済と高句麗の間の話であって、

 これまで考えられていたような単純な

 「日本」の歴史の話ではないことが、

 あなたにはもう、

 よくおわかりになったと思う。

 そして欽明天皇に仏教を伝えた

 「百済」こそ、

 位宮と壹與の邪馬壹国に倒された

 「卑弥呼の倭国」の後身そのものだったのである。

 このことは「百済」とは何だったかが

 わかれば一層はっきりするが、

 今回は予定の紙数が一杯になったので、

 それも次回に詳細に謎解きをしてご覧にいれよう。
         

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『日本書紀』
 『欽明天皇』
 『仏教公伝』
 『三国史記』
 『百済』
 『高句麗』
 『卑弥呼』
 『壹與』台与



 「パーリ語とは

 仏教を世界に広めた

 アソカ王(古代インド・マガダ国王)

 王子マヒンダが

 紀元前243年スリランカに派遣されて、

 スリランカ王デーバナンビヤティツサ

 信者にし国民に広めた

 小乗(上座部)仏教の経典

 使われていた用語を、聖典という意味で

 パーリと呼んだ言語のことである。

 アソカ王たちはインド~アーリヤ系の

 シンハラ人で、その言語はシンハリ語だったから、

 パーリ語は釋迦が話した言葉を記録したもので、

 Sakya サキャ(塞・スキュタイ)語

 インド語化した言語である。

 だから今のシンハリ(スリランカ)語でも

 タミル語でもない。

 それが何故?いつ?どんな風に?、 

 このあと見本ご覧にいれるように実に

 大量に日本語に混入し、
 
 私たちが立派な日本語として日常使うようになったのか?。

 「我が国への仏教初伝は弥生時代誕生期

 このことは誰もが我が国への仏教伝来を

 連想するが在来は日本の仏教は

 5世紀に初めて朝鮮半島の百済から伝わったとしてきた。

 それなら当時は中国仏教の最盛期だから

 渡来したのは全て漢訳仏典で、

 そこに書かれたものは中国語だ。

 それがどんなに普及しても原語のパーリ語とは無関係で、

 パーリ語が我が国で大量に日常語化するはずはない。

 ところが今発表する

 「日本語化したパーリ語」の発見数は

 5000語を遥かに超えている。

 これは明かに5世紀の百済仏教伝来とは無関係に

 パーリ語を話す人々が大量移民し、

 日本語を大変貌させるだけの大勢力をもっていた事実を立証している。


 「東方仏伝の指揮者ソナカと神功皇后夫妻

 その移民の時期はいっだったか?

 それもはっきり突き止めることができた。

 アソカ王命をうけて東方へ出発したのは

 ウッタラ宣布団

 ソナカ宣布団とで、

 双方とも我が国に多くの遺物を残しているからである。

 最初に彼等がやってきた時期は

 5世紀より遥かに古く、弥生時代の開始期に一致し、

 第二波の渡来は紀元前後だと特定できている。

 それは卑弥呼で名高い

 『魏書』の倭人(ウワイト)の章に

 巴利国と不弥国が記録されているが、

 巴利はパーリ。

 不弥もブーミ=新国土を意味するパーリ語だからである。

 そればかりではない。

 神功皇后夫妻の名は共にソナカに対する当て字で

 東方仏伝の指導者ソナカと同名だし、

 皇后のサニワを勤めた武内宿祢のそのサニワとは、

 やはりパーリ語で大臣を意味する

 sajiva への当て字であるといった物証が

 『記・紀』その他に充満している。

 それらもすでに大量に考証済みで、

 『記・紀』は今や信頼度の高い史書に変貌した。

 「日本人蔑視を吹き飛ばした成果

 数個の言語が似ているだけなら偶然とか

 「他人のソラ似」ということもあるが、

 ご参考までにこの後に添付したサンプル語だけでも300語に近く、

 それだけでもパーリ語と日本語が似ているのは偶然だ、

 などという反論は完全に消滅する。

 パーリ語が現代日本語の母であることと、

 その単語の質の高さによってそれが

 古代日本文化を飛躍的に高め、

 近代の日本人発展の基礎になっていたこともまた疑う余地がない。

 日本人蔑視は跡形もなく消えてしまう。

 「ヒエログリフ解読を遥かに超す発見

 これはナポレオン軍が

 ロゼッタ・ストーンを発見して欧州に持ち帰り、

 それがヒエログリフ解読を可能にしたのに似るが、

 それによって得られたものは、

 壁画や彫刻などに残された文字から、

 古代エジプトの文化が僅かに読み取れただけでしかない。

 それに比べるといま曲がりなりにも

 超大国である我が国の古代文明を、厖大な量の言語で、

 当時のまま白日のもとに明かにする今回の発見は、

 日本人だけでなくアジアにおける古代人類文明の実態を明かにした、

 質、量ともに希に見る巨大な発見なのである。

 それは単に古代エジプト文字が読めたといった程度のものではない。

 世界の一大指導勢力でありながら従来は

 正体不明の孤立語を話す小さな島国人とみられてきた

 日本人観がどんなに間違っていたか、

 また古代日本人が当時の世界でも希な、

 どんなに凄い先進文明の持ち主だったかまで

 徹底的に立証しているからである。

 これほど強力かつ重要な言語学上の発見は、

 人類史上いまだかつてない。

 「解けた弘法大師伝法の謎

 それはまた例えば宗教学上の永い謎もとく。

 弘法大師空海は中国へ留学して短期間に

 インド出身の老師の教えを吸収し、

 仏典の原典を読み、

 永年修行に励んできた

 中国人の先輩たちを超えて、

 法灯を授けられて日本へ持ち帰った。

 これは大師の天才によるものとはされても

 なお大きな謎を残してきたが、

 いまパーリ語と日本語の謎が解けてみると、

 言語の上でも大師が中国人先輩たちより

 遥かに有利だったことがよく理解できて、

 大師が受けた栄誉が真実であり、

 それを奇跡としてきた一切の謎が解けるのである。

 次に抜粋したそのサンプルは300語弱であるが、

 ほとんど説明なしに、

 一見してご理解いただけると信じる。

 それらが僅かな発音差による変化で

 現代語にまで移行するのは、

 沖縄・南九州の、

 いわゆる方言を経過した結果だということも、

 よくおわかりいただけると思う。

 『語句説明』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 『パーリ語』
 『阿育王』アショーカ王=アソカ王
 『マガダ国』
 『インドの仏教』
 『上座部仏教』小乗(上座部)仏教
 『経典』
 『聖典』
 『シンハラ人』
 『シンハリ語』
 『釋迦』
 『スキュタイ』スキタイ
 『アーリア人』
 『スリランカ』
 『タミル語』
 『神功皇后』
 『仲哀天皇』
 『記紀』
 『ヒエログリフ』
 『ロゼッタ・ストーン』
 『弘法大師』空海

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